剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 21
人外に取り憑かれているイリヤがホテルのバーから逃走して僅か十数分後、悟はある病院にやって来た。名古屋市内の大きな総合病院だ。日付けも変わろうかというこの時間、通常なら見舞い客が入ることなどできないが裏口は開いていた。ホテルから近いため悟は徒歩で訪れた。
「まさか、あなたが来るなんて思ってもいなかったなぁ」
ドアに面会謝絶の札がかかった病室のベッドの上で、エカテリーナは意外そうな顔をした。さきほどリンクの上で倒れ、痛みに悶絶していた彼女だったが、医師の治療の甲斐があったようで今はケロッとしている。
「よく入れたねぇ、ニホンの病院って面会時間に厳しいんでしょお」
「有名人特権さ」
悟の返答はウソである。県警から病院側に口利きしてもらったのだ。逃げ出したイリヤが実の娘に会いにここを訪れたのではないかと考えたのだが……
「ねぇ、イリヤはどうしてるぅ?」
相変わらず間延びした口調で話すエカテリーナの様子から察するに、勘は外れたようだ。ならば、なんとかしてイリヤの居場所を探さねばならない。
「さっきまで俺と楽しく飲んで騒いでたよ」
悟はまた嘘をついた。イリヤが人外の存在に取り憑かれていることは、今の時点では伏せるつもりだ。病床のエカテリーナの心と身体に障るのはよくない。いずれ、わかってしまうことであるが。
「まったくぅ、コーチなんだから見舞いにくらい来いっつーのぉ」
「君に怪我を負わせた負い目があるのさ。だから、ここに来ることができないんだ」
「ぶうーっ」
と、エカテリーナは布団を頭までかぶってしまった。幼い口調に似合わず頭が良い娘だと聞いている。すでに大学進学を表明しており、スポーツ科学を専攻する予定だという。
「痛くて眠れないのか?」
「さっきまでぐっすり寝てたよぉ、麻酔効いてたしぃ」
顔を隠したエカテリーナの声がくぐもっていた。かぶった布団のせいだけでなく、心が泣いているのかもしれない。ライバルの美冬に試合で負けた悔しさ。もう二度とリンクに立てない自分の身体。口調とは裏腹に、つらい想いを抱いているはずである。
「ねぇ、
彼女は布団から目と鼻までを出した。グレーの瞳は“人”だったころの母イリヤと同じ色のものである。
「あたしとイリヤが母娘だってことには、気づいてるんでしょお?」
さすが頭脳明晰な彼女は勘も働くようだ。
「君も知ってるのか」
「里親に引きとられたあたしがイリヤに師事した理由は、ホントのママだったからだよぉ」
病室のパイプ椅子に腰かけた悟に対し、エカテリーナは言った。
「母娘だってことは世間には秘密にしようと、あたしとイリヤのふたりで決めたの。理由は実のパパに迷惑がかかるから。あたしにとって父親は、さほど大事な存在ではなかったけど、イリヤがそう願ったのぉ」
さきほどイリヤは、エカテリーナの父親は政治家だと言っていた。母娘だと公表していれば世間の詮索が始まっていたことだろう。イリヤにとっては大事な男だったに違いない。
「ミフユのボディーガードはいいのぉ?」
と、訊ねるエカテリーナは美冬に脅迫状をおくった主がイリヤだとは知らないのだ。母が実の娘を勝たせるためにやったことだが、それを知ったら彼女はどう思うものだろうか。
「イリヤは明日からミフユだけのコーチだねぇ、あたしはもう競技を続けられないもんねぇ」
「君が美冬にいちいち突ッかかってたわけは、母親を取られると思ったからか?」
悟がそう言うと、エカテリーナは少しだけ沈黙したが、すぐに回答をよこした。
「そうだよぉ、あたしにとってイリヤはコーチである以前にママだもん」
エカテリーナは鼻をすすった。娘がいだく万感の思い、ここに極まれりといったところか。
「フリーで美冬と同じ『白鳥の湖』を使ったのも、それが理由か」
