剣聖の記憶 〜女王ふたり〜

剣聖の記憶 〜女王ふたり〜 1

 

 201x年のサンクトペテルブルク。美しいこの街は、かつて革命の中心地だったという。血塗られた歴史の痕跡はペトロパブロフスク要塞や冬宮殿に見ることができるが、長い時を経た現代においては、やはり景観地としての側面が強い。年間数千万の外国人が訪れる、ロシア最大の観光名所である。


 帝政時代のなごりも見られる中心部から二キロほど行ったところにラズヴリチェニィ・スポーツパレスは存在する。広大な敷地の中に建つ近代的な円形の建造物は多目的の用途に対応しており、各種屋内競技の他、コンサート、演劇、演奏会などにも使われる。国立のもので総建設費用は三千万ロシア・ルーブルにのぼったといわれる。かけた金に比例して立派なものだ。


「“ボディーガード”なんて、いらないって言ったでしょう!」


 その、ラズヴリチェニィ・スポーツパレス内の一室にヒステリックな女の声が響いた。


「シーズン中に知らない人がそばにいると気が散るんです! 帰ってもらって頂戴」


 彼女の名は香田美冬こうだ みふゆ。二十三歳。女子フィギュアスケートのトップ選手である。長い黒髪もつややかな美しい容姿と実力実績から日本では国民的人気を誇り、世界的にも当代最高峰の選手と認識されている。華やかさと可憐さを前面に押し出した演技を披露することから“女王”の異名を持つ。


「馬鹿なことを言ってはいかん、君は狙われているのだよ」


 困った風の男は、日本ウインタースポーツ協会理事、戸村幸一郎とむら こういちろうである。元フィギュアスケーターでもあり、公式の場にはよく姿をあらわす。彼は茶色の背広のポケットから一枚の脅迫文を取り出した。


「“香田美冬に今期のグランプリシリーズを全戦、欠場させろ。さもなくば彼女の命はない”、と書かれているのだ。フィギュアスケート界の至宝である君を危険に晒すわけにはいかないが、興行上の理由から欠場されても困る。だから、ボディーガードをつけるのだ」


「欠場? 心配しなくても、そんなこと、するつもりはありません!」


 ジャージ姿の美冬は椅子から立ち上がった。その瞳に、高い気位と決意が燃えている。


「わたしは女王と呼ばれる女。たとえ命を狙われていようとも、目の前の試合から逃げ出す気はないわ」


「だから、ボディーガードが必要なのだ。わかってくれないかね、香田君」


 なんとか説得しようとする戸村と聞く耳を持たない美冬。両者の他、この控え室にはもうひとり、金髪の外国人女性がいるが、彼女はさきほどから黙っている。ひとことも発しない。


「協会の希望どおり、シリーズに出場はするわ。でもボディーガードなんて不要です!」


 強く言い放った美冬が退室しようと出口へ歩いて行ったとき、ノックもなしにドアが開いた。入ってきたのは、フライトジャケットを着た日本人男性である。その右肩に刺繍されたワッペンは“into the fire”と呼ばれるもので、炎に向かって手を伸ばす様が描かれている。


「あなたは、まさか……?」


 世界中の誰もが知っている有名なそのワッペンを見て、“彼”が何者なのかを理解したらしい美冬の頬が、一瞬にして赤く染まった。無理もない。女性的で美しいルックスをしたこの男を間近で見れば、女はみな同じ反応を示す。


「おお、どうぞこちらへ」


 戸村は、うやうやしく立ち上がり“彼”を迎えた。


「香田君、知っているだろう? かの剣聖スピーディア・リズナーだよ。国際異能連盟を通して君のボディーガードを、この方にお願いしたのだ」


「馬鹿言わないで!」


 しかし、すぐに強気の顔を取り戻した美冬は戸村に怒りの視線を投げつけた。


「さっきも言ったでしょう! 知らない人にうろつかれると気が散って集中できないのよ。ましてや、こんな得体の知れない……」


 と、美冬が言いかけたとき、剣聖スピーディア・リズナー、一条悟は、その美しい目で彼女の顔をじっと見つめた。


「な、なによ?」


 負けずに睨み返す美冬。


「氷の上では女神のような微笑みを見せるくせに、素顔はとんだ跳ねッ返りだ」


 悟は、行儀悪くフライトジャケットのポケットに手を突っ込んだまま彼女をからかった。


「あなた何様? 初対面で説教する気?」


 その仕草に腹をたてたか? 銀盤の女王たる美冬は、それにふさわしい氷のような鋭い眼差しを悟に向けた。


「いいや、君のようなキッつい女の取り扱いには慣れてるんでね。俺はむしろ、おだて上手さ」


「噂どおりのプレイボーイね。わたしには、あなたのようなチャラい男のボディーガードなんて必要ないわ」


「それが、そういうわけにゃいかねぇのさ」


 悟は親指と人差し指で、輪っかを作って見せた。すると……


「実はだね、すでにスイス銀行にある剣聖スピーディアの口座に前金を支払っているのだよ」


 戸村が事情を説明した。悟に美冬の護衛をさせるため、協会費を使ったわけである。


「わたしに断らず勝手に? なにを考えているのよ!」


 美冬は、もはやブチ切れている。戸村のようなお偉方に対しても強く出ることができるのは、フィギュアスケーターとしての彼女の戦績と人気がズバ抜けているからに他ならない。世界選手権で三度の金メダル。グランプリファイナルで四度の金メダル。そして前回の冬季オリンピックで銅メダルを獲得した美冬は、現在八社のCMに出演する日本で最も愛されるアスリートのひとりである。好きなスポーツ選手ランキングの女性部門では四位以下に落ちたことがない。協会から見れば稼ぎ頭でもある。


「と、いうこった。よろしくな、美冬さん」


 悟は軽いノリで右手を差し出し、握手を求めた。


「じょ、冗談じゃないわ。わたしから協会に言って、今すぐ前金を……」


「ミフユ、いい加減になさい!」


 騒がしい場を一喝したのは、今まで黙っていた外国人の女だった。美冬のコーチをつとめるイリヤ・アダモフである。



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