黒いなにか、あるいは無数の手
夕方、ホテル街で待ち合わせをした。私は制服のままだったけれど、大して目立ちはしない。ここには、制服姿の少女たちもいれば、コスプレで制服を着ている女性もいる。
駅前から少し行けば立ち並ぶラブホテル。
ベッド一つで部屋が埋まるような狭いところから、スイートルームを思わせる何に使うのかわからないだだっ広いところまで、ユニットバスで脱衣所もなくシャワーをするスペースもないようなところもあれば、サウナ付きジャグジー付きにコスプレレンタル付きのところまである。
相場に少し上乗せしたお値段を払えば、ひどい部屋は避けられる。待ち合わせ場所にやってきた相手に、「お風呂が広いところがいいな」と希望を伝えてみたりする。基本的にベッドがあれば事は済むのだけれど、どうせなら事後にお風呂に入ってさっぱりしたい。
ホテルを決めて入口をくぐる。アロマの香りが漂う店内は、薄暗い間接照明に照らされている。廊下は人がすれ違えるかどうか不安な狭さだ。パネルに表示された部屋のボタンを押して、目線を隠した受付のおばさんに、前払いで会計をする。エレベーターも二人きりしか乗れない狭さで、階を昇降する度に不規則に揺れた。地震が起きたら間違いなく止まりそうだ、地震が起きなくてもあるいは…。
部屋に着くと、鍵を回して扉を開ける。相手が扉を開けて先にどうぞと言ってくれたので、遠慮なく中に上がる。革靴を脱いでスリッパに履き替える。肩からカバンを下ろして床に置き、部屋に備え付けの小さな冷蔵庫からサービスのミネラルウォーターを一本取り出して開ける。相手は先にシャワーを浴びるねと浴室に入った。
***
私の頭の中の情景は、いつも黒く塗りつぶされている。なぜだかはわからない。いつのまにか出来上がったイメージだ。
思考の糸を縒り合わせ、紐にして、それを編んで縄にして、紙の余白に書き留めた。紙に線が引かれていく。それは次第に黒く黒く塗り潰されていく。
街灯一つない暗い畦道のよう、光の届かない静かで深い海のよう。その中を轟々と流れる何かが糸になり紐になり縄になり、いつしか黒い黒い触手のように伸びては近くのものを飲み込んで、どんどん大きくなっていく。自分が見えなくなっていく。黒い糸に阻まれて自分がどこにいるのか、息をしているのかわからない。立っているのか生きているのか、わからない。
ああ、息ができない!
ここは深い水の中なの?
もがくばかりで浮きもせず、口から空気は泡となって抜け出して、肺には水が満たされ、私は黒い何かに飲み込まれるような感覚に襲われて、意識が遠くなっていく。
それでも私の手は勝手に動き、黒い線を引き続けているのだ。ざらざらとした紙の表面が炭化した筆先を削っていくのか、紙が炭で黒く塗りつぶされているのか。
ざりざりざりざり
ざりざりざりざり
頭の中が黒い線で埋まっていく。線のようでいて、それはたくさんの触手であり、それは思考の中で私を覆う誰かの手であるらしかった。私にはそれが見えない、ただ黒い線状の何かであるとだけ感じた。背中にあるものは見えない。ただ気配だけ感じ取れた。
それはとても恐ろしく、細波のように絶えず襲い来るのだ。それは無数の手だった。無数の黒い手が私の背中を追いかけ続けるのだ。
私はずっとずっと前から、温もりを求めて「誰か」を探していた。その誰かは誰でもなく、白馬の王子サマといったような曖昧な誰かである。けれどその誰かは今日も見つからず、出会いと別れを繰り返す。熱を求めて光を求めて明かりに集まる羽虫のように、夜の街を徘徊する。会えば会うほど空虚な気分に襲われる。熱を求めているのになぜだか体からは熱は失われていくばかり。なんでだろう。
なんだか肌寒い。寒いよ。ここは寒い。冷えた透明な風を一身に受け止めることができず、倒れてしまいそうだ。凍えそうだ。ここはどこだっけ。
不安を感じる心の隙間を、黒く黒く埋めなければ、筆先が白い紙を塗り潰していく。無数の手が私の心を襲う。私はその影から逃れるように意識に黒い線を描く。迫り来る何かから怯えて、気味が悪い気持ちに満たされる。
夜を引き裂く悲鳴が聞こえた。
喘ぎ声に紛れてなかったことにされた哀れな鳴動。誰ともつかぬ、何ともつかぬ悲鳴も、だらしなく横たわる肢体も、黒い無数の手が背後から伸びてきた。私の意識ははっきりしてきた。それまではなんだかざりざりとした音で埋め尽くされて、意識は朦朧としていた。私は妄想の中を彷徨っていた。
私は生きている。この時ばかりは生きていると思えた。
声も体も温もりも、鋭利な筆先が黒い黒い線を引き続けている。白い紙には黒い水がだらだらと流れている。ざりざりと手に触れる黒い線はなんだった?ばらばらと零れる黒い線はなんだった?
暴発した劣情は男を飲み込んでもなお膨隆し意識の全てを飲み込んだ。
***
気付けば、全て終わっていた。私はいつの間にか眠っていたようだ。よっこいしょと起き上がると辺りには、私の髪が何本かベッドにはらはら落ちている。相手は脱力して、私には背中を向けてベッドに横たわっている。顔は見えない。事が済めば用なしで、眠っているのか沈黙している。寝返りも打たず、静かなものだ。
恐怖は鳴りを潜めていた。黒い影や無数の手や線や水、それらは私の周りから消えている。それらは私の妄想の産物だ。私の考えの中にしか及ばないものだ。だから見えないのは当然のことなのだ。
ベッドの上で男は静かに眠っている。私は男の脱ぎ散らかした衣服を物色し、財布から数枚引き抜いた。お気持ち、もらっていくね。
私はどこにでもいる目立たない少女。
大勢のうちの誰か一人。
───床は黒い水で濡れていた。
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