剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 18


 美冬の優勝で幕を閉じたグランプリシリーズ日本大会から一夜あけた。だが翌日の新聞紙面、テレビ、インターネットニュースなどは、こぞってエカテリーナの身におきた異変のほうを取り上げた。そのすべてが、なんらかの身体的故障であろうと報じたが、正確な情報を得ているものはないようで、今はただ病院に入院中とのみ巷に伝えた。日本のニュースやワイドショーは女王美冬の完全復活と持ち上げたが、辛口なコメンテーターの中にはエカテリーナの棄権による棚ボタ優勝、と切り捨てる者もいた。人々のとらえかたは様々なようである。






 エカテリーナが入院している名古屋市内の病院からほど近いところにある高級ホテル。その最上階に広いバーがある。ほのかな灯りしかささない薄暗い店内は内装の色調が黒やセピア系でまとめられており、シックなものである。恋愛映画のワンシーンに似合いそうな雰囲気だが、実際にCMのロケで何度か使われたことがある有名な店らしい。夜十一時を過ぎたこの時間、さほど多くない客たちは眺望の良い窓際の席についている。若いカップル、西洋人の男女、観光客らしき老夫婦、女だらけの四人組、といった顔ぶれだが、彼ら彼女らが何を話しているかは流れているジャズにかき消され聴こえない。皆が笑顔を見せていることから話に花が咲いてはいるのだろう。


 一方で、カウンター席についているのはひとりの外国人女性だけだった。美冬とエカテリーナのコーチであるイリヤだ。なにやら思いつめた顔をしているが、かわいい教え子の一人が負傷退場したのだから当然であろう。ロシア人の彼女はウォッカではなくジャパニーズウイスキーが入ったグラスを、そのグレーの瞳でぼんやりと見つめていた。


「隣、いいかい?」


 入店した悟は、そんなイリヤに声をかけた。洒落た店の雰囲気にこれほどマッチする男は世界中探しても、そうはいないだろう。彼の女性的な美貌は、薄暗いところにあっても翳ることはない。


剣聖スピーディアは、お酒を飲まないのではなかったかしら?」


 悟に向けたイリヤの瞳は輝いていた。まるで今まで見つめていたグラスから漏れる光を焼き付けたかのようだが、実は心で泣いていたのかもしれない。 


「あなたみたいな美人を前にすると、なぜか肝臓が活発化する体質なのさ」


 蝶ネクタイ姿のバーテンダーにバーボンを頼んだ悟は、窓がある左手を指さした。


「あっちの席に移らねぇか? なかなか良い眺めだぜ」






 最上階にある、このバーの窓から見おろすことができる名古屋市内には、地上のどこまでも様々な色をした電飾の宝石が敷き詰められていた。人口二百三十万の眠らない街は、日付けが変わろうとしている今も、ありとあらゆる機械が動き続け、人々の生活を支えている。黄金色の街灯は道ゆく者の足もとを照らし、青白く映える建築物の灯りは煌々としており、車はヘッドライトが示す先へと進み続ける。人工の輝きであっても、それらが美しく見えるのは、そのひとつひとつに人生のドラマがあるからなのかもしれない。百年以上前から人は夜も光の中で生き、そして光の中で何かを得る。暗闇に怯える時代を知る者は、この世にはもういない。


「スピーディアが夜景を好むロマンチストだなんて、思ってもいなかったわ」


 窓際のテーブルに着席したイリヤは唇をつけたウイスキーグラスを置き、夜景にグレーの目線を落とした。口調から察するに、あまり機嫌は良くないらしい。


「普段、小汚ぇ世界の裏側ばかり見てるからな。たまにゃ綺麗なものを見て、目の保養がしたくなるのさ」


 その悟のセリフは半ば冗談である。彼は人が本来持つ情や優しさを疑ったことはない。哀れな誰かのために悲しみ、そして危機を迎えた誰かのために命をかける者がいる限り、世界に失望することはないと思っている。


「そういえばミフユの故郷は、ここから近かったわね。どっちの方角かしら?」


「あっち。まァ、見えやしないけどな」


 悟は自分の左後方、北の方角に親指を向けた。美冬の実家がある岐阜は名古屋から遠くない。日本大会がおこなわれた豊橋には彼女の家族が来ていたようである。だが、トップアスリートとして練習漬けの多忙な日々をおくる美冬は会うことができなかった。いや、会うことをしなかった。見た目は華やかなフィギュアスケーターだが、やはりシーズン中は戦う者としてふるまうのであろう。


「スピーディア、あなたには故郷があるの?」


「まァ……あるような、ないような、かな」


 日本人の剣聖スピーディア・リズナーの生まれ故郷が鹿児島であることは世間には知られていない。彼は子供のころのひとときを、かつて鹿児島市 郡元こおりもとに存在した鹿児島中部自治特区……通称鹿児島スラムで過ごした。今も追っている因縁の相手、ペイトリアークとはそこで出会い、そのことが悟の人生を変えたとも言えるが、幼少期の彼は日本中を転々としていたので、鹿児島を故郷と呼ぶ感覚にやや欠けている。


 そんな悟がふたたび鹿児島と縁を持つようになったわけは、剣聖になった後、藤代グループ会長、藤代隆信ふじしろ たかのぶや、その孫娘の真知子まちこと出会ったからである。剣聖スピーディア・リズナーとして世界中で活躍する彼は、独占契約を結んでいる藤代アームズ製の武器や道具を用いる。今、着ているフライトジャケットも藤代アームズ製のものだ。“私は悟さんのマネージャーでありコーディネーター”と、真知子がよく語っている。


「ミフユのボディーガードはいいの? あの子は狙われている身よ」


「大丈夫大丈夫、日本の異能者機関は優秀だから」


 美冬の警護を超常能力実行局愛知支局の者に任せてここにやって来た悟は、氷入りのバーボンを少しだけ飲んだ。あまり酒が好きではないので、ちびりちびりと減らすつもりである。


「あなたこそ、エカテリーナについてなくていいのかい? 病院はすぐそこだろ」


「もう遅い時間よ。今は眠っているわ」


「コーチとして、故障を抱えていた彼女を強行出場させてきた負い目があるんじゃねぇのか?」


 悟がそう言うとイリヤは目をそらした。四十代の彼女は年相応の美人であるが、それなりに苦労が多い人生だったのだろう。面と向かって見ると、美しさの隙間にどこか陰がある。くぐってきた修羅場と年季が潜ませたもの、だろうか?


「美冬に脅迫状をおくりつけたのは、あなたか?」


 悟は訊いた。美冬のコーチでもある、イリヤに……


「とんだ名推理ね。どこからそんな結論が出たのかしら?」


 イリヤの目線は夜景のほうにある。こちらを見ようとはしない。


「あのとき、サンクトペテルブルクで美冬のバッグに脅迫状を入れたのもあなただ」


 あの日、練習場からホテルまで美冬のバッグをずっと持っていたのはイリヤである。選手が怪我をしないよう、コーチが重い荷物を持つことは不自然ではない。鋭い目を持つ悟がいる場で美冬のバッグの中に脅迫状を仕込むことは他者には不可能だ。逆に言えばイリヤにしかできないことだった。おそらく悟が見ていなかった練習場の更衣室あたりで実行したのだろう。


「日本人の勘は突飛なものね」


「もうひとつ、俺の突飛な勘を聞いてもらおう」


 悟は頬杖をついて、言った……


「エカテリーナは、あなたの“娘”だ」



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