剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 4
“ダメだな”
という悟の予告どおり、ジャンプの着地に失敗した美冬は、氷上に手と尻をついた姿勢のまま、その美しい顔に悔しさをにじませた。
「ほう、わかりましたか、
戸村が驚きの声をあげた。日本ウインタースポーツ協会の理事であるこの男も、かつてはフィギュアスケーターだったと聞いている。元現役にして解説もこなす彼ならば、今の美冬のジャンプがなぜ失敗したか理論的にわかるのかもしれない。
「回転軸がズレてたからな」
だが、素人の悟にもわかるほどに美冬のジャンプはブレていた。そして滑走のスピードも、いまひとつ足りていなかった。あれでは空中で三回転するのは不可能だ。
(それにしても、フィギュアってのは難儀なスポーツだな)
再び立ち上がり、練習を始めた美冬を見て悟は同情してしまった。フィギュアスケートというスポーツは、あまりにも人体の関節や筋肉がたどる正方向の動きから逸脱して成り立っているからだ。跳ぶ、ひねる、滑るといった主要なアクションがもたらす肉体への負荷があまりにも大きい。
「体のあちこちに故障を抱えてるようだな」
「美冬も、もう二十三歳ですからな。五歳のころからスケートを始めた彼女の体は既に限界なのですよ。一昨年のオフには膝の手術を受けていますが、腰も悪い。とっくに競技からの引退、アイスショーを中心としたプロ転向も考える時期に入っています」
「おいおい、ンな大事なこと俺に話してもいいのか? マスコミには伏せてんだろ」
「あなたは口が堅い、と聞いておりますので」
戸村の言うとおり、剣聖スピーディア・リズナーは口が堅いことで知られている。世間では“チャラ男”、“カッコつけ”、“偶然の剣聖”などとも呼ばれる男だが、仕事で関係した人の秘密は守る。
「ミフユ! そこは、もっと柔らかく! 表情もなってないわ!」
美冬の演技を見守るコーチのイリヤから叱咤が飛んだ。悟と戸村から十メートルほど離れたフェンス際から、よくとおる声で指導をしている。
「それでは白鳥の悲哀は表現できないでしょ! ほら、違う! そこはもっと悲しげに!」
『白鳥の湖』にのって踊る美冬に、イリヤのキツい注文が容赦なく浴びせられる。失敗したジャンプを除けば、故障を複数抱えているという美冬の演技に欠点はないように見える。だが、当事者たちに妥協点はないらしく、ハードルは高いようだ。
「いったん休憩にするわ! ミフユ、あなたはあがりなさい。次、カチューシャ!」
イリヤが手を叩くと、トレーニングウェアを着たもうひとりの教え子エカテリーナ・グラチェワがリンクに入り、滑り出した。“カチューシャ”とは、エカテリーナのロシア式の愛称である。師弟関係にある親しいロシア人同士なので、そういう呼び方になるようだ。
選手交代、となった。練習を終えた美冬と、これから練習に入るエカテリーナが一瞬だけリンクの中ですれ違った。だが、両者とも目を合わせようともしない。同じコーチに師事する者同士だが、姉妹弟子である以前にライバルである、ということだろうか?
「昨日のやりとりから察するに、ふたりは仲が悪いようだな」
悟はフライトジャケットのポケットに手を入れた。氷のコンディションを維持するためだろうが屋内のスケートリンクは、鍛えている彼が寒さを感じるほどに気温が低く調節されている。フィギュアスケートをテレビ中継で見ると、観客は皆、厚着をしているものだが、その理由がわかった。
「同じ門下である以前に競争相手ですからな」
戸村の返答には愛想がある。解説者でもあるこの男には、人に聞かせる柔らかな語り口が身についている、とでも考えればよいのだろう。雑誌のコラム等の仕事もあるという。
「もっとも、エカテリーナがシニアデビューしてからというもの、美冬のほうが負け続きですが」
戸村の、その言を聞き、悟は昨日エカテリーナが美冬を“落ち目”と評したことを思い出した。微妙な人間関係だけでなく、競争上の力関係というものが両者間にあるようだ。
エカテリーナがリンク中央に立った。天を仰ぎ、憂いの表情を見せている。数秒もしないうちに曲が流れはじめた。チャイコフスキーの『白鳥の湖』である。
「同じ曲なのか」
悟は戸村に尋ねた。細部のアレンジや楽器の構成が異なるが、美冬と同じ曲でエカテリーナは踊りはじめた。
「ええ、今期は美冬もエカテリーナも、フリースケーティングで使用する曲は『白鳥の湖』です」
「コーチが同じなら、使う曲まで同じになるのか」
「いえいえ、同じコーチに師事する選手でも、曲まで同じになることはほとんどありません。偶然ですかな」
戸村に、そう言われ、悟は氷の上の白鳥となったエカテリーナを見た。振り付けは美冬のものと違うが、振付師は別人が担当しているのだろう。掴みの演技を見せたあと、エカテリーナは後ろ向きの滑走に入った。ジャンプの体勢だ。彼女はエッジを氷に突き、跳躍した。
「見事だな」
またも悟の予告は当たった。さきほどの美冬と違い、エカテリーナは華麗に三回転ジャンプを決めたのだ。しかも単発ではない。立て続けにもう一度三回転ジャンプを見せ、さらに二回転ジャンプを付け足した。見事な三回転、三回転、二回転のコンビネーションジャンプである。
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