第5話:マミと我森のプレイ

マミと我森のプレイ


 我森は、自分の手で突き飛ばし、食器棚で頭を強打して倒れたマミを見下ろしていた。全てを終わりにしたかった。幼なじみを妬んだ略奪愛も、不倫も、狂った欲求のはけ口になるのも、変な優越感も。そして、マミのうそ偽りの無い気持ちを受け止める、自分の嘘も含めて。だから、我森は数分前、マミに別れを告げた。

 それを聞いたマミは逆上した。「だったら、一緒に死んで欲しい」と頼んできた。我森は、また、マミの冗談だと思った。ここでキスして、ここでスキって言って。マミの頼み事は、いつも冗談に近い。なので、我森も始めは、笑った。その我森の笑顔も強ばり、マミの顔からは、色が無くなり始めた。彼は急に、怖くなった。

「冗談、だろ?」

 いつものように、柔らかくて温かい特異な声で、マミに問いかける我森。マミは、本気だった。

 

 大学生のマミにとって、同年代でも少し大人びた我森は、自慢の彼氏だった。自分の力だけで生活し、両親も居ない孤独な人生にも負けず、必死で生きていた。そんな我森から漂う空気は、マミの周りの男子学生にはなかった。そして何より、我森の容姿。すらりと長い手足に、ひょろりと高い背丈。だけどがっしりした肉体。わがままプリンセスのマミにとって、容姿も、従順な優しさも、我森の全てが好きだった。

 マミはいつも、友達が行きそうな場所へ我森と出かけ、そこで出会った友達に、偶然を装って我森を自慢した。経済的に、何不自由なく育ったマミ。幼い頃から、欲しい物は全部買い与えられてきた。バッグを自慢し、買ったばかりの靴を自慢する。「いいなぁ」「かわい~」という彼女たちに「で、これが私の彼氏」と我森を紹介するのだ。「へぇ~」と言いながら、バッグや靴と同じ眼差しで、我森を見てくる。そんな彼女たちに、我森は頭を少し下げて挨拶をする。

 初めは、マミにとっての我森が、身につけて歩き回りたいだけのアクセサリーのような存在だと思っていた。マミの部屋にある、かつて「欲しかった」ブランド品陳列した棚。いずれ、その棚に自分も並べられ、忘れ去られるまで、ただそれまでの彼氏だと思っていた。そうやって扱われる方が、我森にとっては楽だった。彼は、マミのことを一ミリも愛してなどいなかったからだ。


 育ててくれた祖父母が死に、それでも格安の家賃で貸してくれた大家。我森は、そんな大家に感謝しつつ、家賃の滞納だけは避けたかった。高校生の間は、祖父母が残してくれた貯金を少しずつ切り崩しながら、簡単なアルバイトをするだけで生活ができた。しかし、それにも限界が来て、高校を卒業すると色んな仕事をするようになった。金を稼ぐことは、本当に大変だった。街でティッシュを配り、配っているときにスカウトされて、雑誌の読者モデルをやったこともある。そのスカウトが、夜の店を紹介するときもあった。色んな仕事をしたが、どれ一つとして合わなかった。三角形の穴に、同じような大きさの四角形の何かをぐりぐりとねじ込むような毎日だった。

 そんな生活の中で、マミの「金」はたやすかった。三割の事実の上に、七割の嘘を積み上げて、話をでっちあげる。それをマミに語ると、彼女は泣きながらお金をくれた。何度も金をもらったが、マミに金を渡した感覚は薄いだろう。それは、飲んでいるジュースを一口あげる感覚に近いからだと、我森は思っていた。

 マミは、我森の現状を両親に話したようで、マミの母親から「うちで一緒に住めばいい」とまで言われるようになっていた。マミの母親は、娘と我森の将来のことを真剣に考えていた。少しでも早く孫が欲しいマミの母親にとって、その孫ができるだけ容姿端麗の方が望ましい。娘婿に望むことは、マミの母親には多くない。経済的なバックアップは完璧にするつもりだった。娘のことを任せるというより、娘婿ごと引き受ける。娘の結婚は、マミの母親にとってそんな感覚に近かった。結婚してしまいなさいと、マミにも我森にも繰り返す母親。我森は、そんな母娘とも、くっつきすぎず、突き放し過ぎない、絶妙な距離感を保っていた。

