第3話_ある彼女の時間_2

 電車を降りて、階段を降りて、改札を抜ける。

 頭のはしに、まだ久しぶりに再会――とも言えない奇妙な再会を果たした彼の横顔の像が残っていた。

 記憶。ひとつ思い出せば色々と思い出す。この年齢になってからの十年前は、忘れ去るにはあまりに近すぎる。


 駅ビルのお菓子売り場から暴力的なにおいが漂ってくる。好きなだけ買って思いっきりほおばりたい衝動を抑えて、職場に戻るための道を歩いた。

 旅行代理店。化粧品店。雑貨店と通り過ぎると、CDショップの前を通り過ぎる。


 音楽――。私は舞い上がりそうになる記憶の泥を無視して、遅めの昼食をとることにする。

 なんとも実の無い取引先との打ち合わせ。

 予期せぬ元彼との奇妙なめぐりあわせ。

 自分にご褒美を与えるくらい、バチはあたらないだろう。

 お菓子を我慢したはずのわたしは、駅ビルの出口に位置したラーメン屋に躊躇なく踏み込んでいった。


 午後二時を過ぎた店内は閑散としていた。客は私しかいない。

 煮卵をトッピングする代わりに麺を少な目でオーダーして自分なりの善悪バランスを保つ。

 セルフサービスの水をちびちび飲みながら、店内を流れるFMラジオに耳を傾ける。DJが次の曲を紹介して――

 私は、思わず眉をひそめた。



 電車で出会った彼と私がまだ付き合っていたころの話だ。

 今日はきっとそういうことになるんだろうなというはじめての日、彼の部屋で二人で過ごし、夜が更けて私が帰れなくなり、条件が整ったとき、予感、期待していたとおりにことは起こった。

 最初は頬を軽く触れ合わせる程度で。

 それが徐々に熱を帯びて、おたがいの歯髄まで求め貪りつくすような口づけを交わして、彼はブラウスの上からそっと私の胸に触れた。


「待って」


 私は思考のままならない脳をなんとか働かせてそう言った。彼が固まる。


「……CD、止めて」


 私がかすれるような声で言うと、彼は目を丸くして、それから吹きだした。

 彼の室内には、有名な男性ダンスボーカルユニットのCDが流れていた。


「なんで笑うの」


 緊張感が場から失われ、私も普段の調子を取り戻して彼に言う。

 彼は笑いをこらえながら、コンポの電源を落とした。


「こういうときって『電気消して』だと思って」

「それはCDを消した後に言うつもりだったの」

「はいはい」


 彼はつづけて部屋の照明のスイッチも切る。

 そのあと、緊張感を失ったわたしたちは、緊張感を失ったまま、若さと熱さに任せた。

 彼は「一生忘れられない曲になるよね」と、本当に洒落にならないことを言った。



 ラーメン屋の店内にはイントロが流れ出す。

 まさか、あの曲が今、このタイミングで、ラジオでリクエストされるなんていうことがあるだろうか。

 信じられなかった。CDショップの前では考えないようにしていたのに。

 女の恋は上書き保存と誰かが言った。私だってそうだと思っていた。

 それなのに、この本当に誰にも話せないようなくだらない記憶だけがずっと上書きされないで残っている。

 多くの人に愛された曲だから、必然、耳にする機会が多かった。

 道端で、ラジオで、テレビ番組の挿入歌で。

 印象的なダンスだから、目にする機会も多かった。

 テレビの音楽番組で、お笑いタレントのモノマネで、会社の忘年会で。

 ぐるぐる。

 そのたびに、私はあの時の記憶を思い出す。記憶は強化される。

 耳を塞いでも、目を背けても。

 上書きなんてできない。ずっとぐるぐる回り続けてる。


 ラーメンの器が目の前に置かれ、私はラーメンにお酢をふりかけると、店内に流れる曲のリズムに合わせてラーメンをぐるぐるとかき混ぜた。

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