魔剣ヴォルカン 23

「ああ……ジェラール……なんてことを……」


 サンドラは神父の返り血を浴び、そこに立っているジェラールを見た。少年のころから美しかった顔も、半袖シャツを着た全身も、地獄からの帰り道をたどってきたかのように血まみれではないか。


「姉さん……」


 八歳の弟、ジェラールの顔と声には、自ら殺人を犯した事実よりも、姉の不義に対する非難と嫌悪のほうが強く主張されていた。当然だ。今の自分は男を燃えさせるいやらしい下着姿である。濃いネイビーのパンティを神父に脱がされる直前だったのだ。そして、そんなはしたない姿を見られた。


「姉さん、僕は知ってたんだ。姉さんと神父様が、こっそり会っていたことを」


 全身を真っ赤に染める幼い弟。特に、その右手からしたたる血の量はおびただしいものだった。ジェラール少年は神父の背後から手刀で首をはねたのである。すでに異能者として覚醒していた彼ならば、息を吸うように簡単なことだろう。


「違う、違うわ……! 私は、あなたのために……」


 言いかけたサンドラは、ジェラールの背後に立つ聖母の像を見た。白い石膏の肉体を神父の血で赤く汚されながらも手を合わせ続けるその姿。何を祈っているのか? 性の常軌を大きく外れた自分の行動の是非を神に問うているのか? それとも一瞬にして死人となった神父の魂を見送っているのか? いや、幼くして殺人を犯した弟に、いま一度の改悛を求めているのかもしれない。


「僕のために、こんなことをしたの?」


 横たわってもなお、神父の死体からは鮮血が溢れている。人の体内には、これほどに多くの血液が流れているものだと初めて知った。そして、それが作り出す血の池という名の地獄の真ん中に立つジェラール少年の姿は美しい死神のようだった。


「嗚呼……ジェラール……」


 サンドラは泣いた。弟は幼くともわかっているのだ。姉の自分が神父に身体を捧げてきた事実と、その結果として今まであった平穏な生活の裏に隠れた真実を。


「私が、私がこうしなければいけなかったのよ。親もお金もない私たちがここで生きていくためには仕方がないことだったのよ……」


 だが理由もある。だからサンドラは涙まじりの声で必死に抗弁した。


「僕は姉さんがいれば何もいらなかったんだ……家がなくとも、食べ物がなくとも、姉さんがいれば何も……」


 血まみれのジェラールは、ただ表情もなく言った。八つ年が離れたこの弟は異能力にめざめる前も、そしてめざめた今でも、いつも自分の背中に隠れているような大人しい男の子である。だが、それがいとも簡単に人の生命を奪ったのだ。選ばれし者のみが持つ異能の血とは神から授かるものではなく悪魔の烙印なのではないか? 穏やかな子供の心を獰猛の域まで沸騰させてしまう野蛮と暴力の証なのではないか?


「それでは……それでは、生きていけないのよ……だから……」


 だから身体を差し出した……そう言おうとしたとき、重く錆びついた音がした。礼拝堂の扉が開いたのだ。下着姿のサンドラは赤く染まった床を急いで這い、神父の血に濡れた自分の服をたぐり寄せた。


 礼拝堂の入り口に立っていた人物はレインコートを着ていた。大雨の中を歩いてきたらしく、全身ずぶ濡れである。フードを目深にかぶっているため顔が見えない。


「君を迎えに来たのだよ」


 それは年輩の男の声だった。姉弟のどちらを迎えに来たのか? そんなことはわかっている。このときサンドラは、なんとなく予感した。ジェラールと生き別れることを……


 彼は顔にかけていたフードを外した。中肉中背の老人である。神父に似た茶色の頭髪をしているが薄くはない。顔の皺は、これまでの人生でこなしてきた事績と味わってきた困難に比例して深く刻まれており、眼光はその燃えかさる野心と反比例するように暗かった。


「だれ? なんの用……?」


 訊いたのはジェラール。サンドラは服を抱くようにして身体を隠し、ただ怯え震えるだけだった。


「私はヴィクトル・ドナデュー。武器職人だよ」


 老人はなのった。


「僕を迎えに、ってどういうこと?」


「そのとおりの意味だよ」


「なぜ?」


「君は“魔剣”に選ばれし少年だ」


「魔剣?」


「そう。私が執り行う古代の呪法により誰にも負けぬ力をその身に宿す。君は地上で無敵を誇る存在となるのだ」


 ヴィクトルは近づいてきた。彼が歩くたびにレインコートから大量の水滴が落ちるが、床に広がる神父の血の色を薄めることなどない。それは殺人の罪が決して許されぬことを示すのか? たとえ、どんな事情があっても……


「そこにいる君の姉を、そんな下品で淫らな女に変えたのは“社会”だよ」


「社会?」


「そう、君たちのような孤児を救えぬ社会だ」


 歩みを止めたヴィクトルは神父の血で赤く染まった聖母の像を見上げた。いま、同じ血の池の中に三者はいる。皆がいわく付きの存在であることを、さし示すかのように……


「この世に神などいないのだ」


 ヴィクトルは、ちっぽけな体で大罪を犯したジェラール少年を見下ろした。


「自分が腐った社会に立ち向かう神にならなければならない。今はそんな世の中だ。誰も手を差し伸べてはくれぬ以上、自身が強くならなければならない」


 そして、顔同様に皺だらけの手を差し出した。


「来たまえ、私と共に」


 そう言われ、ジェラールはヴィクトルの手を握ろうとした。


「だめ、だめよジェラール……」


 裸のサンドラは懸命に声を振り絞った。ここで止めなければ、弟は道を大きく踏み外すことになると思った。


「姉さん、僕はこの人と行くよ」


 その言葉を聞いたとき、彼女は別れの予感が的中したことを知った。弟に隠れて神父に肉体を提供していた自分に止める資格があろうか? 今の自分は男を誘うための下着姿である。ヴィクトルと名のったこの老人の言うとおり下品で淫らな女ではないか。


「さよなら姉さん……」


 それは、サンドラが聞いた弟ジェラールの最後の言葉だった……






 サンドラが目を覚ましたとき、外からさしこむ光のおかげで木造りの高い天井が見えた。


「ここは……?」


 彼女はふらつく頭を抑えながら上半身を起こした。なぜか畳の上である。


「私、いったい……?」


 自分の身体にかぶせてあるうすがけ布団を見ながらサンドラは今日一日のことを思い出していた。一条悟というフリーランスとともに知覧に行き、古本屋の主となっていた弟ジェラールと再会した。そのあと手榴弾による爆発に巻き込まれ、そこから先の記憶がない。意識を失ったままだったようだ。


 左手にあるのは染みだらけの古ぼけた壁である。十二畳ほどの空間だった。すこし空気がひんやりとしているが寒いというほどではない。どうやら空き家らしく家具の類は一切ない。


「相変わらず寝起きが悪いね、姉さん」


 突如、右手から声をかけられ、サンドラは心臓が飛び出すほどに驚いた。そちらに目を向ける。


「ジェラール……!」


 彼女は、椅子に座ってこちらを見ている弟の姿を確認した。

 

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