剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 17
演技の冒頭、スケートリンクの上で倒れ、のたうち回るエカテリーナ。その痛々しい姿は会場にいる観客たちだけでなく、電波にのって世界中の人々が目にすることとなった。これから昨日同様、新女王の華麗な舞が見られると楽しみにしていた人々は皆、さぞかし驚いたに違いない。フィギュア史に残る一幕を待ち望んでいたファンたちは今、これまでの期待を落胆へと変え、そして懸念にとらわれていることだろう。尋常な様子ではない。
それでも銀盤の上にいるエカテリーナは歯を食いしばり立ち上がろうとした。曲が流れている限り、ギブアップではないのがルールである。さきほどから手で内股のあたりを抑えているが、そこが痛むのか。いったい何事が起こったのか?
だがエカテリーナは半身を起こしたところで、またも倒れた。まだ内股を抑えている。それでもなお片手を氷の上につき、立とうとする。瀕死の獣のようなその姿からは、もはや競技に対する貪欲な執念しか感じられない。艶がありながらも気高い演技を見せてきた女王の姿など、どこにもなかった。
客席最前列に座っている審査員たちのうち、最も年輩の男性が起立し、挙げた手を振った。すると流れていた『白鳥の湖』が止まった。曲の中止は競技者の棄権を意味する。エカテリーナの日本大会は、ここで終わった。
「カチューシャ!」
エカテリーナをロシア式の愛称で呼び、コーチのイリヤがリンクへと降りた。毛皮のコートを着ている彼女はスケート靴ではなく普通のレースアップシューズを履いている。それで滑りやすい氷上を、おぼつかない足どりで進みながらエカテリーナのもとへたどり着いた。
審査員が棄権を宣言し、競技が終了したことで、マナーの悪い報道陣のうち二十名ほどがリンクへとなだれ込んだ。美しい銀盤を土足で汚す彼らはときに滑り、ときに転びながらもイリヤとエカテリーナのそばへと駆け寄り、カメラを向けた。特ダネを逃すまい、という功名心が、そうさせるのであろう。
「やめて、この子を撮らないで」
いまだ苦しみながら氷上に尻をついているエカテリーナを抱きしめたイリヤは、群がる報道関係者たちに懇願した。それでもカメラのフラッシュはやまず、傷ついた女王の痛ましい姿を撮影している。皆、はじめは新女王の素晴らしい演技を世間に伝えようとしていたはずだが、今は哀れな少女の悲惨な終末をレンズの中に収めようと懸命だ。悲劇こそが何よりの興味をひくのは世の常といえる。
「お願いだから、あっちへ行って……」
なおも好奇の目を向ける報道陣を追い払おうとするイリヤのグレーの瞳に涙の光がともった。彼女のエカテリーナに対する思いは、どうにも特別なものらしい。
すでに演技を終えた最終グループの選手たちは広い共同の控え室で、天井から吊るされたモニターを凝視していた。あまりにも異常なエカテリーナの状態はテレビ中継されており、ここからでも見ることができる。他の会場関係者たちも同様で、いま誰もが映像に釘付けとなっていた。
「なんなの……?」
その中の一人である美冬もまた、驚いた様子で口に手を当て、モニターに映るエカテリーナを見つめている。最終グループの五人が滑り終わった時点で暫定トップに立っていた彼女はエカテリーナの棄権により今大会の優勝を決めた。出演しているCMスポンサーたちの要求を達成し、来月おこなわれるグランプリファイナル進出も決まったわけだが、見開いたその目に歓喜の光はない。
「
美冬の後ろに立っている悟が告げた。女性的な彼の美貌に感情の波は見えず、そして声は淡々としたものである。
「遺伝性?」
振り向いて訊ねる美冬の目が揺れていた。ライバルが倒れたからといって喜びの風を吹かせているようではない。正々堂々としたアスリートとしての心境は複雑なのだろう。
「一億人に一人いるかいないかの、大変珍しい病気さ」
悟は以前、“仕事”で訪れた中東の某国で、おなじ病気を持つ令嬢のボディーガードを引き受けたことがあった。石油王の娘である彼女は歩くとき、まるで剣道や柔道の経験者のように腰の重心を低く沈めるクセがあった。この病をわずらっている者の特徴であり、エカテリーナも歩くときに同様のクセが見られた。発症率は低いが、遺伝によるものが百パーセントを占める難病で、現在有効な治療法は確立していない。
「おそらく痛みに耐えながら、彼女は競技を続けてきたんだろう。だが、もう限界だったのさ」
「
美冬の口調は、ほんの少しだけ責めていた。黙っていたことに憤っているのか。それとも病身をおしてリンクに立とうとするエカテリーナを止めなかった悟を薄情だと感じたのか。
「まァな」
「じゃあ、なぜ……」
なにかを言いかけて、美冬は口を閉じた。異能業界の世界的スーパースターであっても、結局は冷たい裏稼業の人だと理解、もしくは失望したのかもしれない
「戦う人間の背中にかける声なんざ、誰も持っちゃいねぇのさ」
悟はフライトジャケットの懐から取り出したサングラスをかけて、そう言った。
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