第4話:乾の我森プレイ
乾には、あの無味無臭な我森の笑い顔が忘れられない。そして、渇き切ったあの声が、頭から離れない。言葉にならない自分の感情の中に、押さえ込むことのできない残像が浮かぶ。なぜだか、ズキズキ痛む奥歯をそっとなめてみる。
東京を離れ、有り金すべてをはたいて、ここまで来た。山梨県、大月。東京に比べると、「生活」し辛い点の方が多いが、東京へ戻ろうとは思っていない。昨日から、商店街の電気屋のテレビでは、繰り返し我森のニュースを伝えていた。あの橋の上から真っ逆さまに落ち、その後、どういう経緯で殺人犯となったのか。「コーラとポッキー」。また、乾の頭に我森の声が響いた。
あの日、乾は空腹だった。
前の晩、空き缶が思うように集まらず、雑誌も売れなかった。すごく寒い夜で、いつものように、ワンカップ酒を一気に飲み干すこともできなかった。だから、頭ばかりが冴えて、眠れなかった。明け方になり、限界を感じた乾は、まだ人通りの少ない明け方のコンビニへ入った。店員は奥の部屋にいる。カメラもない。完全なる死角。素早くつまみ菓子の袋を上着の中に隠した。そして、何食わぬ顔で、店を出た。
万引き。この五年、仕事を辞め、家も捨て、路上で生活を始めてから覚えたことだった。自分に言い訳をする訳ではないが、あまりやっていない。どうしても耐えきれないとき、そういうときだけだ。コンビニを出て、トボトボ歩き、ジャケットの内側で袋の擦れる音がする。やっと食べられる。もうすぐ駅も開く。そしたら、これを食べられる。乾は、それを想像するだけで幸せな気分になった。
「いぬいさ~ん」
後ろから、誰かが呼んでいる気がしたが、きっと気のせいだ。こんな都会のど真ん中で、自分を知っている者など一人も居ない。それに、「乾」なんて名前は、とっくの昔に捨てた。最近、よく小さい頃の夢を見る。路面電車が走り、それを追いかけて遊んでいた頃。父も母も優しかった。貧しかったが、楽しかった。
「ちょっと、ちょっと。いぬいさんって、お~い」
長男として生まれ、幼い弟と妹が、八人もいた。自分がしっかりしなければいけない。病気がちの母、厳格な父。暑くても、寒くても、それは口に出さなければ我慢できる。口に出してしまうから、本当のことになるだけだ。
「やっぱり、そうだ」
若者が、突然、目の前に回り込んできて、肩を揺すった。うつむいていた乾は、驚いて顔を上げた。伸びきった髪が、ガサッと揺れ、嫌な臭いがした。
「だいぶ印象が変わっちゃったけど、う~ん。けど、やっぱ乾さんだ。ね、そうでしょ」
最近、視力がだいぶ落ちている。焦点がなかなか合わない。目の前の若者が、いったい誰なのか。なぜ、自分のことを知っているのか。
「おれ、おれ。忘れたかなぁ。神崎小学校に通ってた、我森ですよ」
乾は、大袈裟に首を傾げて、そのまま無視して、歩き続けた。
「あれ? 違うのかな。ま、いいか。おい、おっさん、こら、ちょっと待てって」
我森が再び追いつき、乾の肩を掴んだ。
「それ、俺にも一個ちょうだいよ」
我森は、乾の上着の内側を指している。乾は、我森の顔を凝視した。
「俺さぁ、見ちゃったんだよね。おっさんがそれ、パクるとこ。しかも、それ、俺もめっちゃ好きなんだよね」
「言え」
か細い声で、乾が言った。
「は?」
「警察にでも何でも、言え」
「まぁまぁ。落ち着いてよ。誰にも言わないからさ。それにあれだよ、もし言っちゃったら、結構、面倒臭いことになると思うよ」
乾は、我森のことを思い出した。彼がまだ、公立の小学校で用務員として働いていたとき、よく用務員室に遊びに来ていた子供だ。毎年、なつく子供はいたが、我森はその中でも特別だった。いろんな遊びも教えてやった。悪戯ばかりするから、叱ったことも一度や二度じゃない。あの、まだまだ子供だった我森が、こんなに大きくなったのか。
「じゃ、これ全部やるから、どっか行け」
乾は、さっき万引きしてきたつまみ菓子の袋を我森に渡した。
「いいよ、いいよ。大事な朝食なんでしょ。俺は、一個だけもらったら十分だから」
袋をあけた我森は、一串だけ取って、あとは乾に返した。
