剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 20

「私は以前、ミフユの背後に“オリンピックの魔物”を見たのよ」


 イリヤは窓の外へと目を向けた。本来、グレーの色をしていた彼女の瞳は、このときなぜか黄金色へと変質した。


「オリンピックの魔物?」


 悟は色を変えたイリヤの視線の先を追ってみた。ホテル最上階のバーであるここから見える名古屋市内。その夜景の大半を占める光は、ふたりの会話がいったん中断しても流れを止めることはない。人工の輝きは星とは違い、常に動いているものである。人という忙しい生き物の脈拍と鼓動に合わせるかのように。


「そう、オリンピックの魔物」


 イリヤは立ち上がると、夜景のほうへと身体を向け、そのまま右の手のひらを窓に当てた。


「前のオリンピック、ミフユが銅メダルを獲得したことをご存知?」


「ああ」


「あの大会、ミフユはショートプログラムをトップで折り返したの。すでに全盛期を迎えていて、敵無しの強さを誇っていたあの娘は優勝候補の筆頭だった。誰もがミフユの金メダルを信じて疑わなかったわ。でも……」


「取れなかった?」


「そうよ」


 夜景を見下ろすイリヤは丈の長いグリーンのブラウスを着ている。その裾の奥にある子宮はエカテリーナという女王を産み、そして袖からはみ出す手は美冬という女王を育てた。新旧ふたりの女王は、この女が胎内と体外から作りあげたフィギュアスケート史に残る傑作だったと言えるが、最終的には母としての本能が指導者としての本質を上回ったわけである。娘のエカテリーナを勝たせるために教え子の美冬に脅迫状をおくり、プロの犯罪者に狙撃までさせたのだ。


「肝心のフリーでミフユはミスを連発して金メダルを逃したわ。直前の練習まで好調だったのに本番では別人のように精彩を欠いたの。私はリンクの上でもがき苦しむように演技をするミフユの背後にオリンピックの魔物を見たような気がした。いいえ、実際に魔物が見えたのよ」


 当時、すでにトップ選手だった美冬が心に抱えていた重圧は相当なものだったのだろう。周囲や国民の期待は本人の意思やペースとは無関係に膨大し、それが彼女を苦しめたに違いない。日の丸を背負う、などという美辞麗句は結果的に美冬の演技を大きく狂わせたのだ。


「あのオリンピックで金メダルを取ったのは当時、優勝候補二番手の選手だったわ。ミフユよりやや格下だったけど魔物が番狂わせを呼んだのね。いいえ、番狂わせと呼ぶほどの実力差はなかった。だから今ならわかるのよ。エカテリーナを確実に勝たせるためには、二番手のミフユが邪魔なの」


 次のオリンピックは再来年の二月である。つまり来期がオリンピックシーズンということになる。採点競技のフィギュアスケートで勝つためには、審査員の心象が必要、とイリヤは言っていた。そこで今のうちから手を打っていた。それが美冬の心を揺るがす脅迫状と狙撃だったわけだ。


「エカテリーナの病状が悪くなり、美冬との実力差が縮むおそれがあった。だから、あなたは美冬を脅すため脅迫状をおくった」


「そうよ、極論すれば、あの脅迫状の要求どおり引退してくれても良かったの。ミフユがいなければエカテリーナに迫る者はいなくなる。さすが私の教え子ふたりは今のフィギュアスケート界では抜きん出ているわ」


「女王を倒す可能性があるのは女王だけ、ってわけか。そして今度はオリンピックの魔物に食われるのがエカテリーナになるのではないかと、あなたは不安になったわけだ」


「実力でエカテリーナの下につけているミフユを排除しようと思うのは“母”として当然でしょう?」


「美冬のコーチとしては、どうかな?」


 悟が言うと、イリヤは黙りこくった。実娘のエカテリーナを勝たせるために、教え子の美冬に脅迫状を出したのが彼女である。悟のボディーガードに表向き反対しなかったのは、自分が犯人であると勘付かれないためだったのだろう。


