剣聖の記憶 〜一億ポンドの約束〜 13

 夜十時をまわったロンドン。マーカット総合病院の最上階にある病室のベッドでチェルシー・カートライトは寝ていた。灯りがついており、まだ眠ってはいない。今夜は、わりと体調がいいほうだったが、剣聖スピーディア・リズナーに依頼した日から、なんとなく寝付きが悪い。不安と心配が心に巣食っていた。芸術、数学、音楽、化学……様々な分野に才能を持つ彼女であっても、睡眠をコントロールすることはできないらしい。


 残された時間が少ないこの少女にとって寝る、という行為は日に日に寿命に近づいてゆく現実を自分に知らしめるものでもある。カレンダーをめくり、あとどれくらいをこの世で過ごせるのか予測するのが日課となっているチェルシーにとって睡眠とは有限の時間を消費する無駄なことであり、恐怖でもあった。“私は翌朝、きちんと目覚めるのかしら?”、“寝ながら死ねれば、苦痛を味わうこともないのかしら?”と自問することもしばしばだった。就寝時も病室の灯りをつけている理由は、目前の暗黒があの世へつながる入り口に思えるからだ。


「石鹸なんかではなく、睡眠をコントロールできる薬の化学式に出会えればよかったのに……」


 布団の中で低くつぶやいたチェルシー。だが、それでも睡魔の降臨を待たねばならない。寝なければ明日、起きることもできないのが人である。彼女は今宵十数度目の寝返りをうった。


「スピーディア……!」


 さすがの天才少女も驚いたろう。いつの間にか、そこに憧れの剣聖スピーディア・リズナーが立っていたからだ。とうに面会時間など過ぎているが、この男ならばたやすくここまで入って来ることができるのだろう。


「まぁ、スピーディア! 怪我をしているの?」


 照度をおさえた灯りの中で、チェルシーはフライトジャケットの懐からのぞく剣聖の左手を見た。包帯を巻いている。


「ん? ああ、大丈夫大丈夫。単なる骨折さ。あン野郎にゃろう、なかなかいい腕してやがったぜ」


 悟は右手で傷ついた左肩を二度、叩いた。


「いてて……」


「無理しちゃダメよ、治りが遅れるわ」


 チェルシーは起き上がろうとした。が、悟が、それを制した。


「心配すんな、俺は頑丈さ」


 悟は片手で彼女の身体に布団をかけなおした。


「例の化学式を狙ってたヤツと話はつけてきた。もう心配しなくていいぜ」


「本当?」


「ああ」


「じゃあ、ママが狙われることは……」


「ないよ」


「そう……ありがとう、スピーディア」


 礼を言うチェルシーの目に安堵の光がさした。涙を見せないのが彼女らしいところでもある。


「でも、いいの? あの“一億ポンド”は、あなたに会うために用意したものよ。化学式の件は別に報酬を……」


「言ったろ? “アフターサービス”さ」


 悟は笑うが、チェルシーは難しい顔をしている。天才たる彼女は、この男の価値を一億ポンド以上とふんでいるのかもしれない。だが、悟はアフターサービスと言い放つ。


「こないだ、俺が屋上で言ったこと覚えてるか?」


「“多くのものを残せ”、という言葉?」


「ああ……」


 健康に恵まれなかった体と引き換えに多くの才能を持ったチェルシー。悟は先日、彼女に対し言った。“君のような天才がおくる数ヶ月、数年は常人の一生涯に値するもんさ。だから多くのものを残せ”と……


「残りの時間で、私はどれだけのものを残すことができるものかしら?」


「そりゃ、君次第さ」


 悟はチェルシーの痩せた手を握った。


「俺は、俺が信じるもののために剣を振るう。君は、君自身を信じて生きろ、チェルシー」


 それは剣聖から天才少女へのメッセージ、だったのかもしれない。


「ところで、君からもらった一億ポンドの使い道なんだが……」


 悟は、少々照れくさそうに頭をかくと、チェルシーの耳元へ口を近づけた……






 翌朝早く、チェルシーが目覚めたとき、傍らに母がいた。


「ママ? いつからいたの?」


「今、来たところよ」


 母は、果物がたくさん入ったバスケットを棚に置き、答えた。


「スピーディアは、どこ?」


 チェルシーは半身を起こし、室内を見た。


「スピーディア?」


 娘の言葉に首を傾げる母。


「ゆうべ来たのよ、スピーディアが」


「まさか……」


「本当よ。私、見たわ。お話もしたのよ」


「もし、来たのなら看護師さんたちが話すわよ」


「じゃあ、あれは……」


「チェルシー、あなた夢でも見たんじゃない?」


「夢?」


 チェルシーは天を仰いだ。母の言うとおりだ。世界を股にかけ、多忙を極める異能のスーパースターが何度もやって来る、などということがあるはずがない。彼はイギリスでは指名手配されている身でもある。