 マミもマミの母親も、熱が冷めればサッと引くのは分かっていた。しかし、結婚という話が出ている以上、そんなにすぐでもないだろう。その間に、もらえる分をしっかりもらおう。我森は、読者モデルもホストも辞め、他に掛け持ちしていたアルバイトも辞めた。今しか得ることの出来ない「金」をできるだけ多く得たい。祖母が死に、残してくれた貯金がじりじりとなくなっていくときの恐怖を忘れることができなかった。無駄使いは一切していない。無駄どころか、必要なものでさえほとんど買わずに過ごしてきた。それなのに、貯金は減っていった。じりじり、と。少し、ずつ。金は、あればあるだけいいのだ。我森には、それが痛いほど分かっていた。

 この先、本当の意味で困らないために、何かの資格を取るか、手に職をつけるという選択肢はなかった。そこまで遠い未来よりも、まずは目先のことを優先したのだ。

 不倫と売りとマミ。これらの金蔓から、慎重に、かつ大胆に金を得ていく我森の日々。いくらあっても、まだまだ足りなかった。すぐに祖父母が残してくれていた貯金額は超えたが、それでは一年ちょっとしか持たない。その五倍、十倍と必要だった。時間をできるだけうまく使って、少しでも多くの金を得るため、「遊び」や「演技」を繰り返しているうちに、マミとの時間がおろそかになったのは確かだった。

 そんなある日、マミが自殺未遂をはかった。

 彼女は、自分の部屋で手首を切った。マミの母親から連絡をもらい、急いで駆けつけた病院には、初めて会うマミの父親もいた。婿養子に入って会社を継いだマミの父親。一目見ただけで、優しさがうかがえる温和な人だった。あのマミの母親と、この父親。その間に生まれたマミ。何というか、すべてが同じ色カードの柄違いのように思えて、家族というのが改めてうらやましく思った。

 マミの母親は、怒っていた。このところ我森からの連絡がないと、マミから相談されていたらしい。確かに、連絡は来るが、返事をしていなかった。この頃、ちょうど綿貫からのプレイが激しさを増し、身体中に傷が目立つようになっていたのだ。それを上手く利用できる相手ならまだしも、マミにとって我森は、アクセサリーだ。傷がついたと知ったら、どう反応するだろう。しばらく、綿貫から儲けて、それを終えて「きれい」になったら、マミに戻ろう。我森はそう思っていた。

 しかし、我森から何の連絡もない時間が、マミには耐えられなかった。それは生きていくことさえ、無理なほどだった。我森に届いたマミからのメールには、生きていけない、死んだ方がましだ、という文面が並んでいた。我森には、それがマミの大げさで、冗談のような本心だとは気づけなかった。

 マミが意識を取り戻したとき、ベッドの側にいる我森を見て、ただ、しくしくと、二十分も三十分も泣き続けた。そんなマミを見て、我森は心の底からぞっとした。マミのまっすぐな本気が、その静かにすがるような時間の中で突き刺さった。我森は、恐怖を覚えたのだ。

 乾と話すようになり、我森は「老いていく」ということを少しずつ実感するようになっていた。時間が経ち、過去とは結びつかないような現在に放り込まれるのだ。四十年先。そんなにも遠い未来。それまでマミと一緒に居られるのか。マミは、本気でそれを望んでいる。それを断って、四十年も先まで、自分には必要な「金」を稼ぐことはできるのか。あまりにも漠然とした不安だった。

 

 マミは、我森だけにすがっていた。自分の元から、我森が離れることなど、想像していなかった。小学生の頃から友達と呼ぶ者はいたが、友達ではなかった。相手も自分自身も、どこか余所事で、一緒に居て感じ取れるぬくもりはなかった。それを孤独だと認識してからのマミは、それはそれでいいと思うようになった。やがて、それがいい、と強がり始めてからは、カラカラと、ただ空虚な毎日だった。周りの女子、クラスの男子。マミが持っている物だけを媒介にして、空を泳ぐ会話。マミは、はやく大人になりたかった。

