最終話_ある彼女と彼の時間
彼女と再会して、そのまま駅近くのホテルに入った。おたがいの話を突き合わせると、どうやら同期たちに一杯食わされたらしい。状況は乗っかっても負け、拒んでも負け。どうにもならないじゃないかと思っているうちに、彼女はホテルへ行こう、と手早くスマートフォンでの検索をはじめた。
十年前の彼女の振る舞いとのギャップに戸惑いながら、手際よくホテルのチェックインを済ませる彼女の後ろを歩いた。
いちおういまはなんの関係性もない男女がホテルに放り込まれて、すべきか、せざるべきなのか。それを迷っているあいだに、彼女は「先に入るね」とバスローブを取ってシャワールームへ向かった。
擦りガラスで覆われたシャワールームの水音が止まった。
ダブルサイズのベッドに寝ころんだまま、顔だけをそちらに向ける。
ぼんやりした彼女の肢体のシルエットが浮かび上がっている。
それを見ながら、本当にこれで良いのだろうか、と頭の半分で考えながら、肉体と接続されている精神は、昂りを抑えられずにいた。
―――――
巻き髪から抜き取った大量のヘアピンをゴミ箱に棄てたら、ホテルの迷惑になるだろうか。逡巡して、結局持ち帰るのも面倒になり、ヘアピンをゴミ箱に放り込む。ドライヤーで髪を乾かしながら、備え付けのテレビの電源を入れた。時間は夜の十一時前だった。
ぼんやりとテレビを眺めていると、ふと十年前の記憶がよみがえる。
彼――今はシャワールームにいる彼と付き合っていたころ、このくらいの時間になると順番にシャワーを浴びて、それからベッドに入っていた。おたがいがシャワーを浴びている時間は点けたままのテレビがBGMになっていて、ちょうど、列車がテーマの帯番組の穏やかなメロディが流れていた。
あの番組は、もう終わってしまったのだろうか。
考えて一瞬寂しく思ってから、ここが東京ではないことを思い出し、局が違うから放送していないのかもしれないと考えた。
スマートフォンで検索しようかと思ったときに、シャワールームの水音が途絶えた。
擦りガラスで覆われたシャワールームを見る。
彼のシルエットは、十年前よりすこしだけ、お腹が出たような気がした。
ガラスで覆われていても、彼のものの準備が出来ていることは判った。
『十年前の彼』よりも少し角度が下がっていて、けれど『前の彼』ほどではないように思えた。けれど、そんなにまじまじ観察しているものでもないから、正解かどうかは判らない。
今のこの状況も、正解か何なのかは判らない。
―――――
髪を乾かすと、いよいよやることはなくなる。
ベッドに腰かけて、スマートフォンのアラームをセットする。
どうしたものだろうか。
十年前に別れ、三か月前に再会し、今奇妙な経過を経て同じホテルのベッドの上に居る。
彼女に恥をかかせないためにはどうすればいいのか。
その思考から始まる選択は、都合のいい責任転嫁に過ぎないのではないか――
「……寝る?」
悩んでいると、彼女がつぶやいた。
「そうだね」
眠ればいい。全ては密室だから。同期に向けてどういうストーリーを作るかは、明日の朝に彼女と相談すればいいだろう。
そう思って返事をしながら、身体を彼女のほうに向けた。
彼女が手を取る。腕の傷をじっと眺めていた。
それからそっと、腕の傷を指の腹で撫ぜる。
彼女は少し目を細めて、それからこちらを見上げた。
その瞳を見て、吸い込まれる、と思った。
―――――
彼の手が肩に触れたと感じた直後、唇を塞がれた。
目を閉じ、シーツの上に倒れながら思う。そういえば、こういうしかただった。
十年前と変わらない、彼の手順。
唇と舌とで彼を受け入れる。彼の手が横腹に触れて、私は応じるように背中を浮かせた。
バスローブ越しに身体が密着して、私ははっと熱い息を吐いていた。
それでも、まだ迷っていた。
これでいいのかと。
これは、正しいのだろうかと。
