ニュー・オーバーテイク 〜淫情剣〜 17


「もし志村を殺し、妹の仇をとってくださるのならば、私のこの身体もさしあげましょう」


 夜の街灯の中、寿子はベージュのブラジャーに覆われた胸を自ら揉みしだき、悟に見せつけた。その乳房は相当肉厚であるらしく、彼女の手の動きに合わせ、形状を柔らかに、そしていびつに変えてゆく。


「ああ……」


 寿子は喘いだ。そうやって悟を誘っているのだ。見事な大きさの胸だが、重力に従い、やや垂れ気味である。股間を隠す平凡なデザインのパンティもベージュのもので、腹や太腿に濃厚な脂がのっている。若さよりも円熟を、張力よりも弛緩を、そして弾性よりも吸引性を思わせる柔らかそうでユルい身体である。まだ二十代でありながら、どこか男の興味と欲望をそそる、しまりのない肉づきだった。


「私の身体……文句がありまして?」


 悟の目前にて挑発し続ける彼女からは数秒前までの健気で真摯な表情が消えていた。もともと地味なはずの顔は男の視線の中でしか見せることのない愛欲に濡れ、そして男の体温の中でしか咲かない花を見せていた。それは道端にひっそりと咲く清楚な菫でも、情熱の色に染まる華やかな薔薇でもない。毒々しさすら持つ妖しい食虫花である。突如“変貌”、したのだ。


「文句はねぇよ、あんたは、いい女だ」


 その熟れきった身体を見た悟は端正な顔に好色を浮かべた。話にのろうか、と言わんばかりに……


「私、生前の妹が通っていた美容専門学校の学費を捻出するため、夜はデリヘルで働いておりましたの。実家は裕福ではなく、またOLとしての私のお給料だけではとても足りなかったのです」


 寿子は悟にしなだれかかった。さきほど男たちに無理矢理飲まされた酒の香りが残っている。それに彼女本来の体臭がすこし混ざり、薄明るい夜の路上にきつく匂いたった。


「そのお仕事では“団地妻のサッちゃん”と呼ばれておりました。私、ひとり身なのですが、この顔とこの身体にはそのような魅力があるらしく、スタッフの方が名付けてくださったのです」


 たしかに、この女のだらしない身体は欲求不満に悩む団地妻を男に想像させるものである。性に淡白な夫の帰りを待てず、昼下がりから別の男を連れ込み、古ぼけた団地の黄ばんだ畳に押し倒されたがっている。そんな役割を彼女に与え、頭に描いた不倫を疑似的に楽しむ男性客が大勢いたに違いない。


「妹が家族を……そして私を愛していないことは知っていました。そもそも彼女の心と頭を壊し、愛を奪ったのは私自身ですもの……」


 寿子は悟の首筋に酒で湿った息を吹きかけた。子供のころ、暴力をふるったことで妹が壊れたと思っている彼女。その真相は医師にも志村にもわからぬまま、雷同が手をくだしたことで永遠に闇の中へと葬られた。


「私、とっても“上手”ですのよ……私のサービスを受けたお客様はみな、つきたてのところてんのように骨抜きになってしまったものです。“団地妻のサッちゃん”は入店後すぐに指名ナンバーワンになったものですわ。その快楽をあなたにもさしあげましょう」


 嗚呼……この女の団地妻のような魅力は、本来そなえていただらしない身体と、夜の仕事で研磨した“性技”……その両輪を一身に集めることで成立していたのだ。それらはすべて妹の学費を捻出するためのものだった。


「妹が本気で美容師になりたいと思っていなかったこともわかっていたのです。ですが私のせいで心を壊し、なんの目標も持たなかった彼女がはじめて明確な将来を語ったときの……電話口で喜んでいた両親の声は今でも忘れられません。そして彼女を金銭面で支えるのが私の償いであると考えました。たとえ姉である私に対する愛がなかったとしても……」


 自分のせいで妹が壊れたと考えている寿子は“偽りの団地妻”となり、その身を客たちに捧げたのである。それが償いだと考えていたのなら、悲しいことであろう。男たちの慰みものとして生きる決意をかためた心中がいかばかりのものであったか。それは誰にもわからない。