 大学生になってからも、そんな日々は変わらなかった。ただ、周りのプレイヤーが変わっただけだった。結婚は早い方がいいと、口癖のように繰り返す母親。その「早い」と言われる年齢に、近づきつつある自分。マミは、物に飽きていた。かといって、人とはうまくいかなかった。誰か一人、この人、と決めた相手がいれば、他の物なんて何も要らないと思える。それが結婚だと、マミの母親は言う。両親を見ていれば、確かに結婚はいいものだとマミには思えた。誰か、特別な、一人。その人との暮らしを想像して、いつか来るだろうそのときに逃げ、それまでは「このまま」でいいと思って暮らしていた。

 マミが我森と出会ったのは、混み合った電車の中だった。車内の奥までするすると進み、つり革を持って立った場所。その前の席に座っていたのが我森だった。うつむいて、眠っているようだった。マミは少し上を向き、窓からの景色と、その上に流れるデジタル公告を何となく眺めていた。そのとき、マミの膝を何かが触ったので、「キャッ」と思わず声をあげてしまった。驚いた我森が「すいません」と謝った。

 座っていた我森が足を組み直したとき、マミの膝に触れたのだ。マミは、周りを気にしつつ、「いや、すいません」と逆に謝った。上から見下ろした我森の顔。マミは、ドキッとした。店の棚に並ぶバッグにドキッとすることがある。並んだ靴にも、ショーケースのピアスにも、ワンピースにも。そんな「コレだ」というドキッと感だった。次の駅で急に立ち上がり、我森は降りていった。むくっと立ち上がると大きかった。何も言わず、マミの横をすり抜けていき、その我森の姿をマミは目で追った。見失いそうになった時、マミは衝動的にその電車から降りていた。

 そのまま、我森の跡をつけた。駅を出て、しばらく歩き、駅前の賑わいがなくなって住宅街へと入っていく。我森は、気付いていないようだった。どこまで行くのかな、とマミが思った瞬間、我森は「家」の中に入っていった。そこは、マミが思う「彼の家」ではなかった。数戸が連なった長屋で、とにかくみすぼらしかった。マミは、がっかりした。この店構えの中に、この商品があるからいいのであって、この雰囲気で食べるから、この料理は美味しいのだ。この家に住んでいる男か。マミは、何やっているんだと自嘲した。夢中で跡をつけてきたので、帰り道が分からず、駅まではたまたま通りかかったタクシーに乗った。

 その晩も翌日も翌々日も。マミの頭からは、なぜか我森が離れなかった。彼が住んでいる家よりも、電車を降りるとき、すれ違った彼の首筋や、跡をつけて、ずっと見ていた後ろ姿が、忘れられなかった。マミにとって我森は、何日か考えて、それでも欲しいと思った者だった。マミは、我森の住んでいる駅まで行くことにした。そして、思い出しながら、我森の家を目指した。しかし、なかなかたどり着けなった。よく似たような公園と、曲がり角が多いのだ。一回目、二回目、三回目。結局、我森にも会えず、家にもたどり着けない日を重ねると、マミには、何が何でも会いたい人になった。誰か一人のことをこんなにも考え続けることは、初めてだった。マミは、居ても立ってもいられなくなっていた。

 七回目のチャレンジは雨の日だった。マミがいつものように駅を出て、この前失敗した道とは逆を進んで、ふとコンビニに出くわしたとき、店の前で、傘も持たず立っている我森を見つけた。マミの心臓は、ばくばくと音を立てた。その音を慎重に飲み込みながら、そのコンビニ近づいた。我森は、何の反応もしなかった。ただ、前を流れている人達の中の一人。マミは、声をかけたかった。しかし、なんて言えばいいのか分からなかった。この間、電車で膝を……。そんな台詞を浮かべたが、覚えている訳がないと思い直した。咄嗟に「傘だ」とマミは思った。店内に駆け込み、ビニールではなく、黒い方の、千円の傘を買った。レジに並んでいるときも、店内から外をうかがって、このまま我森がどっかへ行かないか、ドキドキした。

