剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 10

 

「何度見たって結果は変わらないぜ」


 悟は、四位に終わった自分の演技をテレビで確認し続ける美冬に声をかけた。飄々とした態度だが、どんな危険を前にしても、この男は、いつもこうである。


「結果は変わらないけど、これを見れば反省はできるわ」


 ソファーに腰かけている美冬は深く息をついた。彼女が着ているルーズなシルエットのルームウェアは白黒写真に映る曇り空のような濃いグレーカラーである。結果を出せなかったことによる鬱屈とした心境をあらわしているような色あいだが、美人なので見た目は似合っていた。


「クソ真面目な女だな。ちったァ気を抜いたらどうだい?」


「シーズン中に抜く気なんて、元から持たないわ」


 美冬は束ねていない長い黒髪を両手でかきあげた。白く、きれいなうなじから石鹸の香りがする。シャワーを浴びたあとのようだ。


「ねぇ、剣聖スピーディア、なんだか気分が晴れないわ。いっしょに、お酒を飲まない?」


 そのように誘う美冬の瞳には色よく濡れた艶があった。先日の狙撃以降、悟に対する態度がこれまでと違い軟化している。命を助けられたからだろう。


「運動後の飲酒は良くないぜ」


「あら、あなたのほうが真面目じゃない」


 美冬は、ほんのすこしの苦笑を見せ、卓上のリモコンを手に取るとテレビを消した。この場を支配していた『白鳥の湖』に代わって、彼女がたてる息の音がしずかに響いた。


「怖いの……」


 数秒の間をおき、美冬は言った。


「あのとき、わたしに向けられた銃弾がアイスを割ったときの音が耳から離れないの」


 命を狙われた者の心に残る心傷、というものがある。たとえ危機を回避できたとしても、生涯そのことによる恐怖にさいなまれる者は多い。日本では警察が犯罪被害者に対するケアをおこなっているが、それで不安を克服できるか否かは、結局本人次第ということになる。


「ショートでもフリーでも、演技中また狙われるんじゃないかという心配があったわ。怖くて体が思うように動かなかったのよ」


 狙撃されたことよる彼女の動揺は競技に多大な影響を与えたのである。結果、今日のアメリカ大会は四位に終わり表彰台を逃した。本来、美冬の心をケアすべきはコーチのイリヤである。しかしイリヤは美冬の点数が出た直後、グランプリシリーズ第二戦が行われるバンクーバーへ行くため会場をあとにした。もうひとりの教え子であるエカテリーナが今週末のカナダ大会に出るからだ。掛け持ちのコーチは美冬だけにかかりっきりというわけにはいかない。


「このままでは、次に出場する日本大会で結果を出せる自信がないの」


 三週間後に彼女の地元日本で行われるグランプリシリーズ第四戦のことである。第一戦で出遅れた美冬がグランプリファイナルに確実に進出するためには、そこで好結果を出すことが望ましい。


「怖いの……また客席にスナイパーがいるんじゃないかと思うと、また狙われるんじゃないかと思うと、とっても怖いの……」


 しかし、今の心理状態で果たして結果を残せるものか。ソファーの上の美冬は膝を抱え、そして顔を伏せた。まだ震えている。


「おいおい、いらん心配すんなって。そンときは俺が守ってやるさ」


 だが、世間の人々から最後の剣聖とも“偶然の”剣聖とも呼ばれるこの男は、いまこのような状況においても明るい。


「俺は君のボディーガードだぜ。君を狙う銃弾があろうが、君を襲う馬鹿野郎がいようが、全力で盾になるのが仕事さ」


 悟は左手で、着ているフライトジャケットの右肩に刺繍されているワッペンを叩いた。燃え盛る炎に向かって手を伸ばす様が描かれたそれは世間から“into the fire”と呼ばれている紋章で、“どんなヤバい仕事でも引き受けるぜ!”という意味を持つ。光剣オーバーテイクと並ぶ剣聖スピーディア・リズナーのトレードマークであり、彼の熱い生き様をあらわすものとして有名だ。


「俺がいる限り、銃弾は君に届かねぇよ。安心して演技に集中しな」


 悟はたのもしく笑い、そして


「まァ、俺ひとりじゃ頼りにならねぇかもしれないが、実は“連盟”にちゃんと手配済みなのさ。君の周辺警護はすこし騒がしくなるけどな」


 と、言った。今、この部屋の前にはアメリカ合衆国の国営異能者機関のエージェントが二名張っている。さらにホテルの内部と周囲にもエージェントたちが潜んでいる。世界の異能業界を牛耳る国際異能連盟の働きかけによるものだった。


「フィギュアスケートの女王と呼ばれる君は世界の宝さ。俺みてぇな野良犬以外にも守ってくれる連中はたくさんいる。安心しておやすみ」


「待って、スピーディア」


 退室しようとした悟を、美冬は止めた。


「あなたは、わたしのボディーガードなのでしょう。なのに、なぜ出てゆくの?」


 彼女の声に、そして瞳に、切なさのニュアンスがあった。試合に敗北し打ちのめされた夜は悟といっしょにいたい、と言わんばかりに。


「俺は、いつでも君のそばにいるさ。この事件が解決するまで」


 そんな美冬に手を振って、悟は部屋を出た。彼は、あくまでも女王のボディーガードである。寝所を共にする仲ではない。




 


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