四番目の絵柄 〜未亡人懺悔〜 17

 十メートルは伸びたであろう大烏賊の触腕は轟音を残し、空を切った。いや、正確に言えば空を突いた、とでも言うべきか。伸び切ったその先に悟の体はなく、雨に濡れた空気のみが一瞬の攻防の果てに震えていた。


『Shaaaaaa!』


 攻撃をかわされ逆上したか? 傷ついた口から墨を吐きながら大烏賊は猛攻を開始した。音もたてず着地した悟に対し、十本の触腕すべてが解放された。軟体質であろうそれらは各々が異なる複雑な動きを見せ、空中で剣聖という名の獲物に迫りくる。一本は直線的に、別の一本はジグザグの軌道を描き、螺旋状に絡め取ろうとする物もあれば、上方で折れ曲がり直角度で頭を狙う物も、低い位置から脚をすくおうとする物までもある。上下左右からの切れ目ない攻撃は鳥を捕らえようとする網に似ている。


 しかし、悟はそれらをことごとくかわした。多方向性気脈者ブランチたる彼は気を目に集中させていた。動体視力を上げるためである。


『Shaaaaaa!』


 なおも止まぬ大烏賊の攻撃。煙状の墨が湿気まみれの空間に拡散し、あたり一面を黒灰色に染める中、間断なく猛り狂う触腕の群れを絶妙のタイミングで回避し続ける悟の姿は、まさに水墨画の中に描かれた美しい鳥の如く。華麗に舞う鮮やかなその残像、網の端にすらかかることはない。


 数本の触腕が破片となって雨の路上に落ちた。悟がオーバーテイクで瞬時に斬り捨てたのだ。向上した動体視力により十本すべての軌跡を見極めたこのとき、彼の目には相手の動きがスローモーションに見えている。攻撃が当たることはない。


『Shaaaaa……!』


 大烏賊の体が傾いた。足の役目を果たしていた触腕の一部を失ったことでバランスを崩したか? 煙状に放出していた墨は色が薄くなり、霧状に変化している。激しい攻撃を継続したことで限界を迎えたのかもしれない。結局、人外を倒すため有効なのは物理手段、ということである。


 オーバーテイクを握る悟の右手周りが渦を巻いた。とどめのときである。相手の隙を見逃す男ではない。


「鬼八さん、緑は今でも、あんたのことを“最愛の夫”と呼んでいたよ……」


 悟の言葉は、これから常世へと旅立つ偉大な漫画家に対する手向けだった。愛する妻を抱きたいと願うあまり、間男たちの肉体に乗り移った男への……だが、人外と化した彼にその声は聴こえたろうか? その意味は通じたろうか? 鬼八の魂と長原の肉体を取り込んだ大烏賊は、なおも黒い霧を吐きながら体勢を立てなおそうともがいている。まだ戦う気なのか……


 悟の右手に巻いていた渦は激しい乱気流タービュランスとなり、黒い霧を散り散りに晴らす。続けて、彼の周囲に発生した赤いプラズマがオーバーテイクの光刃に収束されていく。膨大な気の流れは、空を切り裂く稲妻に似た現象を呼び起こす。この男は雷槌を与えようというのだ。涙にも似た降雨をもたらす、光なき灰色の空に代わって……


 悟はオーバーテイクを一閃した。その紅い刀身から発生した稲妻のような剣圧は気の外的放出アウトサイド・リリースによるものだ。彼の必殺剣“スピーディア・ディスチャージ”は文字通り放電の様に見える。対人外に特化した技である。


 直撃を受け、男性器に似た大烏賊の頭部が吹き飛んだ。貫通した赤い稲妻が遠く空の彼方へと消えたとき、はじめて雷鳴が聴こえた。戦いが終わったことを、告げるかのように……






 雨の中、アスファルトの上に長原将生は倒れていた。力を使い果たした結果、人の姿を取り戻したのだ。


『私は、こういう雨が好きだった……』


 長原……いや、彼の中にいる姿鬼八の声だった。


『子供のころ、日中なのに暗い空を見ていると、現実離れした気分になれたものだよ、宇宙の神秘を感じたものだ……』


 性の伝道師、エロ漫画界のカリスマと呼ばれた偉大な男にも、少年時代というものがあったらしい。そのどこかに創作家としての原点が眠っているのなら、力尽きた今、それらを回想することは不思議ではないのかもしれない。


 長原のそばに佇んでいた悟は身をかがめ、緑から借りている赤い傘をさした。


『妻の傘だな……?』


「ああ」


 悟は長原の身が濡れぬように傘を持った。自分の背中に雨が当たるが、緑の傘に入る資格は夫たる鬼八にあるものだと思った。


『長原君はどうなる?』


 乗り移った身でありながら、鬼八が訊いてきた。


「とりあえず病院行きだ」


 悟は答えた。既に救急車を呼んである。そろそろ退魔連合会の緊急車両も到着する頃合いだろう。だが、医者にかかって助かるかどうかは本人の気力体力次第、ということになる。


