剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 7

 

「血で……血で書かれた、脅迫状だわ」


 “retired white《引退しろ》”と書かれた紙切れを見て、美冬は震えていた。勝負に徹してきたアスリートとして、そしてフィギュアスケートの女王として気高く存在する彼女であっても、我が身に降りかかる災難に対抗する術は持たないのである。ましてや、血で書かれた文面など恐怖の対象以外のなにものでもないだろう。


「血で……血で……」


「ちゃうちゃう、これは血じゃねぇよ」


 その脅迫状を指先でつまみ、美冬に見せる悟。


「犯人は血文字風に編集出来るソフトを使ったんだよ。だから、こんな風に血が垂れているように見えるだけさ」


 悟が言うとおり、文字のあちこちから血が垂れているように見える脅迫状である。ホラー映画のタイトルのような演出だが、ぱっと見は驚くものである。だが、よく見るとパソコンで作った物だとわかる。良く出来ているが血文字ではない。


「ち、血で書かれたものじゃないの?」


「違うよ、ほれ」


 悟は美冬に脅迫状を手渡した。


「な、な、なによ! まったく、びっくりさせないでよ」


 それを見て、いくぶん落ち着きを取り戻した様子の美冬。


「たいした怖がりようだったぜ」


「当たり前でしょ! わたし狙われているのよ」


「まァ、そりゃそうだな」


 悟は頭をかきながら……


「ところで美冬さん、目のやり場に困るんで、なんか着てくれる?」


 と、言った。


「きゃあああああああああああああっっっっ!」


 美冬は、脅迫状を見たさきほどよりもデカい悲鳴をあげた。なぜなら彼女は着替えの途中だったからだ。有名ブランドのロゴが入ったブルーのスポーツブラとレディースタイプのボクサーパンツからのぞく肌は白く繊細であるが、アスリートらしく引き締まっている。他には何も着ていない。


「は、早く言ってよ、バカ!」


「まずは脅迫状におびえる君の不安を取り除くのが先かと思ったのさ」


「出てって! 早く出てって!」


「あらあら、仲が良いのねぇ」


 ふたりの間に割って入ってきたのはコーチのイリヤである。いつの間にか部屋に戻ってきていたらしい。


剣聖スピーディア、手が早いとは聞いていたけれど、うちのミフユはレギュラーシーズンをひかえた大切な体よ。色恋ごとは困るわ」


 イリヤは悟と下着姿の美冬とを交互に見て苦笑した。


「違うさ、こいつぁ“不可抗力”ってやつだよ」


 悟は、イリヤに状況を説明しようとした。が、そのとき側頭部に強烈な痛みを感じた。何かが“飛んで”きたのである。






「いてててて……」


 ベッドの上で悟は痛みにうめいた。


「ごめんなさいね、シーズンが始まる直前だから、ミフユったらナーバスになっているのよ」


 イリヤはベッドの端に腰かけ、膝に悟の頭をのせている。そして美冬のドライヤーが直撃して、たんこぶができた側頭部を撫でてくれた。


「毎年、この時期はピリピリしているものよ。特に、ここ二年ほどは年下のエカテリーナに負け続きで、世間から“旧女王”なんて呼ばれてるものだから余計にね」


 その美冬は悟にドライヤーを投げつけたあと、バツが悪そうにバスルームへと消えた。やりすぎた、とでも思っているのかもしれない。実際、彼女の悲鳴を聴いてドアを開けた悟の行為に問題はなかった。ボディーガードなら当然のことである。


「あれくらい気が強くなきゃ、競技スケーターなんてつとまらないだろうからな」


 悟は、すこしだけあたたかいイリヤの膝の感触を頭のうしろにたしかめた。この女も、かつては美冬やエカテリーナと同じくフィギュアスケーターだったという。競技を離れたその身体は現役時代の筋肉質な名残りがあるようで、すこし硬い膝枕だった。


「でも、あなたって変な人ね。お化けや犯罪者と戦うような人なのに、ミフユが投げたドライヤーはよけられないの?」


 なおも膝に抱いた悟の頭のたんこぶを優しく撫で、イリヤは優しく笑った。ロシア人は劣化が早いといわれるが、四十代の彼女はまだまだ美貌を保っている。いま、悟の顔を見下ろす瞳はロシア人らしいグレーのもので、その視線には悟に対する興味の光があった。


「昔ッから女に甘くてね」


「自分で言ってれば世話ないわ」


 イリヤは、また笑った。その顔には美冬に厳しく接していたとき見られた険しさはない。


「ねぇ剣聖スピーディア、あんなミフユだけど、守ってくださるかしら?」


 しかし、すぐに彼女は真顔になった。そこに指導者としての側面があらわれた。


「私にとっては大切な教え子ですの。ノリにノッているエカテリーナもそうだけど、昔から面倒を見ているミフユのことも大事よ。どちらも今では娘のような存在だわ」


 美冬とエカテリーナという旧新ふたりの女王のコーチである、ひとり身のイリヤ。美冬との付き合いのほうが長いと聞いているが、両者に対する面倒見のバランスをとることは大変なのだろう。偏愛の精神ではコーチングの掛け持ちなどできない。


「まァ、それが仕事だからな」


 イリヤの膝枕の上で悟は言った。狙われている美冬を守ることが彼のつとめである。



 

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