 チェルシーは枕元に置かれた封筒に気づいた。あけてみると一枚の紙切れが入っていた。


「違うわ、ママ。スピーディアは確かにゆうべ、ここに来たのよ」


 彼が置いていった一億ポンドの領収証を見て、チェルシーは言った。それは昨夜、ふたりの間に交わされた“もうひとつの約束”の証でもあった。






 その後、チェルシー・カートライトは二年の年月を生きた。病魔と戦い続けた彼女が短かった生涯で残した物は絵画、彫刻、陶器など数十点の芸術品の他、十数曲の音楽。数学、語学、地質学、生物学などの論文。それらは死後、各界の有識者や評論家から絶賛された。のちに各国の美術館や大学に貸し出されるようになり、死してなお一層、その才能を世界中に知られることとなったのである。






 ────私は、もう長くは生きられません……死ぬ前に一度でいいから憧れの、剣聖スピーディア・リズナーに会いたいの……


 それは一条悟と出会う少し前、チェルシーが発信したメッセージだった。病身の天才少女と呼ばれ、英国内ではちょっとした有名人になっていた彼女にテレビ局が取材したとき、この映像が撮られたのだ。


 ────でも母子家庭で育ち、お金を持たない私には、彼に会う手段がありません……


 チェルシーのメッセージは国内で……いや、世界中で反響を呼んだ。テレビで放送されたその日に有名動画サイトにアップされたのだ。それを見た全世界の人々から寄付金が集まるようになったのは、まもなくのことだった。彼女が入院しているマーカット総合病院の事務局は連日さまざまな国から送られてくる多額の金銭の処理に追われ、てんてこ舞いとなった。


 最終的に集まった寄付金は“一億ポンド”。剣聖スピーディア・リズナーと面会するためだけの金銭総額は莫大なものとなった。チェルシーは、そのすべてを“面会料”とし悟の口座に支払ったのだった。神帰将星団からの脅迫があったのは、そのあとのことである。


 スピーディア・リズナーがチェルシーに会うためロンドンを訪れたことは彼のファンからは称賛された。“剣聖、少女の思いに答える”と……だが、世論に目を向ければ批判のほうがはるかに多く見られた。当然であろう。いくらチェルシーの希望だったとはいえ、病身の彼女から一億ポンドを受け取った“最後にして偶然の剣聖”は、やはり金に汚い男ではないか、評判どおりの拝金主義者ではないか、ボランティア精神の欠片もない、人間のクズである、等々。そして一条悟が神帰将星団のアジトに乗り込み、化学式を狙う太祖を倒し、チェルシーを救ったことを世界は知らない……






 チェルシーが死去してから六年後の夏、剣聖スピーディア・リズナーの死亡が報じられた。最後の剣聖とも偶然の剣聖とも呼ばれた異能業界最高たるスーパースターの突然の死を世界中のメディアが取り上げた。各界の著名人が哀悼の意を表し、各国の首脳が悲嘆を声明した。全世界を股にかけ、異能犯罪者を斬るたび、人外の存在を倒すたびに話題となった彼の剣聖としての生涯は賛否好悪の対象となったが、やはり人気者だった。連日連夜、テレビでは彼の特集が組まれ、新聞紙面はトップで扱ったものである。


 だが、スピーディア・リズナーの死を皆が信じているのか、と言われるとそうではない。彼の生存説を声高らかに唱える人はいまだ多くいる。“死体があがっていない”、“無敵の彼が死ぬはずはない”、“スターとしての生き方に疲れ身を隠している”、などと。


 また、このような説もある。“剣聖スピーディア・リズナーは生まれ故郷の日本に帰り、市井の人々のために、今も人知れず戦っているのだ”、というものが……






 ロンドンの中心部にサザークという地区がある。ロンドン市庁舎やサザーク大聖堂があることで有名だが、その一角に、きれいな外壁をした十階建てのビルがあった。


 “チェルシー・カートライト財団”