「同じ曲で勝てば、ママはあたしだけを見てくれるかなーって思ったんだよぉ」
実力で美冬を圧倒していても、それだけでは足りなかったらしい。新女王にとって旧女王は競技者としても娘としてもライバルだったのだ。エカテリーナを倒せるのは美冬だけ、とはさきほどのイリヤの言だが、エカテリーナのほうは母の寵愛がほしかったのだ。娘としての独占欲があったのである。頭は良くとも、年相応のそういう心理は持っているらしい。
当然のことだが、ふたりの女王のコーチであるイリヤには葛藤があったはずだ。かたや血がつながっている実娘、かたや付き合いの長い教え子。どちらを優先するか、という苦悩は心に影と陰をもたらしたに違いない。母としても指導者としてもつらいことだったろう。人が人外の存在に取り憑かれる理由は様々であり、原因を特定することは難しいが、そういった心的要因が内面に闇を作り出し、陰性気質……すなわち負の気に侵された状態となる。人外が糧とする体内環境だ。
「言っちゃ悪いけどぉ、あたしの身体がこんなんじゃなかったらミフユに負けることなんてなかったんだからね。あの年でお嬢様みたいな演技しかできないミフユはまだまだ未熟だよぉ」
十七歳であるエカテリーナが二十三歳の美冬を“未熟”と評した。それを聞き、悟は少し笑ってしまったが、妥当な論評だ。清楚で可憐な演技を得意とする美冬は年下のエカテリーナのような妖艶な大人の表現力を持たない。なにより新旧の女王間には技術的な差が大きい。もしエカテリーナが再来年のオリンピックに出られたならば、金メダルは間違いなく彼女が取ったろう。
「最近のミフユは全盛期と比べてジャンプに入るタイミングがすこし遅かったんだよぉ。あれだときれいに飛べないねぇ」
「相手の演技をよく見てるんだな」
「それにミフユはステップのとき上半身に力が入りすぎてるんだよぉ。あれだと見た目が固くなっちゃうのぉ。バレエの基礎にもう一度戻ったほうがいいよぉ」
悟はエカテリーナが単なる天才ではないと知った。若くして整然とした理論を持っているようだ。
「ミフユの欠点なんかお見通しだよぉ。でも、あたしはもうリンクには立てない。実力はあっても運がなかったんだねぇ」
自分の技量と表現を自尊しながら運命を呪ったエカテリーナは、また布団を頭からかぶってしまった。
「君は頭が良いと聞いている。大学に進んで指導者になればいいさ」
一条悟という男は無責任な発言はしない。こういうとき怪我を治して現役復帰しろ、などとは決して言わない。
「指導者かぁ、それも悪くないかなぁ」
「君には、その“血”も流れてるから向いてるかもしれないぜ」
「イリヤ……ママの血?」
エカテリーナは布団から顔を出した。その仕草は年相応にかわいらしい。新女王と呼ばれた彼女は、いま現役の道を絶たれたあわれな少女に過ぎないのだ。
「ああ」
イリヤは自分の思いとは関係なく病気をエカテリーナに遺伝させた。それは母として痛恨の極みだったろう。ならばせめて、一生をフィギュアスケートに捧げることができる頭脳も与えたのではないか、そう悟は思いたかった。
「ママのような指導者にかぁ、もっと勉強しないとなぁ」
「君は学業成績優秀らしいな。大学へ進むんだろ?」
「なれるかなぁ」
「君次第さ」
「スピーディアって意外と優しいんだねぇ、もっとチャラくて軽薄で女ったらしって聞いてたんだけどぉ」
「ネットの噂なんて信じるもんじゃないぜ」
「イリヤに早く会いに来いって伝えてよぉ、母親なんだからさぁ。どーせ携帯切ってるんだろうしぃ」
「君との携帯がつながらないうちに、イリヤを口説こうかな? いまフリーなんだろ?」
「やめてよぉ、スピーディアがパパになるとか絶対にいやぁ」
エカテリーナの返答に対しヘラヘラと笑いながらも、悟は近々やって来るであろうイリヤとの対決を予感していた。
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