「しっかし、すごいね。ありゃ、プロのシゴトだね。見事だったもん。たまたま俺の位置からは見えたけど、絶対、店員は気付いてないよ」
乾は、歩き続けた。悔しくて、恥ずかしかった。袋を握る手に、力が入る。かつて、色々と教えてやった子供に、こんな所を見られるとは。誰にも会わないで済むように、全部捨てて、この街に来たのに。こんな所で出会うとは。我森は、乾の横を歩き続けた。
「なんか、こう、バーンって感じだね、乾さん。弾けた、ってやつ?」
乾は無視して歩いた。眠らない街・新宿も、明け方の数時間だけは、静かになる。まだ明け切らない西新宿の路地。乾の心は、激しく波打っていた。こんな感情は、ここ数年間、一度もなかった。もう、何を見ても平気だと思っていた。どんな目にあっても、静かに受け入れられると思っていた。なのに、こんなところで、自分の昔を知る、それも生徒と出会うとは。よりにもよって、万引き現場を見られるとは。また、悔しくて、情けなくて、乾はやりきれない思いだった。
「あ、乾さん。これ、よかったら、使ってくださいよ」
我森が一万円札を束にして差し出した。乾の足が止まる。その札を凝視してしまった。そして、乾の手は、勝手にその札を掴んでいた。掴んで数えると十枚あった。十万円もの大金。乾は我森を見た。見られた我森は、にっこりと笑った。こいつの家は確か、貧しかったはずだ。学校のほとんどの者は、詳しく知らなかったかも知れないが、乾は知っている。放課後、夜になってもご飯がないからと、用務員室にきて、乾のお茶漬けの素で茶碗2杯分掻き込んでいたこともある。両親がなく、養父母もかなり歳をとっていたはずだ。我森の容姿や風貌から、貧しさは微塵も感じなかったが、瞳の奥の訴えるような眼差しは、まだ日本が貧しかった時代、乾が幼い頃によく見た瞳だった。その我森が、まだ二十歳そこそこの若造が、なんでこんな大金を持っているんだ。そして、それをなんで簡単にくれようとするんだ。乾は、札束を突き返した。そこまで、落ちぶれてはいない。ギリギリの意地だった。
「じゃさ、これ、さっきのお菓子の分。俺は、ちゃんと、お金を払うからね」
イヒヒと笑いながら、一万円札を乾のぼろぼろのジャケットに突っ込んで、走り去った。
絶望のどん底に突き落とされた気分だった。これなら、空腹のまま、寒さの中で死んだ方がましだ。これまでの人生、決して裕福ではなかったが、人として守るべきものは、踏み外さなかった。それなのに。
乾は、教師を三十年務めた。学校の方針についていけず、あからさまに干されるようになって教師を辞めた。その後も、かつての教え子が救ってくれた。その教え子が教員を務める学校で、用務員としての働き口を世話してもらったのだ。用務員は、足かけ十年勤め上げた。結婚もせず、両親もとっくに他界している。孤独。そんな自分が選んだ路上生活だ。誰の世話にもなりたくない、誰とももめたくない。持ちつ持たれつの関係の輪から飛び出したのは、自分自身だ。そのとき、覚悟を決めたはずだ。
我森が突っ込んだ一万円札。怒りと寒さと空腹と一万円。ワンカップ酒が、頭の中をグルグル巡った。ようやく、街が明け始めた。都市バスも走り出した。タクシーの数も減ってきた。大通りに出ると、サラリーマンの姿も、ちらほらと見られるようになってきた。乾は、ポケットの中の一万円札を親指と人差し指で何度かこすった。ここに、金がある。だが、この金は絶対に使わない。あのコンビニに戻って、この金でさっきのつまみ菓子代を支払おうかとも思ったが、そんなことは何にもならない。握りしめた、つまみ菓子の袋を、乾は捨てた。
空き缶を集め、週刊誌を拾い、縄張りを侵さないようにルールに従って、路上生活をする。乾は、我森に出会ってからも、そんな生活を続けていた。しかし、ポケットに入っている一万円。「収穫」の少ない寒い夜は、酒が欲しくなった。コンビニに行く。店員を見る。チャンスはある。が、もう万引きはしない。万引きをしなくても買えるのだ。金なら、ある。だけど使えない。二度、三度、乾はコンビの店内でそんな葛藤と戦った。