 マミは、買った黒い傘を持って、我森に近づき、

「これ、よかったら、どうぞ」と言った。

 不審がってこちらを見る我森。しばらくして

「なんで?」と言った。 

「いや、傘がなくて、困っているのかと思って」

「あ、そう。え? これ、もしかして、いまこの店で買ったの?」

「そう。あ、いや、予備に。今持ってる傘が、強風とかで折れたときのことを考えて、もう一本あった方がいいかな、と思って」

 我森は、マミの持っている黒い傘を見て、しばらく考え、なるほど、とぜんぶ納得した。

「そうなんだ。本当にいいの、借りて?」

「あ、はい。もちろん。貸すんじゃなくて、差し上げます」

「あ~、助かったぁ。財布、忘れて来たから、傘が買いたくても、買えなかったんだよね。助かります。どうもありがとう」

 にっこり笑う我森の顔を見ると、マミは、じわっとあたたかくなった。

「じゃ、これ。もしよかったら」

 マミは、財布から一万円札を抜き出して、我森に差し出した。

「え?」

「いや、あの、財布を忘れたって、さっき、あなたが」

「あ~。え、ほんとに? じゃ、遠慮無くお借りします。ありがとう」

 我森が、あっさりと自分の手から一万円を取ったとき、マミはホッとした。また、嫌がられることをしてしまったっと、内心悔やんでいたからだ。しかし、我森はありがとうと言った。

「えっと、これ、どうやって返せばいい?」

 我森が訊ねると

「じゃ、連絡先、教えてもらえますか?」とマミが言った。


 連絡先を交換した二人は、それから毎日連絡を取り合った。マミが一方的に打つLINEに我森がついてくる。一万円を返してもらうために会うという名目は、マミの中からあっさっり消えていた。

 マミのいつも遊ぶ街で、我森と会う。男の人が行っても、苦ではないところを選んで、そこで会う。話せば話す程、我森の口や目や耳や鼻や、もう我森の全部から魅力が溢れてきた。マミは、いつしか我森という男が好きになり、それに付随する全てが好きになった。どこに住んでいても、何をしていても。我森だから、素敵なのだ。もう、マミは我慢ができなかった。このまま、紅茶とスイーツを食べて、少し話して、笑って、それで別れて、またLINEをして、次の会う約束をして。その関係に確固たるものが欲しかった。

「俺と、付き合ってくれますか?」

五回目に会った店で、我森がマミに告白した。

「え、なんで?」と、あまりに唐突なうれしさのあまり、マミが聞く。

「いや、そう言って欲しそうだったから、なんとなく」

 我森は、マミが半分食べたマカロナッツを頬張った。


 それから、二人は恋人同士となった。それまでと同じようにスイーツ屋で話し、その後で、それまでにはなかったセックスをした。マミにとっては初めての恋人だった。身体を見せ合い、そして触れあう全ての行為が、特別でたまらなかった。

 デートのお金はすべてマミが払っていた。付き合う前も、付き合ってからも、それは変わらなかった。マミが両親と一緒に居たくないときは、我森の長屋で二人きりで過ごした。マミのしたいまま。それに我森が合わす。そんな関係に、マミは何の不思議も感じていなかった。我森にとっても、損のない、というよりもむしろ得の多い関係だった。マミが周りの友達からどんな風に思われているかは、友達だと紹介された女達の目を見ればすぐに分かった。その反応をマミも自覚していると我森は思っていた。つまり、マミという人間は、全ての関係に希薄なのだ、と。

 しなやかに緩み、張り詰めることのないマミとの日々。我森は、いつか自分の暮らし方に限界が来たとき、最後に残るのはマミかも知れないと思うようになっていた。そうなった時、マミに付随するもの。彼女の家族や、金。それらが、我森をしっかりと掴んで離さないような、彼が一度も経験したことのない絶対的な安心に誘うようにも思えた。マミと、一緒に生きていく。それは、悪い事ではないかも知れない。

 しかし、我森は自分にストップをかけてしまう。これまでも何度か、同じよな温かさを感じたことがあった。その度に、その関係は無くなっていった。自分には、無縁なのだ。マミにとって自分は、ただのアクセサリーだ。我森は、金蔓を追いかけては、長屋の隅の、階段下の引き出しに、お金を貯めていった。


 冗談じゃ、ないよ。そう言って、包丁を手に、我森に迫ってきたマミの姿がよみがえる。我森の長屋の狭い居間。祖母と祖父と我森が座ればぎゅうぎゅうの狭い食卓がある。そこで、別れを告げた我森と、それを聞いたマミ。

