時計塔を守れ! 10


 鹿児島最大の歓楽街、天文館てんもんかん。かつて、天文の研究施設があったことが、その名の由来だという。時を経て現代、この街は買い物や食事の場であると同時に、訪れた人々の欲望が大気中に淫蕩の渦を巻く危険な快楽の吹き溜まりとなっていた。香水をつけた夜の蝶たちが妖しく華やかに舞い、その匂いにつられた馬鹿な男共が今夜も派手に散財する。道路の脇に列をなして停まっているタクシーたちは夜の街という名の夢世界とマイホームという名の牢獄をつなぐ現代の唐丸籠なのか? 家に帰れば妻がいる。毎月届くローンの請求書がテーブルの上に乗っている。それらがもたらす恐怖を一瞬でも忘れられるならば……男という愚かな生き物は社会と家族から受ける重圧に傷ついた心と体を癒やすため、今宵もこの街にあらわれるのだ。






 そんな天文館のとある一角に“おっぱい天国モミモミ大明神”はあった。ドアを開けると、そこは欲望のパラダイス。薄暗い店内でキャミソール姿の女たちが肉体をまさぐられている。夢中で彼女たちを蹂躙している客の男たちの表情を見よ。おそらく会社でも家庭でも見せないであろう悦びに満ちているではないか。


「いやー銭溜さん、ここは女の子がハイレベルでサービスもいいんですよ」


 ボックスソファーに座る舎利田が言った。昨年まで福岡にいたそうだが、天文館にも詳しいようだ。この店にも数度、訪れているらしい。


「ムヒョヒョヒョヒョ、そのようですな」


 おしぼりで顔を拭いた銭溜が周囲を見回し言った。太っており背が高いだけに、彼が座ると席がえらく狭く感じられる。服装はジャケット。こんなところに神主の格好で来たりはしないだろう。


「銭溜さんのおかげで事もうまく運びそうです。今夜は楽しんでくださいよ」


「ムヒョヒョヒョヒョ、私は風流を解するタチですからな」


 二人が楽しそうに話していると、蝶ネクタイにデカい黒縁眼鏡の男がやって来た。ここのスタッフだろう。


「いらっしゃいませ、舎利田様」


 彼は頭を下げ、言った。


「初めて見る顔だな。新人か?」


 と、舎利田。


「いいえ、この道十年でございます」


「こちらの銭溜さんは俺の大事な“仕事相手”だ。頼むよ」


「はい、今日は最近入店し、いきなり人気ナンバーワンの座についた当店の新エースを紹介いたします」


 黒縁眼鏡のスタッフが合図した。すると、向こうから髪の長いひとりの女がやって来た。胸元が大きく開いたワイシャツを着ている。


「ほう、これは……!」


 舎利田が感嘆の声をあげた。


「ムヒョヒョヒョヒョ」


 銭溜の目にも激しい好色が浮かんだ。


「うちのエース、カリンちゃんです」


 黒縁眼鏡が彼女を紹介した。カリンというその女は大変な上玉である。素顔は上品なのだろうが、キツめのメイクをしている。元が良いから、ほどよくケバいのだ。切れ長の目は普段、清楚な光をたたえているに違いない。だが今宵は挑発的な形にくまどられている。耳を飾るシルバーのピアスは星をかたどっており、店内照明をきらびやかに反射する。


「カ……カ……カ……カ……カ……カリン……です……」


 美しすぎる彼女は挨拶をした。ナンバーワンというわりに、あまり愛想が良くない。


「カリンちゃんは“ツンデレ系”のキャラでして、いわゆる新機軸でございます」


 と、黒縁眼鏡は言った。銭溜、舎利田ともにカリンをじっと見つめている。無理もない。ルックスも素晴らしいが身体も良すぎる。ちらりとのぞく胸は豊満で、しかも黒くていやらしいブラジャーを着けている。白い太股はワイシャツの裾から丸出しだ。パンティが見えそうで……見えない。だが、それがそそる。


「なかなか面白い“新機軸”だな」


 舎利田はそう言うと、目の前に立ったカリンの胸に素早くタッチした。


 店内の空気を悲鳴が切り裂いた。同時にカン高い音が鳴った。他の客が一斉にこちらを見た。


「な……なにしやがる?」


 頬を抑えて舎利田が驚いたように言った。悲鳴をあげたカリンの平手打ちが炸裂したのだ。


「あー、カリンちゃん、ダメじゃないか。“初心者”にはもっと加減しなきゃ」


 黒縁眼鏡が舎利田に頭を下げながら言った。


「驚かせて申し訳ありません。実は、こちらも新機軸の“ドMプレイ”でございまして」


「な、なんなんだ、そりゃ?」


 舎利田は黒縁眼鏡に訊いた。


「はい。東京の風俗業界で静かなブームになっているもので、その手の趣味の方には大好評いただいております。鹿児島では当店が最速で導入いたしました」


「ほう!」


 と、納得した様子の舎利田。理解が早いようだ。


「言われて見れば、これはこれで悪くないな。よし、もう一度……」


 彼は再度、カリンの胸にタッチした。またしても悲鳴とともに、平手打ちが飛んだ。


「気が強い女は嫌いじゃないぜ」


 舎利田は気障な口調で言った。頬に平手打ちのあとが浮かび上がっている。マゾなのか?


