時計塔を守れ! 4
一条悟が住む借り物の洋館に村永多香子がやって来たのは九月十五日の夜だった。
「先日は、ありがとうございました」
静林館高校の教師であり、津田雫の担任でもある多香子は、客間のテーブルで、そのように言った。先月、バスの形をした人外ストーカーの魔手から彼女を救ったことに対する礼だろう。
「どういたしまして」
差し向かいに座った悟は言った。人外に襲われ、肉体のみならず精神的な後遺症を引きずる者も多いが、多香子は大丈夫のようだ。
「あのときの“報酬”、本当に良いのですか?」
「あれは俺が勝手にしたことさ。正式に依頼も受けてないし」
「ですが……」
「いいのいいの」
多香子には“自分はフリーランスの自営異能者だ”と説明している。彼女は報酬を払うと何度も言ってきたが、悟は断った。
「ところで、今日はどうしたの?」
「実は、一条さんにお願いしたいことがあるのです」
「俺に? なにかな?」
美しい笑顔で悟は訊いた。こういう場面で深刻な表情にならないのがこの男らしい。多香子が口を開きかけたとき、八重子がコーヒーを持って来た。
「どうぞ」
カップをテーブルに置き、八重子は言った。
「ありがとうございます」
と礼を言った多香子は、八重子を一瞬だけ見た。気になるようだ。
「彼女は高島八重子ってんだ。俺の“助手”だよ」
悟は適当な嘘をついた。すると八重子が不満そうな顔をした。退魔連合会の退魔士である彼女は今日、非番だったそうで、いつものシスタールックではない。有名スポーツブランドのロゴ入りTシャツにスキニーのジーンズを着ている。世話役ということで藤代グループの会長、藤代隆信が差し向けた女だが、どうせ監視だろうと悟は思っている。
「ああ、そうなんですか」
と、多香子は、ほっとした様子を見せた。気のせいだろうか?
「実は、私が勤めている静林館高校の時計塔のことで……」
「時計塔?」
「はい」
「なにかあったの?」
「その時計塔を調査していただきたいのです」
眼鏡をかけた多香子の顔は真摯なものである。時計塔の調査とは、どういうことか?
「一昨日のことなのですが、退魔連合会の方が学校に来られたのです。“ここの時計塔に良くないモノが取り憑いている”とおっしゃっていました」
「そりゃ物騒だな」
「その方は時計塔を調べたあと、早急に取り壊さなければならないとおっしゃいました」
と、多香子。退魔士がいう“良くないモノ”とは人外の存在をさすのだろう。人ではなく物に取り憑く、というのは滅多にないが、たまに見られる現象だ。
「もし、それが事実なら、たしかに取り壊さなきゃならなくなるな」
「そうしなくてすむ方法というものはないのでしょうか?」
多香子は言った。要件はそのことらしい。先月、彼女を救ったとき“自分はフリーランスの異能者だ”と説明したのは悟自身だ。自営異能者は民間の依頼も広く受け付ける。
「その時計塔に先生や生徒たちが近づくことってあるの?」
悟は逆に訊いてみた。
「敷地の入り口にありますし、中と周辺の掃除は職員の役目です」
「村永先生も掃除するの?」
「はい。持ち回りですから」
「時計塔の近くで気分が悪くなった先生や生徒はいないかな?」
もし、その時計塔が人外に憑かれているのならば、負の気が充満しているはずである。気質が弱い一般人が近づくと、それに毒され体調不良を訴えることが多々ある。
「いいえ……」
「そうか」
そういったことはないらしい。テーブルの中央の皿に盛られたサブレを一枚、手に取り悟は袋を開けた。来客用にと八重子が用意したものだが、悟は先に食べてしまった。二人の会話を立って聞いている八重子は眉をひそめた。
「今日、伺ったのは、取り壊さなくてよい方法がないか一条さんに相談したかったのです」
と、多香子。
「その時計塔って、君にとってそんなに大切なもの?」
とは、悟。学校内の建造物らしいが、なぜ彼女は、そんなにこだわるのか?