 凍り付いたような空気を裸電球の灯りが照らしていた。背もたれの壊れた椅子が三つ。流し台からは、嫌な臭いがした。一階には六畳間がもう一つ。二階に行くと六畳と四畳半の部屋がある。祖父母が死んでから、二階は完全な物置になっている。我森が小中高の間に獲得した、十数個のトロフィー。それらは、透明のビニール袋に包まれて奥の方にしまわれている。祖母は、我森が水泳で優勝すると、特別な日だと言って、無理をしてでも赤飯を炊いてくれた。そんな祖母がいつも腰掛けていた右側の椅子が、倒れたマミの左側に見える。我森は、祖母の椅子を眺めていた。

 噛みついた飼い犬に、お仕置きする飼い主のマミ。薄灯りの中でも、マミの震えは、はっきと分かった。包丁が妙に光っていた。幼い頃からそうであったように、「本気だからね」と、無茶をする仕草を見せれば、思い通りになると思ったのだろうか。別れたくないマミの本気。病室のベッドで、しくしく泣いていた彼女を思い出す。そんな彼女の気持ちに、もはや応えたくても、応えられない我森。もうマミと一緒に居られるほどきれいではないのだ。別れないという選択肢は、もうない。

 マミが包丁を突き出して、我森のほうへ倒れ込んできたとき、反射的に、マミを突き飛ばした。埃をかぶった茶碗や、不揃いのコップが並べられた古い食器棚。その食器棚にマミがぶつかり、がちゃんと大きな音を立てた。頭を打った彼女は、そのまま冷たくて、傷だらけの床に倒れこんだ。

 昔から、我森は捨てられている猫を見ると、可哀想だった。それは、教室の隅で泣いていた女子にも、いじめられている同級生にも、同じように思った。しかし、その気持ちはいつも、頭の中心から遠く離れて、心の反対側にある飛び地での感覚でしかなく、どれも実感がなかった。床に倒れ、うーうーと苦しんでいるマミを見たときも、同じだった。とても遠く、何もかもが鈍かった。

 我森は、その場から立ち去った。去り際、マミの方を振り返ると、目を開き、懇願する涙を流していた。可哀想だった。だけど、ここで拾って帰ったとしても、ばあちゃんは飼うことを許してくれない。何度も経験したから、分かっている。どうせまた、ここに捨てに来なければならないのだ。それを思うと、思い切って目を閉じ、ダッシュで走り去らなければいけない。

 倒れたマミを置いて、我森は長屋を出た。急いでいたので、持ち金は少なかった。最初の二日は、行く宛てもなく、東京近郊をさまよっていた。その中で、ふと、ばあちゃんが言っていた「修ちゃんはねぇ、四国の香川県っていう所で、生まれたのよ」という言葉を思い出した。そして、我森は、夜行バスに乗った。

 まずは大阪まで行き、そこから電車で和歌山へ南下した。そこからフェリーで徳島へ渡り、そのまま、またバスで香川までやって来た。香川へ来たのは初めてだった。生まれた場所。生んでくれた両親がどんな人か我森は全く知らない。小学校に入ってから預かってくれた祖父母は、両親について何も言ってくれなかった。我森は、幼心に、じいちゃんも、ばあちゃんも知らないのだと思っていた。実際に、知らなかったのかも知れない。北関東の養護施設で育てられ、親切な老夫婦に引き取られた我森は、その時とても嬉しかったのを覚えている。それと同時に、恐れてもいた。施設でたびたび問題を起こしていた、自分のコントロールできない部分が出てしまわないか。一度引き取られて、また戻ってきた施設の友達を見て、自分もいつかは、捨てられるのではないか。我森はずっと、そうならないために、注意深く生きてきたのだ。

 高松のターミナルの駅から、バスに乗って終点まで行った。辺りは真っ暗で、明かりの付いているところが全くといっていいほどなかった。山奥にポツンとあるバスの終点。我森は、疲れていた。ここ三日間の宛てのない日々。歩いて歩いて、外の明るいところで寝て、また歩く。いくら若いとはいえ、限界だった。

 バスの運転手に聞くと、近くに温泉旅館があると教えてくれた。温泉の湯がいかに良いかを熱弁されたが、我森は、とにかくゆっくりと休みたかっただけだ。布団の中で眠りたかった。教えられた旅館は、とても小さかった。温泉に来るのは、初めてだった。家の風呂でも浸かるのが嫌いだった我森には、わざわざ「浸かりに行く」ということが信じられない。

