四番目の絵柄 〜未亡人懺悔〜 15
“私は、他人に乗り移る能力を手に入れたのだよ……”
姿鬼八は言った。衝撃的な告白だった。
“先生、なにを?”
長原は馬鹿なことを、と言おうとした。病気で頭がおかしくなったのではないか、と疑ってしまった。
“信じられないかね?”
“はい”
“私はすでに何度か君に乗り移っているのだよ”
鬼八に言われ、首を傾げる長原。だが、思い当たるフシがあった。緑と寝所をともにしたとき、自分の中に“なにか”が入り込んでくるような感覚を覚えたことがある。不思議に思っていたが性交のあとの倦怠感や、ある種の充足、彼女を抱いた記憶は残っていたので大事ととらえてはいなかった。疲労の類であろうと考えていた。
“証拠を見せよう”
鬼八は枕元にあるスケッチブックと鉛筆を差し出してきた。
“裸の緑を、描きたまえ”
急な注文だった。長原はふるえる手で受け取り
“ですが、僕の絵には欠点が……”
その言葉とは裏腹に、なにかのインスピレーションがわいた。鬼八は、そのままの姿勢で正面の壁を向いている。目の焦点が合っていない。長原は理解した。今、この人は自分の中にいるのだ、と。
長原はスケッチブックに緑を描きはじめた。なんて素晴らしいことだ! 鉛筆の芯が紙に刻む彼女の表情、肉体に、これまでなかった“艶”がのる。自分に欠けていたものがペン先からほとばしる。こんなことは初めてだ。
“描けました……!”
できあがった裸の緑は即興で描いたものとは思えないほどに素晴らしいものだった。今までの自分ではなしえなかったものが、そこにあった。
“これが証拠だよ”
気づくと鬼八がこちらを見ていた。どうやら元に戻ったようだ。
“私は、自分のこの奇特な体験を作品にしようかと思っているのだ”
“御自分をモデルにですか?”
“私だけではない。緑もだ”
語る鬼八の目は輝いていた。野心すら感じさせる光を放っている。死を目前にしてもなお、創作意欲には一寸のひびも入らないらしい。
“だが、行き詰まっていた。緑という女をリアルに表現できる画法にたどり着くことができなかった”
“一番目の絵柄を思い出せないのですか?”
“その言い方は私のファンのものだよ”
“僕は先生のファンだったから、今ここにいるんですよ”
“そうだったな”
鬼八は、かすかに目を細めた。この偉大な漫画家の変遷してきた画風はファンの間で一番目の絵柄、二番目の絵柄、三番目の絵柄と呼ばれ区別されている。長原は緑を表現するのなら劇画調たる一番目の絵柄が向いていると考えた。
“一番目の絵柄では濃すぎるのだ。緑を描くのならば写実的なほうがいい。そして、それを表現できるのは君の腕だよ”
“僕の?”
長原はたじろいだ。自分には鬼八のような艶のある絵は描けない。
“私が君に乗り移れば、君の足りないところを埋めることができる”
なるほど、そういうことか。自分の技術と鬼八のセンスが融合すれば、緑という極上の女を表現できる。
“タイトルは決めてある。『未亡人懺悔』という”
“未亡人懺悔……”
“ヒロインの名は藍とする。緑をモデルにした女が藍というのだ。滑稽な色違いだろう?”
鬼八は不敵に笑った。嗚呼、なんということか? 漫画に人生を捧げたこの偉大な男は、おのが妻の容貌すら創作の糧とし、そして世に送り出そうとしているのだ。狂っている……いや、これが作品にかける執念か?
