剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 19

 

「エカテリーナは、あなたの“娘”だ。違うか?」


 悟が問うと、これまでイリヤが見せてきた四十路の熟達したポーカーフェイスに亀裂が入った。彼女の瞳から娘……エカテリーナと同じ色をしたグレーの光線が走った。


「なにを根拠に?」


「エカテリーナが患っている股関節異常は遺伝性のものだ。一億人にひとりいるかいないかの珍しい病気だが、発症するきっかけは百パーセント遺伝による」


「そんな理由で私とエカテリーナが母娘だということになるのかしら? おかしいわ」


「おかしくはないさ。なぜなら、あなたも彼女と同じ病気を抱えていたからだ」


 悟が言うと、彼の前にあるウイスキーグラスが硬い音をたてた。真実を覆い隠していた謎が氷とともに溶けた瞬間だった。


「俺がエカテリーナの病気に気づいた理由は、彼女が歩く姿を見たからだ」


 エカテリーナは歩くとき、やたら重心を沈めるクセがあった。股関節を形成する寛骨臼と大腿骨の結合部に、健常者にはない大きな隙間があることがこの病気の理由である。スポーツ競技を続けていたことにより症状が進行していたらしく表立った特徴が見られはじめていた。悟は以前、同じ病を患った者を見たことがあったため、エカテリーナの異変に気づいたのである。


「そして、あなたが歩くときも、たまに同じ特徴が見られる」


 悟はグラスの中のバーボンに少しだけ口をつけた。普段酒を飲まない身なので、あくまでも少し、である。


「あなたの場合は現役のスポーツ選手を引退してかなりたっているので、ずいぶん良くなっているみたいだ。だが、たまにエカテリーナと同じ歩きかたをする」


 悟は、そのことにも気づいていた。時々イリヤもエカテリーナと同じように重心を沈めて歩いていた。イリヤの場合は足腰に負担がかかる現役競技から退いて二十年ほど経過しているので、ある程度回復しているようだ。だが、それでも歩くとき、まれにこの病気の特徴が出る。また寛骨臼にある大きな隙間に大腿骨の結合部が食い込むため異常がある方の太腿側に体がかなり傾く傾向が見られる。イリヤもエカテリーナも右肩が大きく下がることが多かった。股関節まわりの骨が弱いため、人工股関節を埋め込むほどの強度がなく、有効な治療法がないのも難病たる証である。


「世界的にも症例が少ない病気を持つ者同士の師弟関係。そして同じロシア人。母娘と疑ってみるのもそう不自然ではないさ。俺は、ある筋に頼んで調査してもらった。そうしたら、十七年前に、あなたが医師免許を持たない闇医者のもとで極秘に女の子を出産していたことがわかった」


 イリヤに結婚歴はない。つまり、その産まれた子供……エカテリーナは私生児ということになる。


「商売柄、裏の情報屋とのつながりってのがあってね。もし、あなたが白状しなくても、エカテリーナと母娘だということを調べる手は、いくらでもある」


剣聖スピーディア、まさか私がエカテリーナを勝たせるために、ミフユに脅迫状をおくったとでもいうの? ミフユも私の教え子なのよ」


「しらばっくれると、その分、あなたの罪は大きくなるぜ」


 悟は確証に至る情報を手にしていた。数日前、裏稼業を生業とするプロの狙撃手が潜伏先のエルサルバドルで逮捕された。そいつは過去に殺人等いくつかの罪を犯しており、そのひとつがアメリカでの美冬の狙撃だった。現地警察の取り調べでわかったことである。そして狙撃を依頼したのはイリヤだった。


 イリヤは娘のエカテリーナと同じ色をした瞳を閉じた。が、やがて目を開けた。


「嘘は、つきとおせないものだわ」


 悟が狙撃手の件に触れずとも、彼女は折れた。もともと、この状況で隠し通す気はなかったのかもしれない。


「情報が発達したこの御時世に世間を欺いてきたのは見事、という他ないな。まァ、偉そうなことを言ったが、俺の情報網をもってしても、あなたの相手……エカテリーナの父親は判明しなかった」


「彼は妻子ある政治家だったのよ。私が現役を離れた直後、なにをする気力もわかなかったとき、そばにいてくれたの」


「そいつの権力が真相を闇に葬ったか。あなたが現役を退いた理由は、エカテリーナと同じ病気が悪化したから?」


「そうよ、むかしの私はエカテリーナやミフユほどではなかったけれど、それなりに期待されていた選手だったの」


 なぜイリヤが私生児としてのエカテリーナを産んだのか、そして父親が誰なのか。それらについて悟は訊ねなかった。女として、母として、子を産むことに理由など不要だと思ったからだ。父親の素性も悟が知る必要はない。美冬のボディーガードとして雇われている立場である以上、なぜ彼女に脅迫状を出し、そしてなぜ狙撃手を雇うほどの必要があったのか。それだけが重要だった。


「なぜ、美冬に脅迫状をおくり、引退を迫った?」


「その理由を説明しなければならないかしら?」


「やはり実の娘のエカテリーナを勝たせるため?」


「もちろんよ」


「どうして? ここ最近はエカテリーナのほうがノッてたんだろ。わざわざ、あなたが罪を犯す必要が……」


「あったのよ」


 イリヤはウイスキーにひとくち付け、グラスをテーブルに置いた。


「エカテリーナが唯一手にしていないタイトルは再来年おこなわれるオリンピックよ。それに確実に勝つためには、どうしても良い“心象”が必要だったの」


 採点競技であるフィギュアスケートは審査員の主観や選手に対するイメージが結果に反映されるところがある。オリンピックまでの期間、エカテリーナの実力を世間に知らしめるためには勝ち続けなければならない、というのは悟にもわかる。


「エカテリーナの病状は近ごろ、悪くなっていたの。シニアデビューした一昨年や好調だった昨年と比べると技術面での不安が出てきたのよ。あの子を追う立場のミフユとの実力差はあればあるほど都合が良かったのだけど、今期はその差が縮まるおそれがあったの」


「新女王エカテリーナを倒す可能性があったのは旧女王たる美冬だけ、ってことか?」


「そう、そしてミフユのメンタルを乱すため、脅迫状をおくりスナイパーに狙撃させたの。それで不調のどん底に落ちてくれれば良かったのだけど、さすがミフユね。今回の日本大会では、みごと蘇ったわ」


 つまり実の娘エカテリーナの、オリンピックまでの世間的心象を維持するため、イリヤは美冬に脅迫状をおくりつけたということになる。さらに狙撃まで依頼したと言うのだから徹底している。事実、美冬はそれらのせいで精神的に追い込まれ、アメリカ大会の星を落とした。


「だから美冬に脅迫状をおくったってのか。引退を迫り、狙撃手を雇うほどのことをする必要があったのか?」


「もうひとつ、あったのよ……」


 イリヤは目前にあるウイスキーグラスを指で弾いた。爪とガラスがぶつかり合う音は硬く、そして冷たい。


「私は以前、ミフユの背後に“オリンピックの魔物”を見たのよ」


 そう語ったイリヤ。なぜか、その瞳の色がグレーから黄金色へと変質した。



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