剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 15

 バッハの『G線上のアリア』にのせたエカテリーナのショートプログラムが始まった。場内に流れるストリングスの高貴な音色は、もちろん美しい彼女のイメージに合うものだが、十七歳にして妖艶とも重厚とも評される新女王が踏み出す前奏としては線が細い感じもする。ミスマッチを感じる人もいるだろうか。


 しかしエカテリーナは、そんな優しい音色を、切れ味鋭いスケーティングで表現するつもりらしい。上体は艶やかに踊っているが、足もとのエッジワークは、まるで研ぎすませた刃物のようである。そのうえでスピードにものっている。


 後ろ向きに滑走しはじめるエカテリーナ。予定している冒頭のコンビネーションジャンプは、ライバル美冬のものより難度が高い。決めれば高い点数が出るため、いきなりアドバンテージをとることができる。


 エカテリーナのエッジが地を蹴った。回転しながら、高く高く舞い上がる。力強い踏み切りでありながら氷が飛び散らないのはなぜか? その足さばきが完璧だからか? いや、新女王と呼ばれる彼女がフィギュアスケートの申し子だからか? 見事、着氷を決めても音すらしない。そして銀盤の女神に愛された少女はリンク表面に浮かぶ水膜すら味方につけた。ジャンプを連続で成功させたあと、低い摩擦係数を利用するかのように滑りだす。その仕草、足もとだけを見れば軽やかである。しかし赤い衣装に包まれた細身の上体は、このとき重厚に演技しているのだ。腰を境目として肉体ひとつで人間が持つ光と影をあらわしているのならば、やはり天才である。


 高得点をマークしたであろうコンビネーションジャンプをきっかけとして、エカテリーナ劇場が開幕した。さきほど美冬の演技に酔いしれていた観客たちが、今はまるで息をすることも忘れたかのように静かに見守っている。技が決まれば当然、拍手はおこるが、それでも皆がどこかのまれている。美冬のときにはあった選手と客との一体感のようなものはなく、審査員や報道陣を含めた見る者すべてが、エカテリーナが実践する異次元の一挙手一投足に置き去りにされ、そして圧倒されている。会場全体が異様なムードに包まれはじめた。


 十七歳にして女王と呼ばれる彼女の演技は、この日、しっとりと成熟した艶だけでなく、燃え盛る炎のような苛烈さも同時に表現していた。二十三歳の美冬は可憐、繊細な色を持つと評されるが、こちらは人の情念や悲哀、さらには憤怒や激情を主に見せる。『G線上のアリア』という物静かな曲をエカテリーナは、そのように解釈し、踊っているのだ。美冬に取って代わった新世代の女王は、そのスケート靴の刃先で、白く輝く氷の上に少女らしからぬ大人の人生模様を描いてゆく。


 すべてのジャンプを成功させたエカテリーナは、激しいステップを刻みながらリンクを駆けめぐった。エッジが火を吹き、銀盤を溶かし尽くすのではないかと錯覚してしまうほどの熱い演技に客はみな手拍子をおくることすら忘れ、魅入っている。ひねりを効かせ大胆に動く上体と、それを支えるフットワークは『G線上のアリア』に負けぬほどの正確な調律で均衡をたもつ。だが、単にバランスが良いだけではない。当代の選手の中でもズバ抜けた身体能力で、すべての要素をハイレベルにクリアしていく。


 ラストのコンビネーションスピンも見事だった。エカテリーナは回転しながら片足を頭の上にまであげ、両手でエッジを掴むと、さらに美しく回転した。柔軟性を要するビールマンスピンと呼ばれる大技だ。客席の誰もが、もっと見ていたい、もっと演技を続けてほしい、と思ったに違いない。そして圧巻のフィナーレは、回り続ける彼女の肉体が人々の視線を吸引する形で訪れる。目を離す者など、いない。


 曲がストップすると同時に、エカテリーナは右手を高く掲げた。伸ばしたその指先にある、数十メートルの高さがあるここ豊橋スーパーアリーナの天井までを自分色に染めあげた彼女の演技が終わったとき、一瞬の静寂がやって来た。客たちは誰も立たない。誰も動かない。まるで時がたつのを忘れてしまったかのように……


 だが、どこからか、ひとつの拍手がした。低温の冷え切った空間に、それは異質の乾いた響きをもたらした。そんなはじめのひとつに呼応し、さらに別の拍手がおこった。ふたつ、みっつ……それらの拍手は広い客席に次々と伝播してゆき、やがて一万人と発表された客数と同等の拍手へと巨大化した。


 嵐のようなスタンディング・オベーションが鳴り響いた。そして今日一番の歓声が会場を揺るがすように巻き起こる。大勢の客たちの中に今、座っている者は誰ひとりとしていない。皆が立ち上がり、エカテリーナが見せた超絶の演技をたたえた。