 枯れ葉散り、秋風そよぐ一階の入り口壁面に、そう書かれた立派な金属製のプレートが取り付けられていた。夭折した天才少女の名を冠したこの財団は彼女の死後、設立されたものである。


 “豊かな芸術的、学術的才能を持ちながら経済的、身体的理由で創作、就学が困難な状況にある青少年たちの支援と保護”


 これが当財団の掲げる理念だ。母子家庭で育ち、病弱だったチェルシーが生前、残した芸術作品群に心打たれた有志たちが設立した。現在では世界中の才ある少年少女らを金銭的に支援する一方で、芸術、学問の普及、振興などもおこなっている。


 そのチェルシー・カートライト財団ビル一階の玄関を、ひとりの若い女が通った。東洋人だ。細身の体にグレーのパンツスーツを着けている。長い黒髪と白い肌を持つ美人だ。彼女は受付の職員たちにひとこと挨拶をすると、パンプス履きの足をエレベーターのほうへと向けた。


 女の名はシャオイェンという。現在、二十一歳の彼女は四川省の出身。変瞼と呼ばれる妙技を駆使する伝統芸能、川劇の女優だ。貧しい家の生まれだが十五歳のとき、その才能が認められ、このチェルシー・カートライト財団の“支援対象生”となった。財団の援助を受け、さらなる飛躍を遂げたシャオイェンは、今では売れっ子の川劇女優へと成長した。昨年、興行された『連環計』という題目では後漢末期に生きた貂蝉ちょうせんという女を演じ、話題をさらった。可憐でありながら、したたかな悪女の側面を見せる演技と、二面性を表現する変瞼の技は高く評価され、テレビ出演や雑誌の取材が相次いだ。来年には日本での公演が予定されている。


 中国に住んでいるシャオイェンが今日、ここを訪れた理由……それは“講演”だった。この財団の援助を受けた“卒業生”たる立場の彼女は年に一、二度、渡英し、このビルで支援対象となっている青少年や、その保護者相手に講演活動を行っていた。


 “かつての自分に似た境遇の子供たちに、夢を叶える心を持ってほしい”


 そんな、ちいさな思いから始めたことだったが、今ではホールが満員になり立ち見客が出るほどに聴講者が多い。専門の川劇に関することの他、夢を持ち続けることの大切さ、財団の一員であることの誇りと自覚。貧しかった家庭のことや、かつて自分が犯した“罪”。話すことは山ほどある身だ。午後二時からはじまる今回の講演の打ち合わせをするため、予定よりずいぶん早くここに到着した。


 近代的な造りをしたエントランスホールを抜けようとしたシャオイェンの目に止まったのは、一階中央の台座に置かれた“彫刻”を見上げているひとりの少年の姿だった。


「あなたは、財団ここ支援対象生スプラウト?」


 その少年の横に立ち、シャオイェンは訊いた。むかしは内気な性格だったが、最近では人に話しかけることができるようになった。流暢な英語は彼女が懸命に勉強して身につけたものである。芸術の普及活動に必要だと考えたからだ。今では打ち合わせだけでなく講演会も、すべて英語でこなす。


 十歳くらいだろうか? 白人である少年は彫刻からシャオイェンのほうへ目を向けた。小柄な彼女を、ずいぶんと見上げる格好である。なぜなら、この少年は車椅子に乗っているからだ。足が不自由らしい。


「僕は今日、“面接”を受けるため、母さんとアメリカから来たんだ」


 少年が受付を指さした。紺のスーツを着た長身の女性が脇にスーツケースとチェロケースを置いて職員と話をしている。あれが母親なのだろう。身振り手振りでなにかを伝えようとしている彼女の姿は必死なものだ。子を持つ親は大変である。


「僕、ここの“支援対象生”になりたいんだ。チェロと音楽を学ぶために。将来はウィーンに行きたいんだ」


 少年は、茶色ですこし長めの髪を指でかきながら言った。夢を語るとき、誰しもが四割の希望と六割のはにかみを見せるものだ。彼も同じく……


「そう……じゃあ、あなたも“スタートライン”に立つ日が来るのね」


 シャオイェンは少年の服装を見た。子供用のブレザーにネクタイをしている。不自由な足には長ズボンとローファー。“面接”は第一印象が大事である。母親の服選びもポイントとなる。