「あの時計塔は、我が校のシンボルであり、歴史的価値もあるものです。私だけでなく、職員皆が取り壊しに反対しています。生徒たちも悲しむはずです」
その多香子の言葉を聞き、悟は腕組みした。なんとかしたいのはやまやまだが、調査した退魔士が言うことが事実ならば取り壊さなければならない。これは県条例で決まっている。
「職員全員が、なにか手はないかと模索しています。私も知り合いの一条さんに相談してみようかと思ったのです」
「調査した退魔士の名前、わかるかい?」
「
「そのひとりだけ?」
「はい。出迎えたのは私でしたので。おひとりで車で来られました」
多香子がそう言ったとき、八重子は怪訝そうな顔をした。
「俺が出向いても取り壊し不可避になるかもしれないぜ?」
「それでも、一条さんに調べていただけるならば……」
「前回と違って今回は正式な依頼だ。金の支払いが発生するよ」
悟は言った。実は昨日、彼に対し地方公共団体から正式な三級独立異能者の資格がおりたのである。鹿児島中部自治特区、いわゆる“禁漁区”の長だったペイトリアークに関する情報を薩国警備の鵜飼丈雄に調べさせる対価として、彼はフリーランスとなった。証明書はまだ届いていないが、仕事は受けてよい立場だ。
「はい」
多香子は頷いた。返事を聞いた悟は紙に金額を書いた。
「初期調査費がこれ。成功報酬はこっち。その他の経費は別途請求。いいかい?」
それを見せて説明した。一応、異能業界の相場である。
「はい」
多香子はもう一度、返事をした。初期調査費のみならばそこまでの金額ではない。だが、成功報酬まで含めると結構なものだ。
「本当にいいの?」
「うちの職員たちと、お金を出し合うことにしたのです。同窓会のメンバーも協力してくれるそうです」
「同窓会?」
「私も静林館高校の卒業生なんです」
「そうか……」
悟は二枚目のサブレに手をつけた。またも八重子の眉間にしわが寄る。
「でも、そうまでして時計塔とやらを守りたいの?」
訊いてみた。そこまでするのはなぜだろうか?
「私が在校していたころには、すでに古い時計塔でした。やはり思い入れがあります。毎日毎日、休まずに母校の時を刻んできた立派なものです」
と語る多香子。
「私だけではありません。職員も生徒もみな同じ思いなのです。あの時計塔を守ることができるのなら、お金は惜しみません」
悟は多香子を見た。眼鏡の奥にある形の良い目が少し赤い。
「年に数度、業者の方に点検整備もお願いしているのですが、古くても頑丈な造りで、倒壊のおそれもないとのことです。部品さえ入れかえれば、ずっと動き続けることができるそうです。なのに壊してしまうなんて……」
彼女の言葉はそこまでだった。我慢しきれなかったらしく、泣き出してしまった。
悟は立ち上がり、多香子の傍らに立つと、その肩に手を当てた。
「一条さん……」
と、多香子。見上げた目だけでなく、頬も赤く染まった。
「涙を拭けよ……」
とは、悟。ハンカチを差し出した。ものぐさな彼が鼻を噛んでその辺に投げ散らかしていたのを八重子が仏頂面で洗濯したものだが、それは秘密だった。
「とりあえず依頼は受けるさ。ただし、ひとつ条件がある」
「なんですの?」
「大至急、君が泣きやむこと」
悟はウインクした。この女性的で美しい顔をした男の視線は、ときに驚くほど優しい。
「まぁ……」
多香子は泣き笑いの顔になった。悟なりの気遣いが届いたのなら男冥利に尽きる。
下のバス停まで多香子を送って行った悟が洋館に帰り着いたとき、八重子はキッチンでカップを洗っていた。いつもはシスターの格好をしているためヴェールに隠されているロングヘアが、今日はポニーテールの形をとって揺れていた。
「女性の扱いが、お上手ですのね……」
キッチンに入って来た悟の気配を感じ取ったらしく、八重子の背中が言った。もともと低い声だが、どことなく棘が感じられる。
「一条さんの助手になった覚えなど、ありませんわ」
「なぁ、八重子さん……」
彼女の言葉をさえぎり、悟は訊いてみた。
「この件に、なにか裏を感じてるんだろ?」
それは剣聖たる彼の“勘”なのか?
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