四度目、乾はワンカップ酒の瓶と、つまみを買った。我森からの一万円を使ってしまった。一万円が数枚の千円札と玉に変わると、それからははやかった。あっという間に一万円を使い切ってしまった。金をなくし、元に戻っただけなのに、乾は、あのときの十万円の束を思い浮かべてしまう。自分でも情けないと思った。
かつて、まだ教壇に立っていた三十代の乾は、駄目なものは駄目だ、と相手を構わず主張する男だった。バトミントン部の顧問であった彼は、全国大会へに連れて行った選手も一人や二人ではない。生徒から信頼され、いざと言うときに頼られる教師だった。学校という組織と対立し、見えない「数」の力で徐々に隅に追いやられ、土俵際で踏ん張ったが、押し倒された。その結果が今であるなら、あのときの生き方を変えるか。寒い夜、段ボールにくるまりながら、考えることもあったが、乾の出す答えはノーだった。
自分でもよく分からない。何もかも失い、路上で生活をすることは出来るのだが、何もかも失うからといって、自分の主張を曲げることは出来ないだろうと思う。爪の間の黒い垢、邪魔になるばかりの髪と髭。ツンと鼻をつく体臭。頭に浮かぶのが、二十歳そこそこの若造が差し出した十万円だという未来が来るというのにだ。
寒い夜になる。考える。そして思い出してしまう、札束。また、我森とばったり出くわさないだろうかと思うようにもなる。我森は、明け方の決まった時間に、新宿にいた。そんな早朝に、何をやっているのかは分からないが、乾は、いつの間にか我森に会いに行くようになっていた。
我森は、路上生活者になった乾に、何も聞かなかった。乾と再会したときも「あ~。やっぱり来た。俺に会いにきたんでしょ」と、にっこり笑っていた。
「なんか、このあいだはすいませんでした。不躾に札束なんか、ちらつかせちゃって。どうですか、仕事しませんか?」
のこのこやって来て、我森を見つけたとき、乾は正直「やった」と思ってしまった。そんな自分が、すごく恥ずかしいと思いながらも。
「簡単ですよ。えっと、そうですね。ポッキー。分かります? 味は、いちごのやつ。それ、取ってきてください。そしたら、また一万あげますよ。どうですか。ただでもらうよりいいでしょ?」
あの頃から、我森は変わった子だった。生徒の間で見せる顔も、教師達に見せる顔も、全部つくりものだと乾は気付いていた。人の心の中を必死にのぞき込んで、相手が一番求める自分を造っていく。それをこの子は、すごく自然にやってのけるのだ。それが、教師生活の長かった乾が見抜いた、我森の本性だった。そんな彼が、万引きをしてこい、と言う。お金が欲しいならあげる、しかも、あげる理由もちゃんとつけて。乾は、黙ったまま、ガードレールに腰掛けた我森を見ていた。
「あ、俺、始発で帰るんで、やるならあと三十分もないですよ。俺は、どっちでもいいんで。これ以上、罪を重ねたくなかったら、やめておいた方がいいと思いますけど」
また、イヒヒと、笑う。乾は、その顔を見ると虫唾が走る。
「あ~、ありがとうございます。さすがに仕事がはやいですね」
ポッキーの箱を開けながら、我森が言った。
「乾さんも、食べます?」
乾は何も応えず、ただ横に立っていた。頭の中で情けなさが飽和し、爆発しそうだった。
「あ、そうか、そうか。じゃ、これ。はい」
我森が一万円札を乾に渡した。それを受け取って、乾は走るように去っていった。イヒヒ。またあの顔で我森が笑っているように思ったが、振り返らなかった。
ヘアワックス、週刊誌、プリン、ポテロング、コーラ。我森の要求するものを買いに行き、対価として一万円をもらう。何度か、同じ事を繰り返すうちに、乾は、我森から得た金で要求物を購入するようになる。それにうすうす気づいた我森は、「乾さん、言っときますけど、ルール違反はだめですよ。今回は、まぁ、いいですけど。俺は、買ってこいって言ってるんじゃなくて、取ってこいって言ってるんですからね」と、あの笑い顔で言うのだった。我森の要求は、どんどんエスカレートしていった。
「乾さん、あそこのサラリーマン。ほら、ベンチで寝てるやつ。あいつの財布とってきてくださいよ」
