わたしを殺して……! 〜愛と哀しみのオーバーテイク〜 2

 東京都目黒区の某ビル内にオフィスを構える“マルタプロダクション”は中堅どころの芸能事務所である。今年、設立十五周年を迎えた若い会社で、女性タレントのみで構成されている。所属する彼女たちは歌と芝居をメインに活動する“A班”とバラエティ主体の“B班”に分かれており、連日のようにゴールデンのテレビ番組を彩る華となっている。CMや雑誌グラビアでの活躍もめざましく、事務所の規模以上に世間の需要が大きいと言われる。


「どういうことなの!? はっきり言いなさい!」


 さほど広くない一室の空気がヒステリックな女の声で震えた。ここの社長、丸田香奈絵まるた かなえである。五十代の彼女は大手事務所から独立して、このマルタプロダクションを作った。業界では、やり手の女社長として知られた存在だ。


「黙ってちゃ、わからないでしょ!」


 もう一度、社長室に香奈絵の怒声が響く。自分は気性が強いからこそトップが務まるのだ、と思っている。年間、数億数十億を稼いでくるタレントに対しても、そういった姿勢は崩さない女だ。


「すみません……」


 デスクに座る香奈絵に俯いて謝罪するのは今をときめく人気アイドル杉浦玲美だ。この事務所の看板スターである。


「すみません、じゃないわよ!」


 香奈絵は立ち上がり、数十枚に綴られたA4サイズの紙束を突き出した。


「今後のあんたの予定はこれだけあるのよ! なのに“辞める”だなんて!」


 社長の彼女が憤慨している理由、それは玲美が事務所を辞める、と言い出したからだ。稼ぎ頭にいなくなられたら、どれだけの損失になるか。考えただけでぞっとする。


 香奈絵はデスクに座ると、引き出しから栄養ドリンクを取り出し、蓋を開けて飲んだ。落ち着こうかと思い、大きく息を吐いた。


「どっかの事務所に声をかけられたんでしょ? いくら? こっちも、あんたとの契約見なおすわ」


 すこし冷静さを取り戻し、香奈絵は訊いた。この業界の引き抜き合戦は熾烈だ。場合によっては契約解除に伴う違約金を肩代わりするような事務所もある。


「違うんです……わたし、芸能界自体やめたいんです……」


 玲美は涙を流しながら言った。成功する芸能人というのは、競争世界で生き残るほどの気の強さやたくましさ、したたかさを持っているものだ。だが、この玲美という女は違った。弱気でデリケート。計算高さは持ちあわせていない。たくさんの芸能人を見てきた香奈絵の目から見ても珍しいタイプだ。


「なんで?」


「疲れたんです……」


「なにに?」


「いろいろなことに……」


「引退するって言うの?」


「はい……」


「あんた、本当に疲れてるみたいね」


 玲美の返答を聞き、香奈絵は深々と椅子に座りなおした。所属する芸能人が辞めたいと言い出すことは珍しくない。多くは契約交渉のもつれだが、仕事による精神的ストレスを理由とする場合もある。業界キャリアが長い香奈絵にはわかっているのだが彼女は生来、気が短いため、ついついキツい言葉が先行してしまう。


「わかったわ……最近、ハードスケジュールを組みすぎた会社にも責任があるわ。日程こっちで組み直すから、当分休みなさい」


 香奈絵は残りの栄養ドリンクをガブ飲みした。長い髪は後ろでひっつめている。


「社長、わたし……」


 玲美はなにかを言おうとした。が……


「あんた、他にやりたいことでもできたの?」


 香奈絵のほうが質問した。


「いいえ……そうじゃないんです……」


「でしょうね。芸能界しか知らないあんたが他の生き方に興味を持つなんて思えないわ」


 口の端をつり上げた香奈絵。これは本気で思っていることだ。一般社会を経験しているタレントもいるが、玲美のように若い頃から芸能一択の人生を歩んできたタイプは、俗世間に馴染むことが難しい傾向にある。結局、辞められないのだ。


「社長、わたし……」


「今日はあがっていいから。夕方からの雑誌の取材はキャンセルいれとくわ」


 香奈絵はデスク上の子機を取った。内線ボタンを押し、そして……


「吉田? 玲美を送って行ってあげて頂戴」


 と、ひとこと。三十秒と待たせず吉田早子よしだ はやこが社長室にあらわれた。玲美のマネージャーであるが、むしろこちらのほうがアイドルに見えるほど、かわいい顔をしている。この事務所はタレントだけでなく社員も女性が多い。


「吉田、玲美を帰らせて頂戴」


 香奈絵はもう一度言った。


「わかりました」


 早子は簡潔に返事をすると、なにかを言いたそうにしている玲美の背中に手を当てた。


「玲美のスケジュール調整は今日中に出来る?」


「はい……」


 と、早子。内心では“今日中?”などと思っているのだろうが、玲美に気をつかわせたくないのかもしれない。ふたりは部屋から出ていった。


「まったく……」


 ひとりになった香奈絵は深いため息をついた。デスクの上の書類、ノートパソコンの画面に映し出されている企画案、ホワイトボードに書かれたスケジュール……創業当時と違い、今そういった物々は部下たちが作り、管理するが、“決断”だけはトップたる自分の役目である。レディースワイシャツを着た双肩にのしかかる責任は成長した企業規模に歩調を合わせ増大し、いまや多くの社員、タレントたちの生活と将来を守る立場となった。


 香奈絵がノートパソコンのタッチパッドをたたくと、画面上に杉浦玲美の姿があらわれた。レコード会社が作成した公式サイトだ。


 そこに映る玲美は白いノースリーブのニットを着ている。ダークブラウンのロングヘアはゆるふわにウエーブがかかっており、露出した両肩を隠している。色白のルックスは清楚ともいえるが、生命力をあまり感じさせず人形的でもある。造形上の瑕疵など見当たらない美貌だ。


 杉浦玲美は二十四歳。アイドルデビューして八年になるが、業界入りしたのは中学生のときだった。写真つきの履歴書がマルタプロダクションにおくられてきたのである。


 社長の香奈絵はそれを見て即、採用を決めた。履歴書に貼られた写真に映る玲美の美しさは既に開花をはじめていたからだ。田舎者らしい垢抜けなさがあったが、そんなことは問題ではなかった。都会的な洗練とは努力と工夫による後天要因に過ぎない。素材として秀でていることが才能であり、後々の限界点を決める。少女だったころの玲美は、その時点でダイヤの原石だったのだ。


 ところが採用後、香奈絵は玲美の扱いに困った。当時、弱小事務所だったマルタプロダクションはドラマや映画制作の関係者に対し、パイプを持たなかったのだ。香奈絵自身、独立前はアイドルやバラエティタレントのマネージメントが専門で、その方面に顔がきかなかった。それでも玲美を囲っていた理由は彼女が数年に一人の逸材だったからに他ならない。美貌と才能……両輪持ちながら雌伏の時を過ごす玲美の存在は香奈絵と会社にとって宝の持ち腐れになっていた。


 そして八年前、香奈絵はある決断をする。玲美を“アイドル”としてデビューさせることにしたのだ。 

 


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