第4話雨の船
夜半、息苦しさで目が覚めた。遮光カーテンを引きガラス戸を開くと薄甘い雨の匂いがする。随分と降ったのだろう、アパートの隣を真っ直ぐ通っている道路が一筋の流れのように水で覆われている。街灯のオレンジが其処ら中に反射しているからか辺りは却って月の晩より明るく見えた。手を差し出してみると名残の雨粒がパラパラと腕に当たる。けれど、これくらいならどうということはないだろう。ベランダに出してあるサンダルへと足を通した。僅かに溜まった水に足が沈み、ちゃんと仕舞っておかなかったことを少しだけ後悔した。
ゆらゆらと揺らぐ街灯の明かりを見ながらぼんやりとアイスをかじった。一本四十円の安っぽいソーダ味が口内に満ちると次第に暑さが引き、まぶたが水でも注がれているように重くなっていく。これならまた眠れるかもしれないと思ったが、大きすぎるアイスを消費し終えるにはまだ時間がかかりそうだ。ぼんやりとアイスを嚥下する。視界を下へと向けると道路には誰も居ない。車も通らない。耳鳴りのしそうなほど静かだった。自分の呼吸に混じりサリサリと氷の粒が噛み砕かれる音だけが響いていた。
遠くで音高くブレーキの音がした。大通りはまだ車が走っているるらしい。寝惚けて何処かにぶつけそうにでもなったのかもしれない。雨は完全に止んで風が強くなり始めている。そろそろ戻ったほうがいいかもしれない。けれど、溶けかけたアイスがカーペットに垂れたら始末が面倒だ。
手に垂れてくる甘い水滴に難儀しながらどうしたものかと思っていると、視界の端で何かが動いているのが分かった。人にしてはやけに平べったく車にしては小さい。自転車やバイクにしては遅すぎる。何かと思い身を乗り出してみると、観光地の池等によく浮かんでいる小舟だと分かった。船頭や漕ぎ手は居ないのに滑るように道の上を進んでいる。けれど幾ら雨が降ったとして舟が通れるまで水が溜まることなんてあるだろうか。もしや洪水かとも思ったが直ぐに脳内から打ち消した。このアパートは高台だ。ここまで水が来るほどの事態になっているのなら、幾ら夜中とはいえもっと騒ぎになっていないとおかしい。分かりやすい非日常の中に居ながら何故か頭は冷静だった。小舟はやがて路地から大通りへと消えていった。
もう戻ってこないような気がしていたが、数分と経たずにその小舟は今度は此方に舟の先を向けてゆっくりと近付いてきた。ただ先程と違うのは、中に何か乗っていること。のそのそ動き回っているそれはどう見ても人ではない。ならば何なのかと問われると何ともいえないが、強いて似ているものを挙げるならば粘土の一塊といったところだろうか。鳴き声か足音なのかはわからないが、動く度にチリチリと安っぽく透き通った音をさせていた。静けさの中で消え入るような微かな音だった。何処かで聞いたことのあるような気もしたが、それを思い出す前に舟はアパートの横を行き過ぎ、今度こそ戻って来ることはなかった。
布団の中で目が覚めた。録に手も洗わず寝たから腕が全体的にベタつく。昨日のことが夢でなかったのがわかって、それでもなんともない朝だ。少し釈然としない心持ちで準備をして仕事へと向かう。昨日舟が通った道はもうすっかり乾いていた。
大通りに出て少し行ったところで猫が一匹死んでいた。尻尾から頭まで一直線に轢かれている。酷い有り様だったが、首輪で近所で飼われていたぶち猫だとわかった。首もとに鈍く光るのは鈴だ。
「あ」
あの舟は。あの音は。あの乗っていたものは。私は歩みを早め駅へと急いだ。小さく息を飲みながら、或いはあの舟に人が乗っているところを見ないで済んだことを幸いと思いながら。
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