暖かくなると、そんな「シゴト」も増えた。財布を奪い、IDを眺めては「へぇ~、あのおっさん、こんないいとこに務めてて、しかも部長なんだってさ」と、無邪気に笑ったりもするのだった。
乾もまた、我森から得るお金が当たり前のようになっていった。その金で、仲間を集めて河原で宴会をしたり、カプセルホテルに泊まることもあった。乾の金を目当てにし始めた仲間たち。一週間に一度は、シャワーを浴びないと気持ち悪くてしようがない身体になった乾。これを最後にしようと思って我森に会いに行くが、乾の周りも、身体の痒みも、それを許してはくれなかった。我森といると、悪いことの限界ラインがあやふやになるような気もした。あの無邪気な顔で笑われると、それは「悪戯」の範囲ですまされるんじゃないかとも思えてしまうのだ。還暦を迎えた乾でさえ、そう思ってしまう不思議な力が我森にはあった。
冬から始まった我森との関係が、春を過ぎても続いていた。乾は、いつものようにコーラとポッキーを我森に渡した。それを食べながら、我森は始発までの時間、ガードレールに腰掛けて、欠伸をするように話し続けた。横に突っ立っている乾。すっかり明るくなった朝の街。
「俺さぁ」
遠く昔の、我森がまだ弱かった頃の話。
「乾さんが言ってくれた言葉で、すっげー覚えてることがあるんですよ。今は、ワシが助けてやれるから、助けてやる。でもいつか、おまえさんがワシを助けてくれるかもしれん。そのときは、一つ、頼むよ、ってね。あんときのお茶漬け、すっげー助かったんですよね」
我森の言葉が、乾の胸をズサズサと突き刺していく。
「だって周りの奴らになんて、言えないもん。うちは貧乏で、じいちゃんもばあちゃんも俺なんて育ててる場合じゃないなんてさ。我森くんは格好いい! とか、みんなバカみたいに言ってるし、近所に住んでた奴は、いっつも金魚の糞みたにつきまとうし。でもさぁ、なんか乾さんは、何も言わなくても、分かってくれてたっていうか。まぁ、うまく言えないけど、安心してたんですよ、側にいると」
乾は、我森の言葉を聞いてやりきれなくなった。あの頃の自分が、まだ小学生の子供に影響を与えていたのか。
「言えば、よかったんですよね。ぜんぶ正直にいっちゃえば、今みたいに、ならなくて済んだのかもな。あ~あ、戻りたいなぁ、あんときに」
我森はポケットから携帯電話を取り出し、何も言わずに駅へ入っていった。始発電車の時間は過ぎていた。
正直、乾は用務員の職に就いた時点で、社会の全てを諦めていた。教師の職を離れ、もう誰かの前に立つ気力を失っていた。組織という所に押しつぶされた自分の五十代は、もうなるようにしかならないと思っていた。お茶漬けを食べさせてやる。それも、本当の事を言ってしまえば、優しさでも何でもなかった。ただ、あの瞳を前に「これ以上、深入りすると、面倒なことになる」と思ってしまったのだ。だから、さっさと片付けたかっただけだ。そんな自分の行動を、我森は、あんな風に思っていたのか。そして今、彼なりのお返しをしてくれているのだろうか。
イヒヒと笑う我森の顔が浮かび、小学生だった彼の顔に変わり、いつの間にか、目も鼻も口もないのっぺらぼうになって消えた。朝から、陽射しの強い日だった。
乾は、目をさました。何をやっているんだ、と頬を打った。ここまで落ちてしまった今の自分に、改めて愕然とした。もう本当に、終わりにしよう。我森に会わなければ、金は手に入らない。この街にいると、その金目当ての仲間に顔が合わせられない。ならば、街を離れよう。乾はそう思った。手持ちの金の中から、交通費だけを残し、残りを全て仲間に分け与えた。合計で、二十一万九千円になっていた。
