四番目の絵柄 〜未亡人懺悔〜 14


 “先生のもとで修業ができる!”


 丁寧に電話を切った長原は誰もいない部屋でひとりガッツポーズをした。憧れの姿鬼八のもとで働ける。進路は決まった。そうなると気が軽くなった。


 次の日早々、東京へ戻った長原は変わった。真面目に専門学校に通うようになったのだ。バイトを全て辞め、漫画家としての勉学に専念した。毎日学校に通い、夕方まで講座を受けたあとは自習室にこもり絵の練習を続けた。講師たちも、当時付き合っていた恋人も、急激な変貌ぶりに驚いたものだ。鬼八から採用されたことが彼の情熱に火をつけたのだった。


 もともと才能があったせいか、成績も技術も短期間で向上し、九月におこなわれた学内の試験で一位の評価をとった。人間変わるものだと周囲から騒がれたものだった。


 トップの成績を修めたことで、東京の出版社からも数件の声がかかったが、それらをすべて断り、ついでに東京での女関係もきれいに精算した長原は翌年、鹿児島に帰り、四月から姿鬼八のもとでアシスタントとして働きはじめた。


 “ね、私が言ったとおりだったでしょ?”


 昨年夏の面接日同様、初日に出迎えてくれた緑が玄関で笑ったものである。彼女には、こうなることがわかっていたのか……?


 昨年いっぱいでアシスタントが一人辞めていたらしく、仕事はすぐに回ってきた。他に四人いたが、手が足りなかったようで、新人でありながら長原への待遇は良かった。泊まり込みが多かったが安定した収入が得られるようになった。漫画に人生をかけていた姿鬼八という人は、ときに厳しいこともあったが、指導者として有能で、長原は制作現場にて、さらに腕を磨くこととなった。


 緑との関係は、すぐに始まった。はじめて会ったときから、まともな女ではないと感づいていた。彼女との間になにか起こりそうな気がしていたのは事実だ。言葉の端々から不貞を働いてきたことにも気づいていた。


 “先生に悪いですよ”


 ふたりしかいない夜の作業場で成熟した肉体をすり寄せてきた緑に対し、長原は言った。鬼八は自室で眠っている。


 “大丈夫よ、私が誰に抱かれようとも、あの人は、なにも言わないの”


 亭主が同じ屋根の下にいるにも関わらず、緑は熱い息を吐いた。


 “なんでです?”


 “私を抱くことができない負い目、かしら?”


 聞くと、男性機能を失った鬼八は今まで緑の不倫を認めてきたという。そのころには冷えた夫婦の関係に気づいてはいたが、そこまで異常なものだとは……


 “私、魅力ない?”


 “そんなことはないですよ”


 “じゃあ、来て……”


 と、長原の手をとり、緑がいざなった先は彼女の寝室だった。


 “うふふ……”


 緑はドアを閉めた。真っ暗になると低い笑い声をたて、またもすり寄ってきた。人妻の妖しげな体臭を嗅いだとき、理性はどこかへ吹ッ飛んだ。長原は緑をベッドに押し倒した。


 無我夢中で抱いた。人妻の良さを知ったものである。緑という女は美しいだけでなく、男をとろけさせる床上手でもあった。師である鬼八に対する罪悪感と肉欲は別次元にあるものだったらしく、この日以降、長原は彼女の完熟した肉体に溺れていった。






 “長原君……”


 ある日、鬼八の病室に呼び出された。性の伝道師と呼ばれた偉大な男も病魔には勝てず、ベッドで過ごすことが多くなっていた。この時期の鬼八は療養のため、すでに漫画制作から退いていた。アシスタントたちも離れ、賑やかだった家も作業場も静かなものとなっていた。


 “なにか悩みがあるのだろう? 言ってみたまえ”


 と、鬼八。師の言うとおり、長原には大きな悩みがあった。鬼八が倒れたことをきっかけに独立し、漫画家になることを決めていた。卒業した専門学校を頼り、大人向け漫画雑誌に売り込もうかと思っていたのだが、ストーリーやキャラクターデザインがなかなか浮かばなかった。


 “君は、絵は上手い。単なる技術だけなら既に私を超えている。だが、欠点がある”


 “艶ですか?”


 その点は以前から鬼八に指摘されてきた。たしかに手先の技術は身についた。だが、自分の絵には師のような艶がない。それはわかっていたことだった。


 “僕には、どうしても先生のような女性は描けません”


 “緑のようないい女を知ってもか?”


 鬼八の、その言葉を聞いたとき、さすがに冷や汗が出た。知ってはいたのだろうが、今まで面と向かって言われたことはなかった。


 “先生ッ!”


 長原は病室の床で土下座した。


 “僕は……僕は受けた恩も忘れ、先生を裏切るような真似をッ……!”


 “構わんよ、知っていたことだ”


 “先生……”


 顔を上げた。流した涙の先にある師、姿鬼八は怒ってはいなかった。


 “緑という女の本性なのだよ。初めて出会ったときは垢抜けない高校生だったが、そのころから奔放に生きる雰囲気においがあった”


 “なぜ、わかるのです?”


 “あれは男を吸い寄せ、そして男の命を喰う女だ。そういうのは年をとればわかる。老いた私の手におえるものではないよ”


 ベッドの上で鬼八は天井を見ていた。ダンディな男前で知られたその顔は、晩期にあってもなお皺すら魅力的に見せていた。病身とは思えないほどに生気もあった。


 “小便臭い小娘のころから緑を調教してきたのは私だ。一丁前の女になり、洗練もされた。私が男でなくなったことで本性があらわれたのは当然のことだったのだ”


 鬼八はゆっくりと体をおこした。長原は慌てて立ち上がり、その身を支えようとした。


 “長原君、私の命は長くないが、ひとつ君の手助けをしてやろう”


 やせ細った手で長原を制し、姿鬼八は言った。


 “私は、他人に乗り移る能力を手に入れたのだよ……”



 

 

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