剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 9
さきほどまで美冬がいた位置の後方で着弾音が鳴った。狙撃を受けたのである。リンク上で演技をしていた彼女の身体を抱きとめた悟は、その体勢のまま跳躍し、狙撃手から死角となるフェンス外へと転がり込んだ。さすがの早業だ。
場内につめかけていた報道関係者たちが騒いだ。ある者は立ち上がって逃げ出し、またある者は頭を抱えながら身を低くした。暴力に耐性のない人たちがよくする行為だが、混雑しているわけではないので、怪我人が出ることはないだろう。
「な、なに……? いったい、なにがおこったの」
フェンスの裏ッ側に背をつけ状況をうかがう悟の腕の中で、トレーニングウェア姿の美冬は震えていた。騒ぐ周囲の人々を見て異常な事態を察知したか、それとも着弾を受けたリンクの氷が飛び散るのを見て自分が狙撃されたことを知ったか。どちらにしろ彼女の美しい顔は怯えていた。
悟は彼女の身を離すとフェンスの上から少し顔を出して、狙撃手がいたであろう方向を見た。このリンクの客席は上に向かって奥行きが広い。銃口が見えたのは最上段の三階席だった。美冬が演技をしていた位置から六十メートルはある。結構な角度で撃ち下ろされた銃弾は美冬のかなり後方に着弾した。今のところ二射目の気配はない。
「ここにいれば大丈夫だ。動くなよ」
今、盾になっているこのフェンスは演技時の衝突から競技者を守るため分厚く弾力があるラバーで覆われている。銃弾を通すことはない。
「いや、行かないで!」
だが、狙撃手を追おうと立ち上がりかけた悟のフライトジャケットの裾を掴み、美冬は引き止めた。女王と呼ばれる女の弱々しい姿だった。
「怖い……ひとりに、しないで」
なおも震え、自分にすがりつく美冬を見て、悟は狙撃手の追跡を諦めた。おそらくヤツはスタッフか報道関係者に化けて潜入していたと思われるが、すでに会場内にはいないだろう。事前に逃走ルートも確保していたはずだ。
「ミフユ!」
コーチのイリヤが蒼白な顔をして駆け寄って来た。
「イリヤ!」
美冬は涙を流しながらイリヤの胸にすがりついた。
「怖い、怖いわ、イリヤ。わたし、撃たれたのよ」
「ああ……かわいそうな私のミフユ、なんてことなの」
まるで母の胸の中で泣きじゃくる娘のような美冬。本当にコーチのイリヤを実母同然に慕っているのだろう。悟は、そんなふたりの様子を確認しながらも、慌ただしい周囲を見まわした。すでに落ち着きを取り戻した報道関係者数人が抱き合うふたりを撮影しており、気の利いた会場スタッフたちがカメラを遮るため割って入ってきている。悟はとりあえず脱いだ自分のフライトジャケットを美冬の頭に被せると、彼女の腕をとり、イリヤと三人で関係者通路へと消えた。特ダネを競う報道陣をシャットアウトするためである。
美冬が狙撃されたことは、その日のうちに世界中に知れ渡った。各国メディアが派手に取り上げ、そのことについて問い合わせが殺到したため、日本ウインタースポーツ協会もマスコミ各社も、美冬が所属しているマネジメント事務所も処理対応に忙殺された。
そして二日後に開幕したグランプリシリーズ第一戦アメリカ大会での美冬の成績は四位に終わった。ショートプログラムで二度転倒し出遅れた彼女は、そのあとのフリースケーティングでもミスを連発し、優勝どころか表彰台も逃した。狙撃されたことによる動揺は大きかったのだ。フィギュアスケート、いやスポーツというものが、いかにメンタリティと直結する分野であるかということがわかる結果となった。
試合会場となったエドモント・ビッグ・スケートリンクから数キロ離れた所にワシントンロイヤルホテルがあった。高層で質実な造りの建物は、外から見ると遅い時間でも多くの窓に光が灯っている。ラスベガスあたりにある派手なホテルに比べれば輝度と華やかさに欠けるが、それでも立派なものには違いない。ここワシントンを訪れる多くの著名人が利用することで知られる。
カーテンを閉めきった一室、その広いリビングに美冬はいた。さきほど不本意な順位で試合を終えた彼女は狙撃された日の夜からここに泊まっている。実はスケート連盟が設定したオフィシャルホテルはここではない。狙われている美冬と同じホテルを利用したくない、と我が身の安全を優先する各国のフィギュアスケーターたちが苦情を申し出たのだった。そのため彼女は別の場所にあるこのホテルに泊まることとなった。
ソファーに座っている美冬は、据え付けられた大型のテレビで今日の自分の演技を確認していた。日本ウインタースポーツ協会の関係者がビデオカメラで撮影したもので、アングルはやや遠目だが、映像は鮮明で挙動自体はよくわかる。白い衣装に身を包んだ美冬は『白鳥の湖』に合わせ踊っているが、冒頭のコンビネーションジャンプから転倒し、さらに後発の三回転フリップが両足着氷となっていた。得意なはずのダブルアクセルでも転倒してしまった。これで四位に食い込むことができた理由は、彼女のステップやスケーティングが元々世界トップの技術により成り立っていることと元々の演技構成点が高いことにあった。そして、これまでに積み上げた“実績”が作用したのである。いわば“顔”が審判に影響を及ぼす、採点競技の特徴ともいえる。
画面に映る自分の無様な姿を見て、美冬はため息をついた。狙撃されたことによる動揺があったとはいえ、演技に対する集中が欠けていたのなら、真面目な彼女が悔いを残すのは当然と言える。ただし、それを精神的弱さと断ずることができようか? 命を狙われる恐怖とはスポーツ競技に対する真摯な取り組みとは異質のベクトル上にあるものである。
「何度見たって結果は変わらないぜ」
そんな美冬に、一条悟は声をかけた。その態度は、どんな危険な状況下でも冷静さを失わない彼らしく飄々としたものだった。
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