剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 8


 十月半ばから開始される201X年度のグランプリシリーズは、一ヶ月半をかけ全六戦が六ヶ国でおこなわれる。参加する選手たちは、そのうちの二戦に出場し、競技結果に応じた点数を獲得することとなる。香田美冬が戦う女子シングルの場合、合計得点が高いほうから数えた上位の六人が、シリーズの締めとなる十二月のグランプリファイナルへと勝ち進むことができる。つまり二戦の結果次第で、今年の最終戦に出場できるか否かが決まる、という仕組みになっている。






 グランプリシリーズ第一戦が行われるワシントン州のエドモンド・ビッグ・スケートリンクには多数の報道陣がつめかけていた。明後日から開幕するグランプリシリーズアメリカ大会を前に公開練習が行われているからだ。選手たちに各々三十分の時間が割り与えられ、彼らはその間ひとりでリンクを使用できる。


 昼の一時半に美冬の番が回ってきた。黒い上下のトレーニングウェアにスケート靴を履いた彼女はリンクの中央に立った。限られた時間の中でショートプログラムとフリースケーティングの練習をすることとなる。


 音楽が流れ始めた。美冬のショートプログラムはベートーヴェンのピアノソナタ第14番にのって行われる。世間では『月光』と呼ばれる曲だ。演技は、その第1楽章が使われる。


 しずかなイントロに合わせて美冬は踊りだした。指先まで、そしてエッジに支えられた爪先までを繊細に駆使し、曲を表現している。『月光』はベートーヴェンの叶わぬ恋を謳った曲であるともいわれるが、二十三歳の美冬の演技は抱きしめたくなるほどに儚く、そして路傍に咲く花のように可憐だ。十七歳のライバル、年下のエカテリーナが見せる重厚な妖艶さとは性質が異なる。


 後ろ向きに滑走したのち、美冬は飛んだ。三回転を二度飛ぶコンビネーションジャンプだ。見事に着氷し、氷上に鮮やかなエッジラインを描く。こないだの練習とは違い、成功させた。


「調子が上がってきたようだな」


 フェンス越しの、選手や関係者が控えるリンクのすぐ外から、黒いフライトジャケット姿の悟は美冬の演技を見ている。いまサングラスをかけている彼は、さきほどまで新聞記者たちの質問攻めにあっていた。世界的異能のスーパースター、剣聖スピーディア・リズナーはどこへ行っても各国マスコミから注目される。プライベートなことがらを散々に訊かれ、それらを煙に巻いたあと、この場所から警護対象の美冬を見守っている。


「本番に合わせてコンディションを整えるあたりは、さすがベテランのミフユね」


 悟の横に立つコーチのイリヤは、えんじ色をした毛皮のコート姿。氷の状態を維持するため、スケート場内は常時十二、三度ほどの温度が保たれているようだが、実際にはそれより寒く感じられる。


 美冬が狙われていることはマスコミには伏せていた。しかし、どこからか情報が漏れたらしく、数日前から各国の新聞やテレビ、インターネットニュースが騒ぎたてはじめた。さらに一部から“嵐を呼ぶ男”などとも称される剣聖スピーディア・リズナーが護衛についているのだから、なおのこと報道がキナ臭くなった。“偶然の剣聖の光剣、女王を狙う巨悪を断ち刻む”、“純白の銀盤が剣聖のせいで血の色に染まる”、“むしろ剣聖を敵に回した犯人に同情する”、“女好きな剣聖と四六時中共にいる香田美冬は妊娠するのではないか”、等々。


 だが当の美冬は狙われている身でありながら、練習にのぞめば、いつもと変わらぬ集中力を見せた。衰えたとはいえ、やはり女王と呼ばれる女である。客席にいる報道関係者たちから熱心な視線を多数向けられ、そしてカメラマンたちが放つ無数のフラッシュを受けながらも、彼女は淡々と演技を続けている。たいしたものである。


「でも、それでもエカテリーナ優位は変わらないわね」


 と、イリヤ。もうひとりの教え子であり、美冬のライバルであるエカテリーナは次週のカナダ大会に出る予定で、今回のアメリカ大会には出場しない。今は地元ロシアで調整しており、数日後にバンクーバー入りするという。イリヤは、このアメリカ大会を終えたら現地でエカテリーナと合流するらしい。コーチも選手同様に世界中を飛び回らなければならず、忙しい身のようだ。


「今の美冬とエカテリーナの差はなにかね?」


 個人的な興味から悟は訊いてみた。世間から、ピークを過ぎた旧女王、などと辛辣な評価を受けている美冬と、若き新女王と呼ばれるエカテリーナ。“ふたりの女王”のコーチングを受け持つイリヤの意見を聞いてみたくなったのだ。


「早熟短命な女子スケーターの身体的ピークは十代のうちにおとずれるものよ。だから若いエカテリーナのほうが有利。でも、それだけが理由ではないわね」


「なにか他の理由があるのか?」


「覚悟よ」


「覚悟?」


 悟は首をかしげた。意外な返答だったからだ。いま現在で有利とされるエカテリーナのほうに覚悟があるということか?


「追う立場の美冬に覚悟が足りてないとは思えねぇけどな」


 ショートプログラムの練習でありながら、美冬の全身は真剣そのものといった感じである。鬼気迫る“なにか”を可憐で儚げな演技で覆い隠しているようにも見える。そうでありながら“覚悟”がエカテリーナより劣るのだろうか。


「ああ、今の言葉は忘れて頂戴、剣聖スピーディア……」


 イリヤは一瞬だけ意味ありげに悟を見ると、再度グレーのその瞳を指導者らしくリンクの美冬へ向けた。彼女の横顔は年相応の皺を刻んでいるが、それでも美しいものだった。


 悟もリンクの中へ目を向けた。『月光』の第1楽章が山場を迎え、美冬の演技に迫真の憂いがこもる。そして氷上にステップを刻む彼女の後方……客席の三階、最上段にあたる場所に黒い銃口の鈍い光が見えた。


 すぐさま悟はフェンスを飛び越えた。ブーツを履いた足で着氷し、そのまま銀盤を切り裂く電光のようにリンクを走り、あっという間に演技をしている美冬に接近した。


「なに……?」


 曲中にステップを中断され、悟に腰を抱かれた美冬の、その言葉には二割の不満と八割の動揺があった。いや、わけがわからぬのは彼女だけではない。悟がとった突然の行為にリンク外のイリヤや報道陣が驚きの表情を見せる中、冷たい氷を粉砕する着弾音が鳴った。美冬が狙撃を受けたのである。





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