剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 16

「君は、そんな体でいつまでスケートを続ける気だ?」


 サングラスを懐にしまった悟は、立ち去ろうとするエカテリーナの背中に問うた。


「自分の体のことは、わかってんだろ?」


「なんのことぉ? あたしは全然元気だよぉ」


 振り向いたエカテリーナの口調は、いつもどおり間延びしたもので、そして美しい顔は平然としている。話し方に似合わず頭が良い少女であることは世間も周知の事実だが、ポーカーフェイスにも長けているようだ。さすがフィギュアスケーターだけあって演技派と言うべきか。


剣聖スピーディア、悪いけどこの娘は演技を終えて疲れてるのよ、話は今度にしてくださるかしら」


 むしろエカテリーナの横にいるコーチのイリヤのほうが慌てていた。悟が“あること”に気づいているのを知ったせいか? その表情に平常の落ち着きはない。


「あたしを動揺させる作戦かなぁ? ミフユの援護射撃のつもりぃ?」


「カチューシャ、行くわよ!」


 悟に食ってかかろうとしたエカテリーナをロシア式の愛称で呼んでイリヤは急かした。


「スピーディア、ミフユの護衛に戻って頂戴」


 イリヤは、もうひとりの教え子である美冬のことを悟に託すと、エカテリーナの背を押すようにして、この場から立ち去っていった。そして、それに従って歩くエカテリーナの後ろ姿には、やはりあるものに共通する“特徴”が出ていた。






 豊橋スーパーアリーナで行われているフィギュアスケートグランプリシリーズ日本大会。その女子シングルショートプログラムでエカテリーナが歴代最高得点をマークしたことは、その夜のうちに世界中で報道された。二位の美冬とは八点の差がついており、三位以下とは十点以上引き離している。決勝のフリースケーティングを待たずして、このまま逃げ切って優勝、との予想がすべてをしめた。


 一昨年度、シニアデビューを果たしたエカテリーナは、その年から今日までに主要タイトルのほぼすべてを手中に収めた。グランプリファイナルと世界選手権はともに二連覇しており、その他の大会も出れば確実に優勝している。残す獲物は再来年に開催されるオリンピックくらいのもので、今後彼女の存在を脅かすような新星があらわれない限り、それも金メダルであろうと言われている。


 すでに女王と呼ばれていた美冬は過去の二シーズン、若きエカテリーナとの直接対決で片っ端から負けた。二十三歳と十七歳の年齢差から生じる身体能力の違いはあきらかで、技術点では大きな差がつく。しかも年少のエカテリーナのほうが艶のある大人の演技をする。美冬はベテランと呼ばれる年齢に達した今でも清楚さ可憐さを前面に出すため、最近では物足りない、表現に進歩がないとまで言われるようになった。そのうえ長年の現役生活で酷使した肉体は悲鳴をあげており、複数箇所に故障を抱える身だ。勝ち目がないのは当然である。


 そういった経緯から、今では美冬を“旧女王”、エカテリーナを“新女王”と呼ぶ風潮ができあがった。そのうえ共に同じコーチのもとにいる身であるものだから両者はなにかと比較される。“美冬は終わった”。“指導が公平であるのなら結果の違いはふたりの実力差”。“晩節を汚す前に競技から引退すべき”等々、美冬にとって辛辣な意見は日に日に大きくなり、結果を出せない彼女に対する風当たりも強くなっていった。


 エカテリーナが歴代最高得点を叩き出した今回の日本大会のショートプログラムのせいで、もともとあった大差は余計に広がった。美冬の演技にミスはなく、むしろ良い出来だったことから、それを実力で上回ったエカテリーナの株はおおいに上がり、フィギュアスケート界は女王ふたりの時代から、いよいよ完全な一強時代へと移り変わった。世間は、そのように認識していた……