再び金蔓を失った乾は、電車に乗って錦糸町まで行き、その界隈で路上生活を始めた。春も終わり、夏、秋、冬と、食うか食わずの生活だった。しかし、我森からの金を手にするときの、言葉に表せないやりきれなさ。それがない分、潔く我慢することができた。毎日のように、路上生活へと成り下がる者がいた。その数は、増え続けていくようにも思えた。サラリーマン、肉体労働者、外国人、女性、中学生にいたるまで。この国はいったいどうしてしまったんだと、乾も心配になるほどだった。特に、若者が多いようにも思えた。会社という組織が嫌になり、自由を求めて路上生活に落ち、今度はそこのルールに縛られる。そんなちぐはぐな現実だ。もうここから逃げ出す先はない。最後の砦で、ギリギリの自分を試すかのように、彼らは路上生活を送った。
負けて、逃げ出して、なおも戦わなければならない。それを目の当たりにすると、乾は「若者よ、働け」と、勝手ながら言いたくもなるのだった。まだまだ時間はあるだろう、と。その時間の中で、大逆転の可能性は、十分に残されているだろうと。しかし、時間のあるなしに関わらず、それ相応の理由があって、みんな路上へ来たのだ。他人なんて勝手だ。それは分かっている。分かってはいるが、乾もまた、そんな勝手な一人となって、家出中の女子中学生を説教してしまうのだった。
去年の夏は猛暑だった。台風が何度も来て、洪水もあった。荒川では、何人かの路上生活者が流された。それがあってから、余計に「住み」辛くもなった。暑いと思えば、暑い。生暖かくても、風を感じることだけに集中すれば、熱を冷ましてくれる。乾の体力は、急激に低下していた。動かず、じっとしていれば、収入がなくなる。早朝のうちに集められるだけの空き缶を集め、それを換金する。最近は、グラム単価も落ちてきた。
捨てたはずの乾の中の、乾という人間。我森と出会ってから、それを取り戻しつつあったので、彼は絶えず苦しんでいた。気持ちだけが、かつての自分を取り戻しても、状況は何も変わらないのだ。髪も、髭も、爪の間の垢も、ぼろぼろの服装も。かき集めた小銭をレジ台に並べ、嫌そうな顔をする店員に、肉まんを注文をする。お客様に対する態度として、なっていないと憤慨しては、「お客として、なっていないのか」と思い止まる。そんなときは、より強く「現状」を憂えてしまうのだ。もう一度、人生を一からやり直してみようか。あの頃のように、家を借りて、暖かい屋根の下で暮らす生活に戻ろうか。戻りたいなとは思うが、出来ない。もう、出来ない。乾は、年末特有の忙しなさの中、街を徘徊しながらため息をつくのだった。
年も明け、寒さが増した。特に、この冬は都内でも積雪が多かった。雪が降り始めるまでの間、その数時間が一番辛い。身を切り、気持ちを縮こまらせ、動きを止めてしまう。そんな寒さに耐えながらも、いつものルートで空き缶を集め、雑誌を売り歩いていた。
我森を見たのも、そんな寒い日の夜だった。屋根や歩道橋の上には、真っ白い雪が積もっていた。乾は、夜に眠ることは出来ない。昼の間、屋根のある場所で睡眠を取り、夜はただひたすらに耐えるという生活を送っていた。何時かは分からないが、真夜中だった。二車線道路の反対側、歩いている我森の姿が目に入った。点滅信号の横断歩道。我森は、一度も立ち止まらず、右肘を押さえたまま渡ってきた。乾は、脳の命令よりも先に、足が、我森の方へと勝手に進んでいった。彼は、怪我をしているようだった。服はびしょ濡れだった。髪の毛も濡れていた。そして泥まみれだった。敗れた兵士。我森はそのとき、自分の体験したことを口に出すのもはばかれるほどに、心身に深い傷を負った兵士のようだった。
「我森、くん」
乾は、前からうつむいたまま、トボトボ歩いてくる我森に声をかけた。横断歩道の真ん中だった。顔をゆっくりあげた我森は、「ああ」と呟くように、右肘を押さえていた左手を小さく挙げた。
「どうしたんだ?」
乾は小走りで近づき、支えようとした。用務員室へ飛び込んできて、転んだから絆創膏を貸してくれと言っていた我森。保健室へ行けと行っても、あそこは変な臭いがするから嫌だと言っていた我森。抱きかかえるように椅子に座らせ、すりむいた膝に唾を塗ってやった、あのときの二人。乾が近づき、仰ぎ見るように肩を支えると、我森は、全体重を乾に預けてきた。身長差は、今や十センチではきかない。我森の大きな身体を支えきれず、二人は横断歩道の真ん中で倒れ込んだ。
「おい、おい。しっかりしないか」
