剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 11
グランプリシリーズ第一戦アメリカ大会から一週間がたった。四位に終わった美冬と、彼女のボディーガードである剣聖スピーディア・リズナー、一条悟は名古屋にいた。二週間後のグランプリシリーズ第四戦日本大会が豊橋で行われるためである。ロシアに拠点を移す前の美冬は名古屋のスポーツクラブに所属していたため、今回は地元への凱旋となる。かなり早目の日本入りとなったが、かつて使っていたスケートリンクを練習場として利用できるため、コンディションの調整には良い環境となった。朝から夕刻までスケート漬けの日々を送っている。
昼過ぎ。名古屋市内にあるホテルの一室。美冬はテレビの前にいた。いつもなら昼食後、練習を再開している時間であるが、この日はグランプリシリーズ第二戦カナダ大会の女子フリーがおこなわれる。同門のライバルであるエカテリーナ・グラチェワが出場するため、その演技をチェックしようというのだ。現地バンクーバーと日本の時差は十六時間。あちらは夜であり、日本でのライブ中継は地上波ではなく衛星波チャンネルで放送される。
先日のショートプログラムで二位以下を大きく引き離しているエカテリーナをテレビが映し出した。最終グループ六人中三番目の滑走順となるが、これは現在順位に関係なくクジ引きで決まったものだ。美冬と並ぶ女王の異名を持つ彼女の顔には十七歳とは思えぬ艶がある。ロシア人特有の硬質な美貌は人形のようであるが、グレーの瞳からはアスリートらしい覇気と闘志が感じられる。スケート靴を履いてリンクを一周すると結った金髪がたなびくが、その雰囲気は氷上に芸術を描く存在というより、むしろ戦場に向かうヴァルキリーを思わせる。勇ましいものである。
満員の広い場内から響く拍手と歓声は割れんばかりのものだった。美冬に代わる新女王とも呼ばれる若き彼女の人気は国籍国境をこえている。スポーツ観戦を趣味とする者たちは新たなスターを目の当たりにしたとき、それに熱狂する。どんな競技でも同じことであるが、いま観客たちは世代交代を見守る立場であり、その歴史的事実に立ちあうことに至福の喜びを感じているのだ。
リンクの中央で静止したエカテリーナがポーズをとると、客たちのざわめきがやんだ。間もなく流れはじめたのはチャイコフスキーの『白鳥の湖』。美冬のフリーと同じ使用曲だ。同じコーチに師事するライバル同士はフィギュアスケートの世界には何人かいるそうだが、使う曲まで同じというのは珍しいらしい。
曲は同じだが衣装が違う。二十三歳の美冬がフリーで用いるのは純白のノースリーブドレスだ。白鳥の健気さ可憐さを表現するためのもので、彼女の演技質にも合っている。一方、いまテレビに映っているエカテリーナの衣装は黒を基調として装飾がほどこされている。アシンメトリーなデザインで右腕に袖があるが、左側は片口から大きく開いている。エカテリーナは虐げられるオデット姫が持つ不安定性や暗黒面を表現しようというのだ。十七歳にして難しいテーマを抱えて踊る彼女は、やはり只者ではない。
『白鳥の湖』のイントロに合わせ踊りはじめたエカテリーナは年に似合わぬ妖艶な仕草と表情を維持しながら後ろ向きに滑走した。テレビの左上に演技の構成がテロップで表示される。最初は三回転-三回転-二回転のコンビネーションジャンプだ。
「調子が悪いのかしら?」
Lの字に配置されたソファーのひとつに座っている美冬は真正面の位置からテレビを見ながら首をかしげた。エカテリーナのライバルたる彼女は演技のほんの冒頭を見て、即座にそれがわかったらしい。
「らしいな」
悟はLの字の縦線にあたる位置に並べられたソファー三つを占拠して寝っ転がって見ている。彼が手を伸ばせば美冬の尻にタッチすることができる。テレビで観戦しているふたりの距離は近い。
片足を踏み切ったエカテリーナが飛んだ。三回転ルッツ、三回転ループと確実に決め、最後に二回転トゥループで締めた。成功である。客席から拍手が鳴った。
「たしかに、あまり良くねェな」
「
「まァ、なんとなくね」
悟はフィギュアスケートに関しては素人だが、今のジャンプに滑走のスピードが足りていないのはわかった。そのせいか、三連続ジャンプの着氷後、エカテリーナの身体がきれいに流れなかった。もちろん抜群の平衡感覚と体幹で着地を決めたと思われるが、シリーズ開幕前に見た練習のときの彼女のほうが状態は良かった。
しかし、テレビのスピーカーから聴こえるのは『白鳥の湖』の調べをかき消すほどの止まぬ観客の大歓声ばかりである。氷上のエカテリーナは次々と大技を決め、そして華麗で優雅なスケーティングを見せつける。
四分間の演技はノーミスで終わった。予定されていたジャンプはすべて飛びこなし、そのうえで妖艶な白鳥になりきったエカテリーナは嵐のような拍手の中、両手を挙げてそれに応えた。演技を終えれば、素のあどけない表情も戻るようだ。テレビ放送を実況するアナウンサーや解説者も絶賛している。
観客たちが投げこんだ大量の花束や、ぬいぐるみのうちの一部のものを手にしたエカテリーナはリンクの端までたどり着くと、フェンスを挟んでコーチのイリヤと抱き合った。師弟の立場たる両者とも満面の笑顔を見せている。
寝っ転がっている悟はそのとき、ちらと目を向けた先の美冬の顔に一瞬浮かんだ嫉妬の炎を見た。かたや落ち目の旧女王、全盛期を迎えつつあるあちらは世間から新女王などと言われている。美冬は岐阜の出身で、実家はここからさほど遠くないのだが、実の両親に会いにもゆかず、毎日練習に励んでいる。彼女にとってはコーチのイリヤが第二の母親なのだろう。
(女同士の関係ってのも、複雑なもんだ)
何も言わず悟はテレビに目を向けなおした。すでにリンクを降りていたエカテリーナはスケート靴にエッジカバーつけている。選手が採点を待つキスアンドクライへと向かうためだ。
(妙だな)
悟は気づいた。エカテリーナが、キスアンドクライの椅子に座る直前、ほんの一瞬であるがテレビに彼女が歩く様子が映った。カメラは、その椅子の正面にあるため、エカテリーナの後ろ姿を見たのである。
「なぁ、美冬さん。あのエカテリーナって娘は、フィギュア以外のスポーツをやってたのかい?」
悟は訊いた。
「スポーツ? 表現力を磨くためにバレエ教室に通っているみたいだけど、他にスポーツをやっているなんて聞かないわ」
首をひねる美冬。おかしな質問だと思われただろうか。
「なぜ?」
「あぁ、いや、なんでもねぇよ」
悟は美冬からテレビの方へ視線を戻した。イリヤと共にキスアンドクライに座るエカテリーナが満面の笑顔で手を振り、客たちの歓声にこたえている。
一分後、点数が出た。彼女のパーソナルベストには及ばないが高得点である。このカナダ大会優勝をほぼ確実にしたエカテリーナはイリヤと軽く抱擁し、立ち上がると、歓声にわく客席に手を振った。
「さすがね、調子が悪くとも、それなりにまとめたってところかしら」
美冬はテレビを消した。あと三人、滑走者が控えているが、見なくとも結果はわかるということだろうか。それともエカテリーナ以外眼中にないということか。
そして悟は何も言わなかった。さきほどテレビに映ったエカテリーナの歩く後ろ姿に、“ある者”との共通点を見たのだが、その点には触れなかった。
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