わたしを殺して……! 〜愛と哀しみのオーバーテイク〜 4


 ────玲美が、いなくなったんです……!


 電話の向こうの早子が言った。今にも泣き出しそうな声だ。


「どういうこと?」


 香奈絵は訊いた。


 ────に、逃げられたみたいなんです……


「あんた、いったい何やってたのよ!」


 ────そのォ……マンションまで送ったあと、すこし目を離したすきに……


「逃げられたって言うの?」


 ────車がないので、たぶん……


「たぶん、じゃないわよ! あんた何年玲美のマネージャーやって……!」


 言いかけて香奈絵は止めた。早子が玲美の担当になったのは今年の六月からだった。


 ────す、すみません……


「連絡は?」


 ────さっきから携帯にかけているんですが、出ません……


「とにかく探しなさい! なんとしてもよ!」


 舌打ちした香奈絵は怒りにまかせて電話を切った。そのあと、ノートパソコンで玲美の予定を確認する。すぐに冷静さを取り戻すあたりが、一国一城の主らしい。


 ディスプレイ上に表示されたスケジュールによると、主演作となる来年春スタートのドラマのクランクインが一月から。タイアップ主題歌の収録は終えており、当分は音楽番組への出演もない。現在、契約している数社のCMは冬バージョンの撮影を既に終えている状況だ。


「行方不明になるには、いい時期ね……」


 ひとりごとを発した香奈絵は苦笑してしまった。妙な言い方だが、まさにそのとおりである。もし、これがドラマや映画の撮影期間中だったら、業界の信用などあっという間に吹き飛ぶ。


(まァ、根が真面目なあの娘のことだから、こういう時期を狙って姿を消したのかもね)


 とも思った。本当にそうなのかもしれない。どんなに辛くとも、どんなに体調が悪くとも、どんなに不満があろうとも、玲美が仕事に穴をあけたことなどなかった。


 香奈絵は社長室の壁にかけてある額縁を見た。三ヶ月ほど前に社員と所属タレント全員が揃って撮影した全紙サイズの写真だ。前列の真ん中には、やけに真面目な表情をした香奈絵、その横に玲美がいる。


「たまには、あんたの話を聞いてやったほうがいいのかしらね……」


 自分のかたわらで優しい微笑を浮かべている玲美に、香奈絵は問いかけた。






 一時間ほどして、早子から連絡があった。玲美が行きつけにしている店や、懇意にしている所属タレントに当たってみたが、誰も行方を知らないという。相変わらず携帯は繋がらないらしい。


(まったく……)


 電話を切り、ため息をついた香奈絵。この業界ではストレスをためたタレントが姿を消すことなど珍しくはないが、理由の大半は“かまってほしいから”だと言われている。問題行動をおこせば、誰かが不満をきいてくれる。すねれば誰かが優しくしてくれる。そう考えて、行方をくらますのだという。本気で芸能界から足を洗おうとする者は、その後のビジョンを描いているものだが、ほとんどの場合、そこまで至っていない。ましてや玲美クラスになると、引退するメリットなど皆無だ。一般世間に出ても、好奇の目にさらされ、頭がおかしくなるだけである。


(玲美……)


 社長室でひとり、香奈絵は一枚の紙を見ていた。今から九年前、玲美から送られてきた履歴書である。


(あんたは、私の“もの”よ……)


 右上に貼られた写真を指先でなでた。中学の制服を着た初々しい美少女が映っている。思えば、この顔を見たとき、一発で採用を決めた。事務所の命運を握るであろう、数年に一度の逸材が自分の手に入る。それを考えると興奮すらしたものだ。


(どこに行ったのよ、玲美……)


 履歴書に書かれた、当時の彼女の住所を見た。


(まさか、ね……)


 香奈絵は笑った。まさか“そこ”に行くなどとは思っていない。






 十月一日、午後十二時をすこしまわったころ。秋になっても、日中の鹿児島はまだ暑かった。気温は二十五度。陽射しが強いためか、実際にはそれより暑く感じる。爽やかさのかけらもない、ぬるい秋風がときたま吹くが、清涼感より湿気を運んできそうだ。


 だが、これが日陰に入ると途端に涼しくなるのだから不思議なものである。昼夜の温度差も大きいが、陰陽がもたらす寒暖差もまた激しい。秋のはじめとは、そういう季節である。


 鹿児島最大の繁華街、天文館てんもんかん。市民の足代わりとなる路面電車は熱量の高い集電装置を上に持つせいか、屋根のあたりにときおり人工の火花を発生させながら、大通りの真ん中を走っている。並走する無数の自動車たちはエンジン熱を大気中に拡散し、さらにタイヤの摩擦熱を道路に伝導させている。歩道をゆく人たちのほとんどがいまだ半袖派のようだが、太陽がもたらす暑さよりも文明の産物がまき散らす“熱さ”に参っているのかもしれない。手であおいで顔に風を送る者、ハンカチで汗を拭く者、冷えたペットボトルを額に当てる者。しのぎ方は様々のようだ。


 高見馬場たかみばば停留所前で信号待ちをしている赤いドイツ車があった。2リッターの5ドアハッチバックである。ナンバーは東京のものだ。日光を受け、濃い影を落とすフロントガラスの中にいるのはひとりだった。


 エアコンのきいた運転席に座っているのはサングラスをかけた女だ。カーオーディオがアメリカ人女性歌手の曲を流しており、そのリズムにあわせ、ステアリングを指で叩いている。愛車の中で“自分の持ち歌”を聴くことなどない。


(この光景、何年ぶりに見るんだろうか……)


 目の前の横断歩道を渡る人たちの周囲に広がる街並みは、懐かしいものだった。歩道に店々がならび、アーケードの入り口が見える。路面電車の線路は、たしか鹿児島駅のほうへ伸びているはずだ。左手の歩道に突っ立ってスマートフォンを見ている若者たちの姿だけが過去との違いだ。あとは昔とさほど変わらない。


 そして天まで届く高層建築群のはるか向こう……まるで空の果てに描かれたかのように桜島がそびえ立っている。彼女は鹿児島の出身だった。


 その青い姿をよく見たい……そう思った彼女はサングラスを外した。まばゆさに細めた美しい目は日本中の人々を魅了しているものだ。トップアイドル杉浦玲美は今、生まれ故郷の鹿児島に帰って来た。

 

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