テレビはスポーツニュースが流れていて、キャスターが熱っぽい語りでサッカーの試合の結果を伝えていた。
―――――
十年を経た彼女は、少し変わっていた。
十年前よりも、抱きしめたときに指が肌に深く沈んだように思う。
そして彼女は十年前よりも甘い声を吐くようになっていた。
それは、歳をとったことによるものか。
それとも、彼女の前の男の影響か。
そう考え至ったときに、頭の中にどうしようもない征服欲が沸き起こった。
それで、十年を今から塗りつぶすことに決めた。
―――――
もう止まらないんだ、と思ったときに、とたんに怖く、恥ずかしくなった。
私がなにも言わなくても、彼はテレビと部屋の明かりを消した。
彼の体重の何分の一かを受け止めながら、私の頭の中にはどうしてか、今夜はまだあのメロディを聞いていないことが引っかかっていた。
息を吸って、吐きながら、私の精神はあのメロディを追い求めている。
世界中を旅するあの曲ならきっと、旅の神様が宿っているから。
旅の神様なら、きっと今の、このどうにもならない状況を、赦してくれるはずだから。
どうしようもなく、レールに乗せられたみたいにここまで来てしまった私たちの、旅先での恥ずかしい行いを。
だって、
――旅の恥はかき捨て。って、言うでしょう。
―――――
異様に昂っていた。
これが恥だからだと思った。
十年前に別れ、おたがいに独り身で再会し、恋人でもなんでもないはずなのに、友人に誘導されて、こうして会って、成り行きで肌を重ねている。
おたがいの意志を忘れて、レールにのせられてたどり着く、こんなことが恥でなくてなんだっていうのか。
その恥に抗おうとしているから、恥であることを覆い隠すように、異常に昂るんだ。
自分に言い訳をする。
他人の干渉を経てこうなったとはいえ、今は外からみえない闇の中。列車ならトンネルの中みたいなもの。
恥だって、そのまま受け入れてしまえばいい。
そう、
――旅の恥はかき捨て。って、言うじゃないか。
―――――
そして。
―――――
恥ずかしいことは。
―――――
ときに裏返って、すごくきもちがいいから。
―――――
―――――
―――――
彼女が急に涙を流して、でもそれは長くは続かなかった。
ベッドサイドのランプだけを点けて、寄り添って、お互いに天井のどこでもないところをぼんやりと眺めていた。
「ノーカウントね」
彼女がつぶやく。
「……なにが?」
「今日のこと」
「わかった、でも――」
「あのね」
でも、とあのね、が重なって、一瞬二人とも黙り、それから彼女が続けた。
「……再会したとき、きっと私、うれしかったんだと思うの。それを友達にも見抜かれてたんだと思う。だからこうやってお膳立てされたんだ。きっといままで、あなたとのこと、片付けきれずにどこかでずっとぐるぐる回り続けてたんだと思う。ぐるぐる、レールの上で、山手線みたい」
彼女はずっと、こちらは観なかった。
「もういちど私たちの進むレールが合流して、同じところを走るのか……それはわからない。でも今日のここ、いまのことは、車庫の中。列車だってずっと走りつづけられないから、車庫にだって戻る。でもそれは見えない、見せないことだから。だからノーカウント。私と、あなたと、これからのことは、今日のこととは別に考えようよ」
「わかった」
返事を聞いて、彼女はもういちど腕の傷を感慨深げに眺める。
「このあと、別々の道を歩んだら、今日のことは車庫。一緒のレールを走るなら、今日のことはトンネルの中。車庫、あるいはトンネルの中――そういうこと、だね」
「うん」
彼女は頷くと、ゆっくりと目を閉じた。
ベッドサイドのランプの電気を落としながら、朝になったら勇気を出そうと思った。
その先、どこに続いているかは、走っていけばおのずとわかると思うから。
<了>
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