『彼には悪いことをした……』


 鬼八と長原、双方の利害が一致したことは事実なのだろう。『未亡人懺悔』に必要な“四番目の絵柄”を作り出そうとした師と、自身の絵に“艶”を求めた弟子。もちろん鬼八のほうには妻を抱きたいという欲求もあった。それらはパソコンの中に文書として残されていた。


「なァ、鬼八さん……」


 今度は悟が訊ねた。


「あんた、本当は誰かに止めてほしかったんじゃないのか?」


 それは悟の推測だが、当たっているのではないか、と思っている。パソコンの中にあった文書や映像。そして屋根上ののぞき穴や、緑の寝室に仕掛けられたカメラ。長原に乗り移って描いたであろう『未亡人懺悔』の原稿。あれだけの証拠を残して死んだことは不自然だ。それらのものを消そうとした痕跡すらなかった。欲望にまみれた獣として人外の力を得たことを嫌悪する心が残っていたのではないか?


『そんなことはない。私は心のおもむくまま欲望のまま化け物となった。ただ、それだけだ……』


 しかし、鬼八の返答は悟の考えを否定するものだった。


「そうか……あんたはこれから“どこ”へ行く?」


 悟は質問を変えてみた。人外の力により他人に乗り移った鬼八の魂は、自分の肉体を失ったことで長原の中にとどまっていたようだが……


『“行くべきところ”へ、だ……』


 と、鬼八の声で言い残し長原は目を閉じた。それは成仏できる、という意味だろうか? 悟にもわかるものではない。


 サイレンの音がした。救急車か、市民の通報を受けた退魔連合会の緊急車両だろう。だが、近づいてくるはずのその音が悟の耳には次第に遠くなっていく……


(どうやら、毒気を吸っちまったらしい……)


 やはり、大烏賊の墨には毒性があったようだ。大気中に拡散したものを間接的に吸ってしまったらしく、意識が朦朧としてゆく……


 鬼八の魂を運ぶかのように強い風が吹いた。握力を失った悟の手を離れた緑の赤い傘は勢いよく空を舞った。持ち主の夫が雨に濡れぬよう急いで後を追ったか? それとも旅立つ鬼八が愛する妻の香りを残すものを連れて行ったのか?


 偉大な漫画家とともに昇天する赤い軌跡を、見上げた目の先にたしかめた悟。視界が霞み薄れゆく中、そのどちらかであれば良い、と願った。






 秋の長雨、というが、そうはならなかった。夜のうちに雨はあがり、翌日の空は晴れた。ただし秋雨のあとというのは肌寒くなるものである。この日の鹿児島は十一月上旬なみの気温を観測した。


 姿鬼八邸の庭にあるプール。その中にいる未亡人のスイミングフォームは相変わらず見事なものだった。高校のころ水泳をしていたという彼女は卒業後すぐ、この家に嫁いできたらしい。漫画家の妻となるために……


 一条悟はプールサイドから彼女を見ていた。きのう、あのあと救急車の中で意識を失い、病院に担ぎ込まれた身である。もっとも、一晩で退院するのがこの男らしいところだ。病院から直接、ここへやって来た。彼女から受けた依頼を完遂した旨……それを報告するために。


「やはり泳いでいるときは、いろんなことを忘れられるわ」


 と、言いながらプールサイドへとあがってきた緑の完熟した肢体は、この日も未亡人の妖しさを匂わせている。肌からこぼれ落ちるただの水滴すら陽光にきらめく宝石のように見せる美貌。競泳用の黒い水着ですら隠せない豊満な胸と尻。かじり付きたくなるようなむき出しの太股。それらを蹂躙してきたのは夫の姿鬼八だけではなかった。数々の愛人たちの存在があった。


 悟はチェアーにかけてあったタオルを取り、手渡した。


「ありがとう」


 礼を言って受け取る緑。自分の泳ぎに満足、とでも言いたげな笑顔だ。温水とはいえ寒くないのか、と思った悟だが、今回は口に出さなかった。


「報酬は今日にでも口座に振り込むわね。一条さん、本当にありがとう」


 長い髪を拭きながら、彼女は言った。この家に出る“幽霊”を退治してほしい、というのが依頼の内容だった。それが亡き夫、姿鬼八その人だったのならば、ここでの仕事はもう終わり、ということになるが……


 長原は現在、病院の集中治療室にいる。鬼八の魂と分離された直後は危険な状態だったそうだが、一命はとりとめたと連絡が入った。ただし、意識は戻っておらず、回復には時間がかかるかもしれない。どのみち『未亡人懺悔』は当分、休載となるだろう。


「安心したわ。これで怯えることなく眠れそうよ」


 夫の魂が消滅し、愛人の長原の容態も予断を許さぬ状況である。にもかかわらず、緑は落ち着いた様子だ。不安どころか心配しているようでもない。


「緑さん……」


 悟は、そんな彼女の名を呼んだ。そして……


「あなたは、旦那さんが長原に乗り移っていたことを知っていたんだろ?」


 と、訊いた。




 

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