「ねぇ、スピーディア。オリンピックが終わるまで、このことは黙っていてくださらない?」


 イリヤは立ったまま、顔だけを悟のほうへ向けた。相変わらず、その瞳は金色の光を放っている。もとは娘のエカテリーナと同じグレーだったはずだ。


「エカテリーナの復帰は絶望的よ。だから私には、もうミフユしかいないの。ミフユだけが私の夢を叶えてくれる教え子……」


「夢?」


「もちろん、オリンピックの金メダルよ。選手だけでなくコーチにとっても、それは夢であり名誉ですもの」


「美冬に脅迫状を出し、狙撃まで依頼したあなたに、そんな権利があるのか?」


 オリンピック・チャンピオンを育てることではなく、罪を償うことがイリヤの義務となる。彼女はおのが保身を求め、悟はそれを是とはしていない。両者の会話は、ただそれだけの意味しか持たないものである。


 いつの間にか、バーの客たちが武器を持ち、悟とイリヤの周りに立っていた。いや、客に見えたこの面々は異能者たちである。カップルのフリをしていた若い男女は拳銃を構えているが、彼らは超常能力実行局愛知支局のEXPER《エスパー》だった。おなじく銃を構える西洋人の男女は国際異能連盟のエージェントである。観光で訪れていた老夫婦に見えた二人は地元のフリーランス異能者。女の四人組は退魔連合会愛知支部の退魔士だ。みな客に化けていたのだ。イリヤを拘束するために……


「ねぇ、スピーディア……」


 イリヤは窓に手のひらを当てた姿勢のまま悟に金色の目を向けた。


「私はミフユのコーチとしては失格ね。でもエカテリーナのためにしたことは母として自然なものだったのよ。人の道から外れたことであっても……」


 わずか、ほんの一瞬のことだった。彼女の手のひらを中心として走った亀裂が、横の長さ十数メートルはあるこのバーのはめ殺し窓全体に走った。割れて散り散りとなった無数のガラス片が名古屋市内の光を浴び、流れ星のように輝きながら暗い大地へと落下したとき、店内と高層の夜空が繋がった。凄まじい風が入り込んでくる。


 取り囲んでいた超常能力実行局のEXPERたちと国際異能連盟のエージェントたちが反射的に構えていた拳銃のトリガーを弾こうとした。だが撃たなかった。“生身”の状態のイリヤを撃つと殺してしまうから躊躇したのだ。この場にいる退魔士たちがくだり魔の力を用い、“顕現”させてからでないと様々な意味での“問題”が起こる。“人”を攻撃できないのが泣き所である。


 四人の女性退魔士たちが異能力を発動する姿勢を見せようとしたとき、すでにイリヤは名古屋の夜景へと身を踊らせていた。“普通の人間”ならば死ぬ高さである。しかし、今の彼女は普通ではない。


『スピーディア、おぞましい“何か”が身体の中からあらわれる前に、私を捕まえて……』


 悟は、イリヤのそんな願いを聴いたような気がした。それはフィギュアスケートよりも力強く夜の街を舞う彼女の心の声だったのかもしれない。なにかを伝えようという精神の底には、まだ人としてのおもかげがあったのか。だが、肉体は日に日に蝕まれてゆく。この世のものではない、人ならざる“存在”に……


(イリヤさん、あなたはいつから人外に取り憑かれていたんだろうな)


 割れた窓から冷たく強い風が吹きすさぶなか、悟もまたイリヤが眺めていた夜の名古屋へ目を向けた。下に見えるあまたの光の中のどこかに彼女はいるのだろう。さっきまでいた異能者たちはすでにイリヤを追いかけてバーの外のエレベーターへと向かった。いま、ここにいるのは悟ひとりである。

 

(俺が、あなたを斬らなければならないか)


 風に逆立つ髪をかきながら、悟は夜景の中に、己の剣が持つ血塗られた宿命を見ていた。




 

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