四番目の絵柄 〜未亡人懺悔〜 16

 悟に向かって大烏賊が吐いた墨は煙状で、ジェット機が空に残す航跡に似ていた。飛行機雲のように厚く直線的なものだ。そして動体を捕らえることができるほどの速度があった。


 それに反応した悟は豪雨の暗天へと舞う。あっという間に大烏賊を見下ろせる高さまで到達した。多方向性気脈者ブランチである彼が脚に“気”を集中させると、これほどに飛ぶことができるのだ。


 悟は空中でオーバーテイクを薙いだ。その紅い切ッ先から発生した剣圧が音速の飛翔体となり、湿気だらけの空気を切り裂いた。気の外的放出アウトサイド・リリースによる遠距離攻撃だ。狙いあやまらず見事、大烏賊の左目を潰した。


 着地した悟は反時計回りに大烏賊の背後へと移動した。左目を失った相手の死角を得ようと考えたのだ。大烏賊は反転しようという素振りすら見せない。俊敏さはこちらが上だ。


 だが、悟が大烏賊の後背をとったとき、ヤツの首根ッこにあたる位置が口を開けた。そこから墨が放出されたのである。どうやら、後ろにも顔があるようだ。大きく飛んでかわした。


(こりゃ、移動砲台だな)


 距離をとった悟は大烏賊を見た。道路に根をはる触腕が脚の役目を果たしているようで、それを軸に向きを変えている。こちらに正面を向けたヤツは少しずつ近寄ってきた。


(工事中の道路みてぇだな)


 悟は最初に自分が立っていたあたりを見た。大烏賊の墨は煙状に飛んで来るが、地面に落ちると液体化するようだ。それがコールタールを連想させた。水溜りの中に流れていかないところを見ると粘度が高いのかもしれない。喰らうと、こちらの動きが止められてしまうだろうか? 毒性を持っている可能性も考えられる。


 大烏賊の背後、二百メートルほど先に一台のトラックが見えた。ドライバーはこちらを確認し、危険を察知したのだろう。Uターンすると、向こう側へ走って行った。おそらく退魔連合会へ連絡がいくはずだ。所属退魔士たちの出動は、民間人からの通報によるものが多い。人外の存在からの危機に市井の人々が怯える昨今である。


 ここの道路は広い。相手から離れることは簡単だ。問題はこちらが攻撃する方法である。大烏賊に他の手があるとしたら、迂闊に近づくのは危険だ。退魔士たちの到着を待つ策もある。


(もっとも、やっこさんが見逃しちゃくれないだろうが……)


 こちらに近づいてくる大烏賊を見た。今の攻撃で潰された片目から墨が流れており、大地を黒く塗りかえながら動いている。脚代わりとなっている十本の触腕が気になった。あれが攻撃手段となった場合、果たしてよけられるか?


 悟は数歩前に踏み出した。大烏賊が口を開け、墨を吐く。悟は右手側へかわすが相手の狙いは執拗だ。体の向きを変えながら、墨を吐き続ける。まさに移動砲台である。


 しかし、やはり悟の動きは速かった。大気を公害のように黒く汚す墨が到達する先にその姿はない。相手の立ち位置を軸に遠心し、常に間合いの外に立つ。その動き、華やかと言って良い。剣聖スピーディア・リズナーは防戦する姿すら芸術に見せる、と言われたものだった。


 大烏賊の根性もたいしたもので、悟が後方に退がるまで墨を吐きまくった。悟の腕ならばかいくぐり、残る大烏賊の右目を剣圧で潰すことも容易い。しかし、このとき彼はそうしなかった。視覚で情報を得ている人外が両目を失うと、“暴走”する危険があるからだ。そういう状況は面倒になる。うまく相手をコントロールする必要がある。


 三たび離れた両者は音もなく対峙する姿勢となった。剣を片手に立つ悟の、雨に濡れた姿もまた芸術的に美しい。異能業界のスーパースターは伝説となってもなお、暗天の路上に輝く光であった。


「鬼八さん……」


 屹立する男性器の姿に似た大烏賊に、悟は流星のような双眸を向け、言った。


「たとえ女房を抱きたいって未練があっても、あんたは既に“死人”だ。長原の中から本来いるべき世界に帰らなきゃならねぇ」


 死したのち行き場を失い、人外の力を借りて長原の体内に寄生しているのが今の鬼八だ。それを解放するには、大烏賊に物理ダメージを与えるしかない。


(もっとも、俺も人のこたァ言えないんだけどな)


 そう……ある犯罪組織に追われる身の剣聖スピーディア・リズナーは死を装い、今は一条悟として故郷の鹿児島にいる。彼もいずれ“本来いるべき世界”に帰らなければならなくなるのかもしれない。今、目前にある光景より、もっと広い世界へと……


『Grrrrr…………』


 悟の言葉を理解できているのか否か、大烏賊は低く唸った。他人に乗り移り、妻を抱いてきた哀れな男は偉大な漫画家だった。その魂を救うことが、今の悟の“仕事”なのだ。


 悟は、ゆっくりと前進した。すると、それに合わせるかのように大烏賊もまた近寄ってきた。射程に入ったと判断したか、ヤツの口が開く。墨を吐く気か?


 次の瞬間、なにかが弾ける音がした。


『Gyaaaaaaaa!!!』


 のけぞる大烏賊。目にも止まらぬ速業で悟がオーバーテイクを振り抜き一刀を放ったのだ。極めて短い予備動作から発生した彼の剣圧が、墨を吐く直前の大烏賊の口をとらえた。そこが弱点と踏んだのだ。スピーディア・リズナーはインファイトのみならず、ロングレンジによる攻防も支配する。その精度は正確無比を誇る。


『Shaaaaaaaaaaaaa!!!』


 そのとき、大烏賊の触腕が一本、急速に伸長した。快楽の深淵にいたるまで何度も緑を責め抜いてきたそれは今、強靭鋭利な凶器と化し悟に襲いかかる。刹那のタイミングで放たれた弾丸にも似た速度で、剣聖を刺し貫くために……



 


 

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