 小さな和室へと通され、そこで少し休んだ。しばらくすると、自分の臭いが気になってきた。ここのところ、風呂にも入っていないのだ。部屋に風呂が付いていないので、大浴場へ行き、せっかくだからと、我森は露天風呂に浸かってみた。

 気持ち良かった。じわ~っと温まった。山奥の静けさの中、露天風呂には一人だった。ふと、陽人の母親の声を思い出した。優しくて、おっかなかった陽人の母ちゃん。「もちろんよ」。助けて欲しいときは、いつでも助けてあげると言ってくれたあの声。その声が、あんなにも頼りなく、弱々しいと感じたときのこと。「もう、いいですねよ」。我森は、誰というわけでもなく、訊いた。自分でも、ここまでよくやってきたと思う。孤独は、演技で誤魔化し、現実は、逃避で切り抜けてきた。騙しているのは、全て「仕方のない」ことだったのだ。

 

 空には、おとぎ話のような、星空が広がっていた。


 近づいてきた二人の刑事が口にした、マミの名前と、殺害という言葉。我森は、驚いた。マミは死んだのかと思った。彼女は、あの後、自分の手で、自らの命を奪ったのだ。その殺人犯になっているのか。マミの母親が、今度こそ許さないと思って、そういうことにしてしまったのだろうか。「もう、本当に、いいかな、ぜんぶ」。我森はつぶやいた。そして、橋の上から落ちるとき、見ていた乾の目。それと同じような眼差しをずっと見ていた。


 田所マミの遺体は、通報を受けて駆けつけた警官によって発見された。その通報は、田所マミ本人の携帯電話からあった。発見現場の家には、一人で暮らす我森という男がいる。そして、我森と被害者は、恋人関係にあった。まずは、その男の行方を追うことから始めた。それにしても分からないのは、被害者の携帯電話を使ったということだった。カモフラージュにしては、雑すぎる。秋山は、いつも組んでいる刑事ともう一人、三ヶ月前から組んでいる大介を連れだって、この事件にあたった。二人の刑事には、それぞれの任務を命じ、秋山はひとり、被害者が自殺したという線で、捜査を始めた。

 我森という男は、両親と死別し、養護施設へ入った後、養子に出されて十年以上をここで暮らしていた。近所の人、十人に聞けば、十通りの我森が出てきた。対照的に、被害者の田所マミについては、誰に聞いても同じようなものだった。この二人が出会い、恋人となり、なぜ殺人にまで及んだのか。我森本人を捕まえて、聞いてみるしかないと思った。

 我森は香川に向かう。秋山は、我森が香川で生を受けたと聞いたとき、ピンときた。東京から香川への生き方は、新幹線か、バスが主流だ。我森は、バスを使うだろうと踏み、長距離バス会社に協力を要請し、予約者リストをあらった。しかし、なかなか足取りは掴めなかった。やっと大阪へ向かったとわかり、その後、和歌山からフェリーに乗って香川へ渡ったということが判明したのは、事件から二日後のことだった。

 秋山は、自分の息子の事を思い出していた。再婚だった妻の連れ子として、家族となったが、一度も息子は、秋山に本性を見せなかった。その息子が、大学卒業を間近に控えた三月、自殺したのだ。我森を追えば追うほど、彼の話を聞けば聞くほどに、秋山は胸が締め付けられそうになった。一体、息子も我森という男も、何をそんなに恐れていたのだろうか。そしてなぜ、一番言いたかっただろう素直な言葉を、飲み込むようにして生きていたのだろうか。

 香川県に入ってからの我森の動きは、すぐにつかめた。他県から来た者がとるルートが、そんなに多いわけではない。高松のターミナル駅で我森の姿をとらえ、そこからバスに乗り込んだ我森を県警の車を借りて追いかけた。温泉宿に入っていく我森。そのあとを秋山ら三人も続いた。部屋で容疑者を確保をしたかったが、他のお客様の迷惑だけは、避けて欲しいという旅館側の要望を聞き入れ、我森が部屋を出るのを待った。

 そして、誰もいない露天風呂で我森の身柄を拘束した。

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