ニュー・オーバーテイク 〜淫情剣〜 16

「妹の心を……そして“頭”を壊したのは、他ならぬ私ですもの」


 寿子は右手を自分の胸に、そして左手をこめかみに当てた。地味な感じの彼女だが、そのとき見せた表情には憂いがあり、悪いものではない。だが、やはり地味な女である。派手さ華やかさとは縁遠い。


「あれは私が中学生のころでした。大崎で農家を営んでいた両親が畑に出ており、まだ幼かった妹とふたりで留守番をしていたのです……」


 遠くでまわるサイレンの赤い光と、街灯がもたらす白く柔らかな光が暗い路地で結合し、この場を不思議な色合いの空間に変えていた。そんな中にあっても、過去を語る寿子は、どこにでもいそうな普通の女にすぎない。団地妻のようなだらしない身体はコートの中に隠されており、それが発する雌の体臭が外に漏れることはない。


「当時、妹は元気で言うことをきかない子でした。忙しかった母に代わり面倒を見ていた姉の私が“おもちゃをかたづけなさい”と言っても“静かにしなさい”と言っても従わなかったものです。日ごろから鬱憤がたまっていた私は両親がいないのをいいことに妹の頭を叩きました」


 寿子は右手を胸から離し、その手のひらをじっと見た。妹に手を上げたときの感触を思い出しているかのように……


「強く叩いたつもりはなかったのです。手加減したつもりだったのです。ですが妹はそれで気を失ってしまいました。両親に咎められることをおそれた私は救急車を呼ぶこともせず、ただ呆然と立ちすくむだけでした……」


 寿子の声は徐々に沈んでゆく。聞いている悟は、只々美しい無表情である。


「さいわいなことに妹は十分ほどで目を覚ましました。命に別状はなく、そのときはほっとしました。ですが彼女の異常はすぐに見られるようになりました」


「異常?」


「それから数日後、祖母が急死したのです。妹は、お祖母ちゃんっ子で、よくなついていましたので、それはそれは悲しむことだろうと思っておりました。ところが……」


「悲しまなかった?」


「はい、それどころか運ばれた病院のベッドの上で眠る祖母の死に顔を見て、開口一番“ねえ、おやつの時間だから早く帰りたい”などと言いだしました」


「たしかに異常だな」


「その後も妹のおかしな行動や言動は続きました。車に轢かれた猫の死骸を見て薄ら笑いを浮かべたり、悲しいお話のアニメを見ても子供らしい反応を見せなかったり。心配した両親は、すぐに鹿児島市内の大きな病院へと連れて行き、お医者様に相談しました」


 寿子は肩かけバッグの中から取り出したハンカチで涙を拭いた。それもまた、普通の女の仕草にすぎない。


「私は恐怖しました。妹をぶったことが知られてしまうのではないか、と。それが原因で彼女がおかしくなったことが知られてしまうのではないかと。ところが……」


「ところが?」


「精神科のお医者様では原因がわからなかったため、妹は脳神経外科にまわされました。ですが脳に異常は見当たらなかったのです」


「それは、君のせいではなかったってことか」


「いいえ、違います。私がぶったすぐあとから、妹はおかしくなりました。あの直後からそのような兆候が見られたのでまちがいありません」


 精神分析学や心理操作を極めようとしていた志村がつきとめられなかった真実は遠い昔にあった、ということになる。それが物理的外傷によるものならば、彼にわからなかったのも無理はない。が、本当にそのことが理由なのだろうか?


「ですが日がたつにつれ、妹の表立った奇行や異常性は見られなくなりました。私はほっとし、そして両親も安堵しました。ところが数年を経た頃から、また妹がおかしくなったのです」


「どういう風に?」


「なにかを好む、目的を持つ、そういった人として当然の感情を見せなくなりました。その代わりに自己否定をよく口にするようになったのです。“私にはなんの取り柄もない”、“私には生きている価値がない”というのが口癖でした」


「妹さんは志村に精神科への通院歴があることは話したようだが、それ以外のことは黙っていたようだ。それは君のためを思っていたんじゃないのか?」


「妹は私にぶたれた記憶を失っていただけなのかもしれません。ですが、私はその記憶を呼び覚ましてしまうことをおそれて、生前の彼女に確認することはできませんでした。もし妹の心が壊れた理由が私にあったのなら、と思うと怖くて訊くことができなかったのです」


 寿子の妹は謎を残し死んだ。なぜ心が壊れたのか、脳にダメージはなく、精神科医にもわからなかった。そして心理操作に長けた志村にも……


「おわかりでしょう? 私には妹の仇を取る義務があるのです。罪滅ぼしをしなければならないのです。妹をあんな人間にしてしまったのは私なのです。ですが……」


 寿子は唇を噛み締め、地味な顔に、さらなる悲壮の決意を込めた。


「ですが私には力がありません。一条さん、あなたなら志村を殺すことができます。どうか私の依頼を受けていただきたいのです」


「悪いが断るよ」


「報酬はお支払いいたします。一括で無理な金額ならば分割でも……何年かかっても正規の料金を……」


「人殺しに相場なんかねぇよ。たしかに俺は金でしか動かないクズだが、あんたみたいなカタギの人に汚れ仕事の片棒を担がせるほど困っちゃいねぇ」


「そう……ですか」


 そのとき、なぜか寿子は喉の隙間からいでるような低く乾いた笑いを漏らした。と同時に、彼女の地味な顔に“変化”が起こった。どこか猥雑な表情である。


「ならば……」


 寿子はコートのボタンをひとつずつ外しはじめた。前がはだけると、その中から彼女が隠し持つ、欲求不満の団地妻のような、だらしなくいやらしい身体があらわれた。


「引き受けてくださるならば、私のこの身体もさしあげましょう」


 コートを脱ぎ、ブラジャーとパンティだけの姿となった寿子は、豊満な胸を自らの手で揉みしだきながら、悟に見せつけた。

 

 

 

 


 

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