 リンク中央に立つエカテリーナは明るい笑顔で手を振った。鬼気迫る演技中の顔とは全然違う等身大の十七歳の表情だ。それを見て、さらに拍手と歓声が大きくなる。客たちはみな、そのギャップに魅力を感じているのだろう。スターとは、そういうものなのかもしれない。


 いま豊橋スーパーアリーナにいる客は大半が日本人である。だが、おなじ日本人である美冬が演技を終えたときより遥かに喝采が大きい。このとき皆が国籍人種を超えた評点で認めたのかもしれない。完全な世代交代を……旧女王ではなく新女王が牽引するフィギュアスケート女子シングルの新たな時代の到来を……






 エカテリーナの点数が出た。場内の日本語アナウンスが八十七点台を告げたとき、客たちはどよめいた。女子シングルショートプログラムの歴代最高得点だ。前人未到、空前絶後の結果を勝ち得たエカテリーナは、キスアンドクライでコーチのイリヤと抱き合った。そして、また客席から大きな拍手の嵐がおこった……






 豊橋スーパーアリーナの選手控え室で、先に演技を終えていた美冬は、天井から吊るされたモニターを食いいるように見つめていた。大記録を打ちたて、カメラに手を振るエカテリーナの様子がテレビ中継されている。


(やはり、凄い娘ね)


 同じコーチに師事するライバルであり仲も良くないが、歴代最高得点を叩き出したショートプログラムの演技には素直に賛辞をおくらざるを得ない。明日のフリースケーティングを前に、八点差がついてしまったが、それでもアスリートとして認めるしかない。エカテリーナの実力は、それほどのものだった。


 美冬は周囲を見た。これから出場する選手たちの何人かがトレーニングウェア姿で体を軽く動かしている。すでに出番を終えた選手たちは自分同様、モニターでエカテリーナの演技を見て、圧倒されている。広い控え室は通常ならばテレビカメラも入っている場所だが、先日、美冬を撃った狙撃手が報道関係者に化けていた可能性があるため、今日の大会ではシャットアウトされている。安全を優先した大会運営側の配慮である。


 美冬は、コンディションづくりに励む選手たちをしばし見たが、すぐにモニターに視線を戻した。女王たる自分にとってのライバルは、同じく女王のエカテリーナひとりである。正直、他のスケーターたちは眼中にない。今日のショートプログラム、自分は二位につけるだろう。明日のフリースケーティングで倒さなければならないのは、間違いなくトップに立つエカテリーナだけなのだ。そして、おなじコーチを持つふたりの女王は、おなじ『白鳥の湖』で覇を競うことになる。


(あら、スピーディア……?)


 モニターに釘付けとなっていた美冬は今、気づいた。さきほどまで自分のそばにいたボディーガードの“彼”が、いつの間にかいなくなっていた。






 観客たちの大声援に応えたエカテリーナとコーチのイリヤは、控え室へと向かう通路を並んで歩いていた。ここも今日は報道関係者が入れないようになっている。選手や会場スタッフの姿があるだけで、部外者の気配はない。


 いや、ふたりが進む先の通路の壁に、フライトジャケットを着たひとりの美しい男が、背をつけて寄りかかっていた。左手はポケットの中。そして折りたたんだサングラスの丁番のあたりに右手の人差し指をひっかけ、くるくると回している。異能業界最高のスーパースターは、そんな行儀の悪い姿も見事な絵になるものである。


「良い演技だったな」


 一条悟は、サングラスを懐にしまった。


「あれぇ、剣聖スピーディア。あたしにお祝いを言うために、こんなとこにいたのぉ?」


 身体が冷えぬよう、衣装の上からジャージに袖を通しているエカテリーナの口調は間延びしており、やはりどこか子供っぽい。凄まじい演技をしているときとは別人のようだ。だが頭脳は明晰なことで知られる少女である。


「ミフユのボディーガードしなくていいのぉ?」


「今は日本の異能者機関の優秀な連中がついてるから大丈夫さ」


「わざわざ、あたしに会いに来るなんて、スピーディアも結構ヒマなんだねぇ」


「お祝いついでに、ちょっくら君に訊きたいことがあったのさ」


「スピーディア、悪いけどエカテリーナは演技のあとで疲れているのです。そこを通して頂戴」


 悟とエカテリーナの会話を遮ったのはイリヤだった。コーチの彼女はエカテリーナの背中を押すようにすると、悟の前を通り過ぎた。


「エカテリーナさん」


 新女王の背中に、悟は声をかけた。


「君は、そんな体でいつまでスケートを続ける気だ?」


 

 


 

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