剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 6

「嫌よ! あなたと“共同生活”なんて」


 ヒステリックな美冬の怒声が響いた。ここはサンクトペテルブルクにある高級ホテルの一室で、彼女が拠点としているラズヴリチェニィ・スポーツパレスから程近い。


「まァ、ンなこと言わずに仲良くしようぜ」

 

 悟はニヤけながら、室内のソファーに深々と腰掛け、脚を組んだ。


「だ、だからって、お、お、女と、お、お、同じ部屋で寝泊まりしようとするなんて信じられないわ」


 氷上に踊るフィギュアスケートの女王にふさわしい美冬の白い頬が赤く染まった。何者かに狙われている彼女を守るため、このホテルの同じ部屋に寝泊まりすることを提案したのは悟である。


「おいおい、なんかヤラしいこと考えてねぇか? 俺は君のボディーガードさ。いっしょにいるのは当然だろ」


 テーブルランプが置かれた台を挟んで並んでいるふたつのベッドを指さして、悟はさらにニヤついた。この部屋はツインである。


「いやらしいことを考えているのはあなたでしょ! よりによって女の部屋に寝泊まりしようなんて」


 美冬はサンクトペテルブルク市内のアパートでひとり暮らしをしている。だが、いつ襲われてもおかしくないため、悟が強制的にここに住まわせることにしたのだ。このホテルは各国のVIPがよく利用することで知られており、狙撃されにくい場所に建っている。


「俺と四六時中いっしょにいるほうが安全さ」


「マスコミにかぎつけられたらどうするのよ! わたしは数社のCMに出てる身よ。スキャンダルは命取りになるのよ!」


「あら、それはそれでいいじゃない。剣聖スピーディア・リズナーみたいなスーパースターと噂になるなんて、かえっていい話題作りになるわ」


 傍で聞いていたイリヤ・アダモフは笑顔を見せながら重そうな美冬のスポーツバッグを床に置いた。コーチである彼女が荷物持ちをしているが、シーズン開幕を控えた時期なので美冬が怪我をしないよう気をつかっているのだろう。


「イリヤ、馬鹿なことを言わないで!」


「あら、私は本気よ」


 イリヤは笑いながら悟の前に立った。コーチとしての彼女は厳しいが、普段はわりと愛想よい女のようだ。


「むしろ私が剣聖スピーディアと噂になりたいくらいだわ」


 四十代のイリヤだが、その美貌には若き日のおもかげも残っているのだろう。ロシア人らしいグレーの瞳には輝きがあり、金髪の艶も良い。きざまれた皺のせいで若い女たちのようなフレッシュさは見られないが、年季の入った表情がある。それは魅力的なものだった。


「でも、こんなオバサンは眼中にないかしらね」


「ンなこたァねぇさ。あなたのようないい女とパパラッチされるんなら、野郎としての俺の格が上がるってもんだ」


「あら、お世辞がうまいのね」


「とんでもない。異能業界では俺は正直者で通ってる身だぜ」


「では半ば本気と、とらえておくわ」


「全部本気にしてくれて、かまわないんだぜ?」


「まァ、どうしようかしら」


「ちょっと! 私の話を……」


 勝手に盛り上がる悟とイリヤの間に美冬は割って入ろうとした。その表情は必死である。


「安心して頂戴、ミフユ。私もここに寝泊まりするわ。三人なら問題ないでしょう?」


 イリヤが言ったとき、彼女の携帯が鳴った。


「知人からだわ。少し失礼しますわね」


 と、言い残しイリヤは部屋を出た。フライトジャケット姿の悟、練習あがりの美冬と同様、彼女の格好もラフなものだったが、それで高級ホテル内を出歩くことができるのは有名人特権である。そして部屋に残された悟と美冬の間に、なんとも言えない微妙な空気が流れた。


「イ、イリヤが言うから仕方ないけど、でも私はあなたをボディーガードだなんて認めませんからねッ!」


 美冬は強く言うと、イリヤが運んできたスポーツバッグを持って隣室へと消えた。


(やれやれ)


 寝室にひとり残された悟は、やけに肌触りの良いベッドに腰かけた。ここの宿泊経費は日本ウインタースポーツ協会が出しているので最上級スイートというわけにはいかないが、ホテル自体が立派なため、それなりに豪華な造りである。家具などの調度は上等な物をそろえてあり、間取りも広い。


 美冬が狙われている。単なる脅しとも考えられるが脅迫状が届いているのは事実である。差出人の正体は国際異能連盟が調査してくれている。悟はボディーガードとして雇われた身なので美冬のそばにいることが好ましい。グランプリシリーズは約二ヶ月にわたるので長期の仕事、ということになる。その間、試合の開催地であるアメリカや日本まで彼女に同行する予定だ。


 なぜ美冬が狙われなければならないのか? ライバルのエカテリーナは“自分のファンかしら”と言っていたが、ありえなくはなくとも、それは冗談だろう。熱狂的な美冬のファンがストーカー化したとも考えられるが、そのわりに脅迫文自体は簡素なものだった。ストーカーならば、もっと自己主張が強い内容を書くものだ。そういった文章ではなかった。


(連盟からの連絡待ちになるか)


 多少、時間がかかるかもしれないが、それが一番確実であろう。美冬のボディーガードたる悟自身が調査に出向くわけにはいかないからだ。


 “きゃああああっ!”


 突如、美冬が入っていった隣室から悲鳴がした。彼女の声だ。


(おいおい、ゴキブリでも出たか)


 悟は苦笑した。各国の政治家もよく利用するこのホテルはセキュリティが厳重であるため、悪党が潜んでいることなどあり得ない。だから美冬の悲鳴を聴いても慌てることはなかった。


(ああ、でも荷物に不審物を仕込まれた可能性は、なくもねェな)


 悟は腰を上げると、隣室のドアの前に立った。


「どうした? 賊かッ!?」


 いちおう、女がいる部屋に入るには、それなりの大義名分を要する。悟は少しわざとらしく大きな声をかけ、ドアを開けた。


 隣室は洗面台と鏡が置かれた、いわゆるドレッシングルームだった。あまり広くはないが寝室と同じく高級ホテルにふさわしい洒落た調度で囲まれており、クローゼットがある。着替え途中の美冬がスポーツブラ姿で、そこにいた。


「そ、それ……」


 彼女は震えながら自分のスポーツバッグを指さした。


「あン?」


 と、悟は、その中をのぞいてみた。衣類や化粧品ポーチの他、一枚の紙切れが入っている。それには赤く大きな文字で『retired white』と書かれていた。”引退しろ”という意味だ。


「ち、血で……血で書かれた脅迫状だわ」


 下着姿の美冬は青ざめた顔をして、なおも震えていた。



 



 

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