“私は長くない。この身が滅ぶとき、魂だけは君の中に生きることとなろう。そして君と私の共同による『四番目の絵柄』が誕生するのだ……”
実体験を漫画にしたいと願った鬼八と“艶”を求めた長原の間で利が一致したというのもあった。その日の夜から長原は自宅で『未亡人懺悔』の執筆にとりかかった。机に向かうと、自分の中に鬼八が入ってくるのがわかった。どうやら距離があっても乗り移ることができるようだ。もともとあった写実的な腕に鬼八の艶が加わり、生まれた四番目の絵柄は、まさに緑を表現するために作り出されたものだった。筆が加速する。
『未亡人懺悔』は、主人公の漫画家、
藍や相手の男に対する恨みを持ちながらも、不能となった負い目から責める事もできない倫三郎は天に願った。もう一度、妻の豊満な身体を抱きたい、と。すると奇跡が起こった。倫三郎は藍の不倫相手に乗り移ったのだ。それは神がくれた力だった。彼は他者の肉体を得ることで男としての機能を取り戻した……というストーリーである。これは鬼八が考えたものだ。
不能になった経緯や細部の設定に現実との違いはある。展開の都合上、ヒロインがひとりだけでは絵的に映えないため、倫太郎がやがて他の男に乗り移り、見ず知らずの女を抱くシーンなどが実際とは異なる点だ。だが、鬼八の実体験がもとになっていることはたしかである。なにより“二人三脚”にて完成した四番目の絵柄で描かれたヒロインの藍は、まさに緑を二次元世界で具現化した、と言えるほどに似ていた。
数話ほどを一気に描き上げた長原は上京した。専門学校から紹介された東京の出版社に原稿を持ち込んだのだ。そして、そこの編集者から天才だと絶賛された。弟子だったこともあり“姿鬼八の後継者”とも称されたものだった。
すぐに漫画家としてのデビューが決まった。出版社からは東京に居を構えるよう促された。だが長原は断った。実はある“不都合”が発覚したのである。
鬼八は長原と離れた場所にいても乗り移ることができた。だが、それが実現できる距離に限界があったのだ。これは上京したときに、滞在先のホテルで原稿の手直しをしようとして気づいたものだった。そのため長原は出版社に対し、地元鹿児島での活動を希望した。鬼八の力がなければ『未亡人懺悔』は成功しない。
出版社は編集者との連絡を密接に行うことができる、という理由から東京での活動を要求した。かたくなに断り続けた長原との間で意見が相違し、デビューが危ぶまれたが、病床の鬼八が電話で双方の交渉に割って入った。偉大な姿鬼八の介入で出版社側が折れ、長原は鹿児島に在住したままで漫画家としての活動ができるようになったのだった。
“ながはらまさお”名義で青年漫画雑誌に掲載された『未亡人懺悔』は第一話から大きな反響を呼んだ。他者に乗り移り女を抱く、というスリリングな展開が話題となり、そして“四番目の絵柄”による美しい女性キャラクターたちも大好評を得た。とりわけ緑をモデルにした藍というヒロインの妖しい魅力は、この作品の絵的な印象を決定づけるものだった。
連載がスタートし、しばらくした後、偉大なる姿鬼八は亡くなった。“性の伝道師”、“エロ漫画界のカリスマ”と呼ばれた男の死はファンから大変に惜しまれた。だが、その魂は今、長原の中にいる。師弟による合作『未亡人懺悔』は四番目の絵柄と実体験にもとづく刺激的なストーリーで、現在好評連載中である。
大雨は間断なく降りしきっていた。悟の前に立ちはだかる巨大な“烏賊”こそ、長原が変生した人外の姿である。体高は四メートルほど。それに比例して長い十本の触腕は緑の豊満な身体に人外の快楽を刻みつけてきたものだ。その痴態は姿鬼八のパソコンの中に保存されていた。
『Grrrrrrr……』
低い唸り声を上げる大烏賊。たしかに“イカ”の形状をしている。だが、大きな目を持つその頭部はむしろ逞しい男性器にも似ていた。そうとらえると十本の触腕は陰毛にも見える。生前、男性機能を失った鬼八の、妻を抱きたいという願望がその姿を呼んだのか?
「緑って女は、やはり男を狂わせるタイプなんだろうな」
ひとりごとをつぶやいた悟の心には、なんの感傷も感慨もわかなかった。あるのはただ、目の前にいる偉大な漫画家と、その弟子に取り憑いた人外を倒す、という意志のみ。異能業界のスーパースター、剣聖スピーディア・リズナーの本性は好戦的であると評した者もいた。悟自身、それが間違っているとは思っていない。
『Grrrrrrr……』
再度、唸る大烏賊。その声は雨の中でも聴こえる。両者の距離は二十メートルといったところだ。すぐにでも間合いは詰まる。
「いくぜ」
悟は紅い光刃を形成したオーバーテイクを右片手下段に構えた。このとき、彼の美しい目にほんの少しだけ憐憫の思いがさした。そう……血まみれの人生を歩んできたこの男であっても、人が本来持つ情だけは疑ったことがなかった。それが己にとっての原動力であり、剣を振るう理由であると信じている。だから今、鬼八と長原、そして緑を救うため彼は戦うのだ。いまや伝説となりつつある剣聖の名と宿命を胸に秘め……
大烏賊の触腕が、音もなく濡れた路上に蠕動する。それを足のように使い、のっそりと前進してきた。不動の悟は一触即発の状況にあってもなお正対し、その場にて動向を窺う。静かな立ち上がりに空気のざわめきはなく、右手のオーバーテイクに叩きつける雨のみが旺盛な戦意を煽るように音をたてる。互いの距離は十メートルまで近づいた。
そのときだった。動きが止まった触腕のやや上あたりが口のように開いた。その中から発生した黒い何かがこちらに飛んできた。大烏賊は悟に向かって“墨”を吐いたのである。
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