乾の声は、我森に届いていない。眠るように目を閉じ、全ての動きを止めているかのようだった。その顔を抱え上げ、自分の膝の上にのせ、何度か頬を叩いてみた。ひどく寒い日だった。車が一台、クラクションを大きく響かせながら、通り過ぎていった。
「おい。おい。」
何度も呼びかけるが、我森は動かなかった。仕方なく、乾は全身の力をこめて我森を背中に負ぶった。我森の足は地面についている。引きずるように、二人は歩道へ移動した。誰もいないバス停。屋根は一応あるが、ベンチにもうっすらと雪が積もっていた。乾は、雪を払いのけ、そこに我森を座らせた。小さく、呼吸をしている。そして、大きな身体を丸めて、寒そうにしている。
乾は、いつも引いているキャリーバックの中から、布製のものを全て引っ張り出した。それらを我森にかけてやった。その上から、自分の着ていたコートもかけた。「ありがとう」。小さな声でつぶやいた我森は、まだ目をあけない。目を閉じ、縮こまる我森。それを見て、乾は「いったい、この子は、どんな暮らしをしているんだろう」と思った。西新宿で出会ったあの日から、この子は猛スピードで生きているような気がする。まだ、あどけなさの残る顔なのに、こんなに若いというのに。乾は、我森を眺めながら、漠然とした悲しみを感じた。
ズボンの内側にくくりつけている小袋から、乾は小銭を取り出した。十円玉と百円玉。背後にあった自動販売機で、乾はホットの缶コーヒーを買った。それを我森の頬へつけた。ピクッと反応した我森が、やっと目を開け、ありがとう、と言った。
「ワシは、行くぞ。大丈夫か?」
小さく頷いた我森が、慌ててコートを取り、乾に返そうとする。ゴミ箱から拾い集めたバスタオルやフリースも、一枚一枚畳んで、乾のバックの中へ戻していく。「いいよ、いいよ。寒いから、着て帰りなさい」。乾がそう言っても、我森はバックの中へ全てを返し、そして、真っ直ぐ立ったかと思うと、深々と頭を下げた。頭を下げたまま、我森はしばらく動かなかった。乾は、そんな我森の背中をニ、三度叩いて、キャリーバックを引いて歩いていった。
我森は泣いていた。乾は、それを見て見ぬふりをしていた。ぼろぼろになって、負けた兵士。あの子は、いったい何と戦っているんだろう。そう思いながら、乾は歩き続けた。
我森が乾に会いに来たのは、その雪の夜の翌週だった。一週間しか経っていないのに、深夜のバス停で眺めた顔とはまるで違った。とても華やかだった。しかし、乾には、それがツクリモノだということが分かっていた。
「こないだは、ありがとうございました」
我森は、右手にスーパーの袋を提げていた。その中には、弁当と缶コーヒーと、カイロが入っていた。しゃがみ込んだ我森が、一つひとつ取り出して「こういうの、いりますよね?」と乾に差し出す。あのときの、つまみ菓子も二袋入っていた。
「礼のつもりか?」
「まあ、はい」
「なら、いらん。別に礼は必要ない」
イヒヒと笑う我森の顔が、乾には忘れられない。その我森の横で、金をもらっていた虫唾が走るような自分も、忘れられない。
「やっぱり、金ですか?」
我森が見上げながら言った。笑っている、ように乾には思えた。
「なら、百二十円」
乾が我森を見下ろしながら言う。
「え?」
「そんなに、この間のことをなかったことにしたいなら、コーヒー代だけ払え。それで全部チャラだ」
ポケットに手を突っ込む我森。百二十円を取り出して乾に渡した。それを受け取ると、乾はさっさと歩き去っていった。背後でシャカシャカと音がする。我森は、取り出した弁当やカイロを袋に詰めていた。そして、乾の後を追ってきた。何も言わず、乾の二メートルほど後ろを歩く我森。乾は、いつもの寝床へと向かっていた。本来なら、もうとっくに眠っている時間だ。午後の、この数時間だけが、静かに眠れる。夕方のラッシュになれば、落ち着いて眠ることが出来ない公共の場所。そこで、眠りに落ちる現状の自分。やっぱり金なのかと思われてしまう自分自身。
