魔剣ヴォルカン 30
「あたしも昔、あんたと同じ孤児だったのさ」
裸のテレーズはジェラールの耳もとで、そう囁いた。
「あたしゃ子供のころ、ケベックの田舎にある孤児院で育ってね。両親の顔は知らないが、ちっちゃくてかわいい弟といっしょだった」
それを聞き、ジェラールは驚いた。テレーズは、自分や姉のサンドラと同じ境遇だったというではないか。
「ある日、あたしと弟は院長先生に頼まれて、街に買い物に出たのさ。人数分のパンを買って店を出たら、歩道のベンチに座って待ってたはずの弟の姿がなかった」
耳にかかる吐息が一瞬やんだ。それもつかの間、再び彼女は自らの過去を語りはじめた。
「警察は誘拐事件として捜査した。その日はニュースにとりあげられ、次の日の新聞にのったもんさ。けど……」
「けど?」
ジェラールは訊いた。彼の視線の先には、他の男に裸身を預ける妻を無表情で見守るアンドレの姿があった。
「なぜかすぐに報道されなくなった。テレビも新聞も、弟のことなんざ忘れちまったみたいにね」
「なぜ?」
「弟を誘拐したのは警察署長の次男坊だったのさ」
語るサンドラの声に訛りはあっても抑揚はない。ただ、耳にかかる吐息の熱が、より湿っぽく変質したように感じられた。
「それで圧力がかかったのか」
察するジェラール。
「ああ……あたしがそのことを知ったのはずいぶんあとのことだったけどねぇ」
「弟さんは?」
「山奥の土の中で見つかったさね。遺体は腐っちまってたらしく、子供の頃のあたしにゃ見せてもらえなかったよ。確認したのは孤児院の院長先生で、所持品から弟だってわかったらしい」
「犯人は?」
「そこから少し離れた山小屋で、やはり死体で発見されたんだ。犯行の動機が判明したのは数年後、警察署長が代替わりしてからさ」
「それは何?」
「実は犯人の遺書が存在したらしいんだ。それには“日々のストレスと、性的な衝動に勝てなかった”と、あったらしい。まぁ、あたしに似てかわいい弟だったからねぇ」
つまり犯人はわいせつ目的でテレーズの弟をさらった、ということになる。そして警察は、身内の息子が行った犯行を隠蔽してきたわけだ。
「ちなみに、そのことはカナダのゴシップ誌がかぎつけたんだ。当時は国中で話題になったもんさ。そして、犯人には似たような前科があった。警察は、それも隠していたのさ」
耳にかかるテレーズの吐息が、また止まった。ジェラールはかける言葉を思いつかず、ただ黙って聞いていた。
「その犯人は当時、学生だったが兄貴と比べて出来が悪かったらしく父親の警察署長から日常的に暴力を受けていたらしいんだ」
テレーズの声から伝わる“なにか”が熱かった。古代の呪法の被憑体である自分をたきつけるために過去を語っているのだろうが、それを拒絶する気にならなかった。自分と彼女は孤児だった境遇のみならず、内面に抱えているものが、どこか似ている。
「それを知ったとき、あたしゃ思ったんだよ。もちろん犯人を恨んじゃいるが、そういう奴を生み出した社会もまた悪なんじゃないか、ってね」
彼女の言うことは一理ある、のかもしれない。優劣により評価される世の中で犯人は人生の道に迷い、そして父親の警察署長は自己の保身を果たすため事実の隠蔽に走った。悪いのは世の中だ。
「あたしゃ、子供のころから“この世のものではない声”が出せた」
それは古代の呪法を完成させる上で必要なファクターである。
「退屈だったときや寂しかったとき、よく丘の上にひとり立って、その声で歌ってたもんさ。そんなあたしを見て院長先生が言ったんだ。“おまえの身に災いがふりかかるから、その声を出すのはやめなさい”ってね」
“普通の人間では発音できない言語を発音できる者”、それが彼女ら詠唱者である。
「院長先生は知ってたんだねぇ。今となっては、その言葉の意味もわかるもんさね。大人になったあたしはカナダで平凡なOLをしてたんだが、そこにアンドレがやってきてねぇ。“世の中を恨むならば我々に力を貸せ”って言ったんだよ」
アンドレとテレーズが結婚したのはその後のことなのだろう。弟の件を知ったうえで、近づいたのかもしれない。
「時間が忘れさせてくれた弟のことを、そして社会への恨みを思い出したもんさね。あたしの力を使えば、仕返しが叶うって言うじゃないか」
おそらく、アンドレとテレーズは行方をくらませたジェラールをずっと探してきたのだろう。姉のサンドラが鹿児島に行くことを知り、この夫婦は居場所を察したに違いない。
「あんたは姉さんを恨んじゃいけないよ」
テレーズはやや身を起こし、ジェラールの顔をのぞきこみながら言った。頬に当たる彼女のほそい手は、暖かかった。
「あんたの姉さんがしたことは、あんたを守るためにしたことさね。だから恨んじゃいけないよ」
ひょっとしたら、この女は暗示か催眠術でも使っているのかもしれない。なんとなく言うことを聞きたくなる。
「僕は姉さんのことを愛していた。なのに、姉さんは僕を裏切ったんだ」
「それは違うんだよ。まだ、ちっちゃかったあんたのためなんだ」
姉弟で平穏に、あの教会で暮らしていくためにサンドラは神父にその身を捧げた。それは大人になった今となってはわかることである。だが、裏切られたという思いが強すぎて、これまで素直に認めることができなかった自分がいた。
「ああ……姉さん……姉さん……」
ジェラールは泣いた。姉の名を呼びながら。
「あんたの姉さんを恨んじゃいけないよ。恨むんなら社会を、この世界を恨むんだ」
テレーズはジェラールの前髪を指先で優しくかきわけ、言った。
「あんたには力がある。あたしが、それを呼び戻してみせるさね。あんたはじっとしてればいいんだよ……」
その言葉に従い、ジェラールは涙を流しながらも微動だにせず、ただただ天井を見つめた。
テレーズの口から、なにやらこれまでの人生で聞いたことのない言葉が低く漏れはじめた。“普通の人間では発音できない言語”、つまり人外を宿すことを目的とする古代の呪法を実行する上で不可欠な呪文である。詠唱が始まったのだ。
ベッドの上で抱き合うふたりを見守っていたアンドレが顔をしかめた。無理もない。テレーズは今、この世に存在するはずがない言葉を発声しているが、それは人間の耳には奇妙な違和感と強い不快感を与えるものである。ヴィクトルの姿は、ここから見えないが彼も同様であろう。だがジェラールは不思議と心地よさを感じていた。それは自身が選ばれし被憑体であることの証、なのかもしれない。
その声に反応したか、台座の上に立てられた魔剣ヴォルカンから灰色の煙がたちのぼりはじめた。桜島の噴煙に似ていることから、開発者のヴィクトルはそう銘づけたという。この世と異世界をつなぐ物理媒体たるこの剣は本当に人外を呼ぶのか? 古代の呪法は本当に成功するのか?
『あのときの少年よ……』
やがてジェラールの頭に声が響いた。
『我は“魔剣”なり……』
それは、剣に宿りし人外の声に違いない。
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