「だからこそ、妹の人生を閉ざした志村を許せないのです」


 寿子は悟の首に手をまわしながら見上げた。本来の、地味な顔に宿る劣情もまた、男が妄想する団地妻としての側面であろうか。普段は平凡であるが、好き者を演じることができ、己の表裏を自在に使いわける。女の怖さとは肝心なときに“変わる”ことができる捨て身の決断力なのかもしれない。


「志村を、殺してくださいませ……」


 悟に唇を近づける寿子。肉体と性的技巧を誇示し、世界を股にかけてきた剣聖を誘う偽りの団地妻。その魅力、並みの男ならば、あらがう術すら思いつかぬほどの魔性を持つ……


「雷同が言っていた。妹さんは死ぬ前に、あんたの名を呼んだそうだ」


 ふたりの唇が触れ合う直前、悟は言った。すると、寿子の動きが止まった。


「それは心臓を貫かれたときのことらしい。普通なら口も聞けない状態だったはずだが、なぜかあんたの名を呼んだそうだ」


 たしかに雷同は言っていた。自分の剣に刺し貫かれながら、彼女は姉である寿子の名を二度呼んだ、と……


「ひょっとしたら、胸を貫かれたショックで壊れた心が蘇ったのかもしれねぇな」


 悟が本気で言っているのか否か、それは口調からはわからない。多くの人たちの生き死にを見てきたこの男にどれほどの情け容赦があるのかも誰も知らない。剣聖スピーディア・リズナーは金でしか動かない男である、というのが世間一般の評だった。


「妹さんがあんたを愛していなかったかどうかはわからねぇ。だが、最後にあんたのことを頼ったのは事実さ」


 そんな悟の言葉を聞くと、寿子は下着姿のまま、その場にへたりこんだ。ただそれだけの仕草であちこちが揺れるだらしない団地妻のような肉体は、このとき肩を落とし、そして首はうなだれていた。


 さきほどの婦人警官が二人の男性警官を伴い駆けつけてきた。さすがに下着姿の寿子を見て異常を感じたようである。


「志村を殺してくださいませ……」


 男性警官二人に背中から拘束された寿子は、なおも言った。いま彼女からは淫質な光が消え、健気で地味な素顔に立ち戻っていた。妹の最後の言葉を知り、失意の中ですこしはむくわれたのだろうか。


「あなた様に人としての情がおありなら、志村を……志村を、どうか殺してくださいませ……!」


 屈強な警官たちに引きずられながら彼女は叫んだ。その声に悲しみがある。団地妻の気配をなくし、“本来の顔”に戻っても復讐心だけは忘れることがないようだ。


 “女は化けるものよ……今の私みたいにね”


 さきほどオーバーテイクを受け取ったとき、真知子がそう言っていたが、男には理解しえぬ女の本質をついた言葉だったのかもしれない。妹のためと称し、偽りの団地妻へと身を堕とした彼女が志村を殺せと願ったとき、たしかに彼女は違うものへと化けた。悟を誘うために見せた淫猥な顔だった。


「ああ……ひとでなし……情を持たないあなたは氷のように冷たいひとでなしですわ……!」


 志村を殺してほしいという願いが届かぬと知ったか。悟への恨みごとを叫びながら遠ざかる下着姿の寿子。周囲の物見客たちからの好奇の目にさらされる彼女自身、どちらが自分の顔なのか、もうわからなくなっているのかもしれない。


 悟は、そんな寿子に背を向けると再び歩き出し、夜の路上の風となり消えた。彼の愛刀オーバーテイクはメモリーカードにより戦いの模様をその本体へと記録する。そして関わった人々の記憶をとどめ置くのは悟自身である。最後にして偶然の剣聖は人情も、果ては“淫情”すらも……幾多の思いを飲み込み、明日も剣を掴む。たとえそれが、どんなに苦く、やるせない結末を迎える、とわかっていても……






『ニュー・オーバーテイク 〜淫情剣〜』完。





 


 

 

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