「ムヒョヒョヒョヒョ。舎利田さんばかりずるいですな。私もいるんですぞ」


 と、銭溜。


「あー、すみません。たぶん銭溜さんにも合うと思いますよ。このドMプレイ」


 とは、舎利田。


「ムヒョヒョヒョヒョ。それでは私も少々……」


 ゴツい両手のひらを握ったり開いたりしながら、銭溜は嬉しそうに言った。カリンは嫌そうに身構えて後ずさるが、これは客からは演技の一環に見えるだろう。


「では、カリンちゃん。失礼のないようにね。舎利田様、銭溜様、ごゆっくりお楽しみください」


 黒縁眼鏡は礼をしたのち、立ち去った。


(ち、ちょっと……私をひとりにするなんて……!)


 カリン……いや、変装中の高島八重子は大変に困った。退魔連合会の退魔士である彼女がなぜ、キツいメイクのセクキャバ嬢に化けているのか? これは悟が立案した作戦だったのだ。






 “なぜ、私がそんなことをしなければならないのですか!?”


 昨夜、八重子は悟にそう言った。


 “君が適任だと思ったからだ”


 悟は、そのように答えた。


 “適任? 私にそんないかがわしいことは出来ないわ!”


 “いや、君の圧倒的な魅力ならば、イチコロに違いない”


 “だからって、い……いやらしいお店の従業員になるなんて……!”


 “この手が成功すれば、あの時計塔を守れる”


 “他の手を考えてください”


 “ならば君には、その他の手とやらが思いつくのか? だったら教えてくれ”


 “なぜ私が考えなければならないのです?”


 “そうか、そんなことを言うのか……”


 悟は、そこで頭をかきむしり、落胆の色を見せた。


 “失望したよ、君は自分が所属する退魔連合会にはびこる悪を見逃すというのだな”


 そこは生真面目な八重子の泣きどころだった。この女は故あって、藤代グループ会長、藤代隆信の“添い寝相手”をつとめるが、誇りを失ってはいない。


 “高島家といえば鹿児島の異能業界を代表する名門と聞いていたが、しょせんその程度だったのか”


 “失礼な……! 我が高島家を愚弄するおつもりですか?”


 八重子は憤った。愛槍アウフブリューエンが手もとにあったなら、無礼な口を聞いたこの“剣聖”とかいうチャラ男を突き刺していたかもしれない。そもそも彼女にとって最高の異能者とは、犯罪に手を染め出奔した兄なのだ。表舞台で華やかに活躍していたスピーディア・リズナーに対して良い感情は抱いていない。


 “それに君は、あの時計塔には、これからも動いていてほしいと言っていた。あれも嘘か? 嘘なんだな?”


 そう言われ、真面目な八重子は反論できなかった。彼女もまた、静林館高校の卒業生なのだ。






(でも、やはり納得できないわ……)


 楽しそうに酒を飲む銭溜と舎利田を見ながら八重子は思った。今となっては、うまく言いくるめられた気しかしない。


(しかも、見えてしまいそう……)


 彼女は本気で困った。裸ワイシャツの下は黒いブラジャーとパンティだけである。このようにして席に座っていると、むき出しの下半身が気になって仕方ない。足を閉じ、その上から手でおさえてガードしている。


「じゃんじゃんついでくれ、今日はいい日だ」


 隣に座る舎利田があけたグラスを差し出してきた。


(偉そうに……)


 と、思いながらも八重子が受け取ろうとしたそのとき……


「うっ……」


 急に舎利田は苦しそうに胸をおさえた。何かの発作か?


「どうしたのです?」


 八重子は訊いた。尋常な様子ではない。顔を真っ青にし、胸を何度もかきむしりながら上半身をふらつかせている。


(まさか、人外か……?)


 退魔士という職業柄、病気よりもそちらのほうを疑ってしまうのが八重子だ。聞けば、この舎利田という男は昨年、自分の店をつぶしているというではないか。そういったストレスが人間を負の側面に堕とし、“よからぬモノ”を呼びだすのだ。


「うっ……ぐっ……ぐるじい……」


 舎利田は席に座ったまま、八重子の太股に顔を埋めるようにして倒れた。


「しっかり! しっかりなさい!」


 八重子は舎利田の肩を揺さぶった。太股に感じる彼の息が荒い。


「ああ……いい匂いだ……」


 舎利田は言った。なんと、そのまま八重子のワイシャツの裾をめくり、黒いパンティの上から彼女の股間を嗅いでいた。






 店の裏口は暗くて狭い通りに面していた。この時間、たまに近道をしようとする人が通るが、今は静かである。


「人選を誤ったかな?」


 ドアの脇に立つ、さきほどの黒縁眼鏡が苦笑した。ここまで八重子の悲鳴が聴こえてくる。


「まァ、神宮寺の爺さんに感謝するか……」


 彼は黒縁眼鏡を外した。俗世の人々を嘲笑うため、欲望渦巻くこの街に降り立った気まぐれな美神の如き秀麗な素顔……なんと一条悟ではないか。変装していたのだ。


 好爺老師こと神宮寺平太郎は以前、ここ“おっぱい天国モミモミ大明神”が抱えた“ある事件”を解決したことがあったらしい。それ以降、あの老人はこの店をいたく気に入ったそうで、今ではハイペースで通う大常連になっているという。悟は平太郎に口聞きしてもらい、従業員として銭溜たちに近づいたわけだ。


(しかし、あのスケベジジイ。マジでこの店のVIPとはな)


 またも苦笑する悟。平太郎はスタッフや嬢たちから大人気らしい。人徳か? それとも遊び慣れしているのか? やたらスムーズに事が運んだ。店側の断りは一切なかったという。


(さて、なんか“面白い話”が聞けるかな? 頼むぜ、八重子)


 何度目かの八重子の悲鳴がまた聴こえた。

 

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