大統領令嬢は剣聖がお好き? 12
「言われたとおりにしました」
と、アニタ。今宵、空に月は見えない。
「あのボディーガード風情には、言ってないかね?」
とは、松田。
「ええ、黙って来たわ」
「よろしい。では、こちらへ」
彼はそう言い、海のほうへと歩いて行った。続くアニタ。海獅子号の前でつなぎ合わされたガードフェンスの前に立ったとき、振り向いた松田は手を差し出した。
「なんのつもりです?」
「人目につくと困るのだよ」
少し迷ったが、その手をとった。すると松田はアニタの身体を引き寄せた。腰を抱かれた彼女が悲鳴をあげるよりも早く、ふたりの身体が宙を舞った。
重力に逆らうような感覚……それはアニタにとって、はじめてのものだった。“ブランチ”である松田が気を脚に集中すると、これだけの跳躍力を発揮できるのだ。ほんの一瞬であっても漆黒の地面を離れ鳥の如く飛び、そして降下する……敵の手により、通常人ではなしえない快感に身を任せてしまった事実は彼女を複雑な気分にさせた。
台風対策のためか、海獅子号の乾舷はさほど高くなかった。ふたりが降り立った甲板の端部は海に浮かんでいるとは思えないほどに揺れを感じない。世界最大級のコンテナ船だからなのか?
「柵などないから気をつけることだ。足を踏み外したら、下へ“ドボン”だよ」
身体を離し、怯えるアニタに松田は言った。ここは船上。投光器が照らす甲板から錆の匂いが漂うのは気のせいではないだろう。さらに夏夜の湿気と潮の香りが入り混じった結果、不快な空気が充満している。
「約束は守ったわ。イサベルを解放して!」
アニタは言った。彼女は東京の友人を守るため、悟に黙ってここに来たのだ。おそらく松田はイサベルからアニタのスマートフォンのアドレスを手に入れたに違いない。
「約束しよう。俺の目的は君だ。東京にいる仲間に伝えてあるよ」
「危害は加えていないの?」
「誓うよ」
この松田という男は悪党だが、信義はあるらしい。もちろん、無闇な殺人が面倒をおこすことも知っているのだろう。
「なにが目的なの?」
「君のお父上には今度の大統領選を辞退してもらう」
「ロメーロ候補ね?」
「依頼人の名前はあかせないよ」
「私を人質にとったくらいでは、父の信念は揺るがないわ」
「もしそうならば、泣き叫ぶ君を仲間たちで輪姦し、その映像を世界中に流すと脅すさ。普通の親ならば耐えられまい」
それを聞き、アニタは後ずさった。だが、船上に逃げ道などない。
「下衆……」
そう言って睨みつけた。この男がどこまで本気か知らないが、身の危険を感じるに足る脅し方だった。
「なんとでも。手荒な真似はしたくないのでおとなしくしたまえ」
松田の表情は変わらない。その顔を見てアニタは逃げられぬことをさとった。足もとが揺れたような気がしたが、それが船を揺らす波のせいなのか、こみあげる絶望感がさせたことなのかはわからなかった。
「次期大統領が誕生し、その体制下での統治が根付くまで君には人質となってもらう。君のお父上の影響力が消えるまで何ヶ月か何年か、時間はかかるかもしれないがね」
大金で雇われたであろう松田の言葉にドライなプロフェッショナルとしての意志を感じたとき、アニタは覚悟した。思えば祖母良子の“初恋のひと”を探しに来たのが来鹿の目的だった。だが、それが自身の運命を左右するような事件に発展するとは……
(一条さん、ごめんなさい……)
このときなぜかアニタは目を閉じ、悟の美しい顔を思い出した。助けに来てくれる……そう信じたかったのだが、私がここにいることなどわかるはずがないではないか。やはり話すべきだったのか? だが、友人を救いたかったのだ……
「これから車で、東京にある俺のアジトへ行く。黙ってついて来てもらおう」
「そりゃ、ちょっと困るな」
第三者の声がした。アニタの視線の先に立つ美しい人影がやけに輝いて見える。それは照らしだす投光器の光線とあふれる涙が融合した結果、生み出された一夜かぎりの幻なのか? いや、違う。私の身を守るため剣をとる、私の大切なボディーガード……
「彼女には、ロクに鹿児島観光もさせてなくてね」
船上の端に立つ一条悟が、そう言った。
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