剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 3


「でも、わざわざ“落ち目”のあんたを狙うなんて、物好きな殺し屋もいるんだねぇ」


 エカテリーナは美冬に対し、堂々と言い放った。


「犯人は、ひょっとして熱烈なあたしのファンかなぁ? なら余計なお世話だよぉ。あんたに負けるわけないもん」


 “美冬に今期のグランプリシリーズを全戦欠場させろ”。それが脅迫状の内容だった。エカテリーナの予想は突飛ではあるが、可能性としてなくもない。ふたりが対等のライバルであるならば……


 挑発を受け、美冬はエカテリーナをにらみつけた。アスリートらしい気の強さは怒りの視線にもあらわれている。だからこそ気高き“女王”と呼ばれるのだろう。


「あーン、怖ーい」


 エカテリーナは、コーチであるイリヤの手をとった。


「イリヤ、早くいこぉ。ここにいたらミフユに殺されちゃうよぉ」


 そう促されたイリヤは席を立つと、悟に対し挨拶もそこそこに、エカテリーナと退室した。この控え室には悟と美冬、日本ウインタースポーツ協会の戸村の三人だけが残った。


「あまり仲が良くないらしいな」


 悟は、言いたい放題言われ、両の拳を握りしめている美冬のほうを見た。


「仲ですって? 良いわけないでしょ」


 美冬の口から不機嫌な声が飛んだ。彼女とエカテリーナは共にイリヤに師事する身である。それゆえのライバル関係、と言うことだろうか?


「まったく失礼な娘だ。ロシア選手団に抗議せねばならん」


 戸村も憤慨している。が、表向きだけだろう。本気で抗議する気なら、とっくにしているはずだ。


「あんなポッと出の子に、負けてたまるものですか!」


 美冬の目には、フィギュアスケート界の女王にふさわしい闘争心が燃えていた。






 日本人フィギュアスケーターの香田美冬は現在二十三歳。八年前、中学生にして競技フィギュアの最高峰であるシニアクラスに参戦した彼女はルーキーイヤーから頭角をあらわし、あっという間にトップ選手へとのし上がった。当時は氷上のアーティスト、銀盤の妖精などと呼ばれたが、そういった評価を得た理由は繊細な表現力を持っていたからだったという。もちろん五種類の三回転ジャンプを飛びこなし、ステップではレベル4を獲得するなど技術面でも優れていたが、美冬のスケーティングを論ずるとき、可憐で儚げな演技を語らぬ者はいない。彼女自身、練習の合間にバレエ教室に通うなどして、表現力を身につけた。これまでに日本代表として世界選手権を三度、グランプリファイナルを四度制しており、そして前回の冬季オリンピックでは銅メダルを獲得している。シニア公式戦通算三十二勝は日本人歴代最多となる。若くして数々の主要タイトルを獲得した美冬のことを妖精などと呼ぶ者は今ではいなくなった。その実績にふさわしい二つ名である“女王”と称されている。


 ロシア人コーチであるイリヤ・アダモフと美冬との師弟関係は六年に及ぶ。長く続いている両者の仲は世間では“フィギュア界の蜜月”とも呼ばれている。第二の母とも慕うイリヤとの意思疎通を深めるため、美冬は高校卒業後、日本の大学に籍を置きながら、ここロシアに練習拠点を移した。目標は前回のオリンピックで逃した金メダル、と公言しており、優勝候補の“ひとり”であることは間違いない。






 ラズヴリチェニィ・スポーツパレスにあるスケートリンクのフェンス外側に立っている一条悟は、国際異能連盟から送られてきた香田美冬に関する資料を折りたたみ、フライトジャケットの内ポケットに入れた。彼は、さほどフィギュアスケートに詳しくなかったため、ひととおりの情報を頭に入れておいたのである。それが美冬のボディガードに役立つか否かはわからないが、知らないよりはマシ、と考えたのだ。


 昨日、初めて会った美冬が今、リンクの中にいた。黒いトレーニングウェアを着ており、練習をしている。白い氷の上を流れるような彼女のスケーティングは悟のような素人にも美しいものだとわかる。スケート靴のエッジが削る氷の量は少なく、また、その音がほとんどしない。


「美しいでしょう。あれが日本フィギュア界の至宝である美冬の演技ですよ」


 悟の横に立つ戸村が言った。日本ウインタースポーツ協会の理事である彼は、かつてフィギュアスケート男子シングルの日本代表をつとめていたという。競技引退後はアイスショーに出演するプロに転向し、解説者業もこなしていた。現在でもテレビ中継で、その軽快な語り口を聞くことができる。


「たしかに、美しいな」


 トレーニングウェアにくっきりと浮かび上がった美冬の尻を目で追いながらも、悟は本音で感想を述べた。チャイコフスキーの『白鳥の湖』に合わせて氷上に踊る美冬は、練習であっても人の姿を失ったオデット姫の悲哀を存分に表現している。自己の肉体ひとつで、ときに優雅、ときに残酷な情景を人々に見せる彼女は、たしかにフィギュアスケート界の女王だった。それは揺るぎない事実である。


 美冬が後ろ向きに滑走をし始めた。ジャンプの体勢だ。上体を右にひねり、左の爪先を氷に突いたあと、反時計回りに踏み出した。彼女は曲のストーリーに合わせ、悪魔の呪いをかけられた白鳥の悲しさをあらわすかの如く、飛翔した。


「ダメだな」


 悟はつぶやいた。その言葉どおり、降下した美冬は着氷に失敗し、銀盤の上に転倒した。まるで、翼をもがれた白鳥のように……



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る