 翌日、グランプリシリーズ日本大会がおこなわれている豊橋スーパーアリーナは、この日も前日同様に会場内外がたくさんの人たちでごった返していた。苦境に立たされた美冬を見限ることなく応援する日本人客も多いが、ショートプログラムのときより報道関係者の姿が目立つのは“エカテリーナ効果”が理由だった。テレビ中継された昨日の衝撃的な演技が全国に波紋を呼んだのである。ネット上には“ロシア人の超絶演技クソワロタ”、“エカテリーナちゃんマジ天使”、“美冬終わったな”、“日本の恥を晒す前に美冬は棄権しろ”などといったコメントが踊った。ただしこれらは、あくまでもエカテリーナが実力で日本人を認めさせたがゆえのものである。ショートプログラム後に正当な評価が、ふたりにくだされたのだ。


 女子シングルフリースケーティング。フィギュアスケートの決勝戦に当たるもので、昨日おこなわれたショートプログラムの点数との合算で総合順位が決まる。選手たちは四分間の演技の中でジャンプを含む十三の必須要素をクリアし、技術力と表現力を競う。もちろん各要素の完成度が高いほうが加点が付くので、最終的に点数が高くなる。


 女子フリーが午後七時に開幕したとき、すでに客席は大入りだった。そして美冬、エカテリーナが出場する最終グループの六人がリンクにあらわれた八時半には満員となった。皆が女王ふたりの演技を……いや、ひょっとしたらエカテリーナのほうに期待していたのかもしれない。今日のフリーでも歴代最高得点が出ればフィギュア史に残る瞬間の立会人になれる。客たちとおなじ日本人の美冬より世間の興味を引くロシアの新女王は、やはりさすがと言う他ない。ファンの目はシビアである。


 くじ引きで最終グループの五番滑走となった美冬が『白鳥の湖』に合わせて演技を終えたのは九時半を過ぎたころであった。ノーミスで終えたフリースケーティングの得点を百五十点台にのせ、昨日のショートプログラムと合わせた総合得点は二百三十点台となった。自身が持つパーソナルベストには及ばなかったが、悪い結果ではない。もちろん暫定トップである。最終滑走者を除いた現時点では……


 そして今大会のすべてを終えた美冬があたたかい拍手に見送られ、リンクから消えたあとあらわれたのは、さらに多大な拍手に迎えられたエカテリーナだった。もし昨日同様の調子ならばフリースケーティングの記録をも塗り替えるかもしれない。皆が、それを期待しているのか。歴史的瞬間を見守るため客たちの視線もテレビカメラもエカテリーナに集中している。新女王と呼ばれる少女は熱い注目を浴びながらリンクを伸びやかに一周した。


 そんなエカテリーナの表情は、終始微笑を浮かべていた昨日のショートプログラムのときと比べると、やや硬かった。やはり決勝ともなると覚悟とプレッシャーが、その身に重くのしかかるものなのか? だが、それもつかの間。彼女はリンク中央に立つと静止し、落ち着いた顔を見せた。そのまま天を仰ぎポーズをとる。


 拍手が止むと、場内に曲の前奏が流れはじめた。チャイコフスキーの『白鳥の湖』。同じコーチに師事する美冬と同じ曲。ただし実力の上限はエカテリーナのほうが遥か上をゆく。そして演技の質も年下の彼女のほうが艶っぽい。ゆっくりと始動した新女王は、銀盤を舐めるようなスケーティングを見せながら、己の上体を美しく舞いおどらせる。皆が待ちに待った本日のエカテリーナ劇場の開幕、である。


 冒頭は高難度のコンビネーションジャンプだ。客たちの期待と視線を一身に受け、エカテリーナは後ろ向きに滑走した。そのまま上体をひねり、スケート靴のエッジを氷に叩きつけた。飛翔する彼女。


 そのとき……その瞬間、日本中の誰もが目を。いや、それ以上に耳を疑ったに違いない。テレビカメラのマイクが拾うほどの悲鳴は華麗に飛んだはずのエカテリーナのものだった。空中でバランスを崩した彼女は着氷できず転倒すると、内股を手で抑えながら激しくのたうち回った。いつもは銀盤に堂々と君臨する新女王が、今は無様にも氷の上に屈服し、驚く観衆の目前でフィギュアスケートの女神から見離された痛々しい姿を晒していた。





 

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