剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 2
「ミフユ、いい加減になさい!」
騒がしい場を一喝したのは、今まで黙っていた外国人の女だった。美冬のコーチをつとめるイリヤ・アダモフである。四十代の彼女は、かつて一線で活躍したフィギュアスケーターだった。劣化が早いロシア人にしては美貌を保っており、金髪の艶も良い。
「イリヤ、でも……」
悟からの護衛をかたくなに拒絶してきた美冬だが、このコーチには頭があがらないらしい。彼女は困った様子で、悟とイリヤを交互に見た。
「ミフユ、協会の方がせっかく配慮してくださったのに、なんなのその態度は」
そう言われ、美冬は固まった。まるでイリヤの、ロシア人らしいグレーの瞳から発せられた熱線に打ち据えられたようである。さっきまでの勢いがない。
「世界的に名高い剣聖スピーディア・リズナーが護衛してくださるのよ。光栄なことだわ」
タートルネックセーター姿のイリヤは悟の目前に立ち……
「
と、すこし頭を下げた。どうやら日本式の挨拶を実践しようとしているらしい。
「堅ッ苦しいことは言いっこなしだぜ。これは仕事だからな」
悟は、そんなイリヤの前に跪き……
「こちらこそ、よろしく頼むぜ」
と、イリヤの手をとり、その甲に口づけた。この男がすると実に様になる仕草だ。まさに“イケメンに限る”、である。
「まァ、どうしましょう。この年になって、あなたにときめいてしまいそうだわ」
「あなたみたいな美人なら、むしろ歓迎さ」
「あら、お上手なのね、スピーディア。ひとり身の私を本気にさせるおつもり?」
頬を赤らめるイリヤと、キザに笑う悟が見つめあった。剣聖はストライクゾーンが広いと、一部マスコミがよく書きたてる。
「待って! わたしは、まだ彼からのボディーガードを承諾してないわ」
そんなふたりを見ていた美冬が、いても立ってもいられないといった表情で抗議した。
「ミフユ、これは私からの命令よ。従いなさい」
イリヤは美冬をにらみつけた。悟に対する態度とえらく違う。どうやら教え子にはつらく当たるタチのようだ。
「いやいや、良かった。どうやら話はまとまったようですな」
傍で見ていた日本ウインタースポーツ協会理事の戸村が、ホッとしたようすを見せる。
「ああ、早くも一件落着だな」
「よろしくお願いしますわ。スピーディア」
「まかしとけって。それにしてもロシアは相変わらず
「ちょっと待って! 本当にこんな人をボディーガードに雇うつもりなの?」
悟、美冬、そしてイリヤ。三者とも言いたいことを言っている。すると、控え室のドアが開いた。
「イリヤぁ、そろそろ、あたしのコーチングの時間だよぉ」
入ってきたのは、美冬と同じジャージ姿の外国人少女だった。金髪を後ろで結んでおり、日本ブランドのトレーニングシューズを履いている。こちらもフィギュアスケーターのようだ。
「あれぇ? ミフユ、なに怖い顔してんのぉ?」
少女は美冬をからかうように一瞥すると、イリヤの腕をとり……
「ほらほらイリヤ、早く行こうよぉ。あたし今日あんまり時間ないんだからぁ」
と、間延びした口調で催促した。
「スピーディア、この娘は私がみている“もうひとり”の選手なのです」
イリヤが悟に少女を紹介した。フィギュアスケート業界では一人のコーチが国籍の異なる複数選手の面倒をみることは珍しくない。
「スピーディア? まさか、あの剣聖スピーディア・リズナーなのぉ!」
少女は、たいへん驚いたようすを見せた。
「すっごくラッキー! すっごくカッコいい! あたし、ロシアのエカテリーナ・グラチェワっていうのぉ!」
エカテリーナとなのったロシア人少女は悟に抱きつくようにした。初対面にしては馴れ馴れしく映る光景だが、これは挨拶である。
「こちらこそ、君のような有名人に会えて光栄だ。“ディエーヴゥシカ”」
“お嬢さん”と呼んで、悟はエカテリーナの左右の頬にチークキスを返した。異国の流儀に合わせてもカッコいいのが剣聖スピーディア・リズナーと呼ばれるこの男だ。
「でも、なんでスピーディアがこんなとこにいるのぉ?」
エカテリーナは首をかしげ、美冬のほうを見た。
「ああ、例の“脅迫状”の件? ミフユも大変だねぇ」
その声には、どことなく挑発的なイントネーションが含まれている。対する美冬はエカテリーナのほうを見ようともしない。同じコーチに師事する者同士だが、あまり仲が良くないようだ。
「でも、わざわざ“落ち目”のあんたを狙うなんて、物好きな殺し屋もいるんだねぇ」
エカテリーナは美冬に対し、堂々と言い放った。
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