「スタートライン?」


「そう、この財団に入れば、あなたは“スタートライン”に立てるのよ」


 シャオイェンは、よく“スタートライン”という言葉を使う。かつて崑崙山脈の洞窟で彼女を救った“とある男”の影響だ。あのときは薬物を投与されており、意識が朦朧としていたが、そのことだけはよく覚えていた。あれから八年がたつ。


「スタートラインかぁ! 僕も立ちたいなぁ」


 少年は車椅子の上で大きく伸びをした。実は財団から交通費や滞在費が支給され、このビルに呼ばれるような子供ならば、よほどのことがない限り支援対象生となることができる。どちらかというと母国で推薦を受けることのほうが重要で、面接とは本人、保護者の意志を確認するための形式的なものに過ぎない。彼はすでにスタートラインに立っているわけだ。


 だがシャオイェンは、そのことは言わなかった。ある程度の緊張感を持って面接を受けるほうが、本人のためになる。伝統芸能という厳しい世界に飛び込んだ彼女はシビアな物の考え方ができる大人になっていた。


「僕、面接がんばるよ!」


 少年は車椅子の肘掛けを大事そうに撫でた。おそらく座りながらチェロを演奏できるように作られたものなのだろう。ちなみに彼は面接を終えた後、午後からこのビルでおこなわれた講演会を聴講した。壇上に立ったのが、さきほど話をした女だったことに驚いたが、シャオイェンが川劇の有名女優であると知って車椅子から飛び上がりそうになったという。後に横に座っていた母親が“あのとき、驚いたあんたが立ち上がっていたら、支援対象生の話がたち消えていたわ”と言ったらしい。このことは大人になり、プロの演奏家になったあと、彼が笑い話として周囲に語り続けたという。


「ええ……がんばって」


 シャオイェンは、ひとことそう言った。こういう少年を救うために、このチェルシー・カートライト財団は存在するのだ。その名の由来となった少女の意志は天に昇っても、才ある子供たちの出現は続く。大人は、それを見守る義務がある。かつて髪飾りを買うため両親に“嘘”をついた少女も、今ではそういう立場になった。


「ところでさ、これってもしかして……」


 少年は再び、目前にある高さ二メートルほどの台座を見上げた。その上に石膏の見事な“彫刻”がのせられている。等身大の全身像であり美しい顔をした男性だ。今にも動き出しそうなほどにリアルで、繊細優雅でありながら力強さも感じさせる。服装はフライトジャケットにジーンズ。そして右手に“光剣”を持っている。台座には『my Speedia……』と銘打たれており、その下に“a work by Chelsea”と書かれている。


「そう、これは剣聖スピーディア・リズナーの彫刻よ」


 複雑なディテールを持ち、精巧の限界を極めた“スピーディア・リズナー像”を見ながら、シャオイェンは答えた。これは今年の夏に死亡が報じられた“剣聖”の彫刻だ。


「ああ、やっぱりそうだ! 僕、彼の大ファンなんだ!」


 少年の明るい笑顔に憧れが見える。“彼”のことを語るとき、世界中の少年少女たちは同じ表情を見せるものだ。大人たちが“偶然の剣聖”と批判すると、子供たちは“最高の剣聖”だと反論する。剣聖制度が崩壊した今となっては、亡きスピーディア・リズナーは“最後の剣聖”でもある。


「わたし……子供のころ彼に助けられたことがあるの」


 シャオイェンは遠い目をした。彼女を神帰将星団の魔の手から救い、“スタートライン”という言葉をくれた剣聖スピーディア・リズナーのことを思いだしているのだろう。


「本当?」


「もちろん、本当よ」


「会ったことあるんだ? いいなぁ!」


 少年は不自由な膝を叩いて羨望の意を示したが、次に……


「でも、なんでここにスピーディアの彫刻が置いてあるんだろ?」


 と、首を傾げた。たしかにこの彫刻は、財団創設の理由となったチェルシーが晩年に精魂こめて作ったものだ。だが、なぜここにあるのか?


「それはね……」


 シャオイェンは少年の疑問に、優しい笑顔で、こう答えた。


「この財団の創設が決まったときに、“一億ポンド”を寄付してくれたのが彼だったのよ」





『剣聖の記憶 〜一億ポンドの約束〜』完。




 


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