乾はイライラしていた。弱いところを見せたくなくて、強がりで自分をツクってきた我森が、わざわざ会いに来たのは分かる。あの頃と変わっていない。同じクラスの誰かが欠席すれば、給食で余ったプリンをこっそり持ち出し、用務員室まで持ってきた我森。「これ、この間の、お茶漬けのお礼です」と無邪気に見える顔で笑っていた。この子は、何かをされたら、同等の何かで返そうとする。ただ無条件に、何かを与えられることを知らない。それは、この子の強みでもあり、決定的な弱点でもある。乾は、あの頃もそんな風に思っていたのだ。後ろをついてくる我森が、あの子供だった頃の顔と重なってくる。
「生きてきて、楽しかったですか?」
背後で、我森が尋ねるでもなく、まるで独り言のようにつぶやいた。
この時間帯は、人通りも車もあるの上。川幅の広い川が、寒そうに流れていた。
「この先、ずっと生き続けて、なんか楽しいのかな」
乾は足を止め振り返った。慌てて、我森も立ち止まった。
「楽しいときも、そうでないときもある。これまでだって、そうだっただろ?」
乾は、口に出した自分の言葉を頭の中で繰り返し、「楽しい」と言ってやれないことを悔やんだ。悔やんだが、それが現実だとも思った。過ぎてしまえばあっという間の六十年だったが、色々あった。絶望の淵に立って、このまま続く「人生」に押しつぶされそうになったことも一度や二度ではない。そんなときに見る「先」が、とてつもなく巨大で、想像も及ばず、足はすくみ、もう楽になってしまいと思う気持ちも分かる。
あの日、深夜のバス停で見た我森の顔は、巨大な「これから」に押しつぶされているようだった。だからといって、乾にはどうすることも出来ない。今更、もう、我森にのために何も出来ない。自分はただ、一人で、潔く、全てを捨てたのだ。そして、残りの限られた時間をやり過ごしていくしかないのだ。
「自信ないな、俺。体力もたないよ」
力なく、我森がまたつぶやいた。橋の欄干にもたれながら、空を仰いでいた。
「俺、二十一で、もうすぐ二になるけど、これまで生きてきた三倍でしょ。六十まで、まだ四十年近くあるんですよ。無理だなあ。疲れちゃいましたよ」
乾は、自分が二十一のときのことを考えていた。教職に就く。それだけを考えていた。そのために、毎日を費やしていた。迷いは、なかった。その頃の自分が、もし、我森のように迷ってしまうと、答えはきっと見つけにくいだろうな、とも思った。選択肢が多すぎるのだ。これから先が長い分、それが長すぎて漠然としている分、一度立ち止まって迷うと、抜け出すのは難しい。
「結婚しろ」
欄干に腰掛けて、足をブラブラさせる我森に向かって、乾が言うと、
「結婚?」
我森の声は裏返り、その後で彼は笑った。
「ない、ない、ない。俺、好きになられることはあっても、好きになれないですもん」
カラカラ吹く風にのって、我森の言葉が乾を通り過ぎていく。
結婚せずに、独りで生きてきた自分の人生を乾は思う。あのとき、自分がもし結婚していたら、どうだっただろう。その方が幸せだったのだろうか。それは、どちらを選択しても同じことだ。だけど、独りの今、誰かと一緒だったらと仮定すると、やはり、結婚すればよかったな、と思うことの方が多い。
乾は三十歳のとき、結婚の式場まで抑え、あとは式を待つだけという女性がいた。学生の頃から付き合い、ほぼ十年の交際を経ての決断だった。父も母もなくなり、家族の大黒柱のようになっていた乾は、弟や妹の結婚の方を優先させた。当時の彼女は、それをじっと待ってくれた。そんな彼女との将来は、想像通りにはいかなかった。乾の知らない間に、式場はキャンセルされ、彼女は突然連絡を絶ち、そして、完全にいなくなった。在日韓国人。まだまだそんな差別的な目があった時代のことだ。別に、それまで隠していた訳ではない。かといって、進んで言った訳でもない。いや、一度も言ったことはなかった。そんな会話にすらならなかったからだ。「娘のわがままです。今回の結婚は白紙にさせてください。こんな勝手をお許しください」。彼女の母親から手紙が来た。その手紙を持って彼女の家に行ったが、会えなかった。彼女が出した答えに、乾は諦めきれないものを持ったまま、今まで生きてきたのかも知れない。彼は、全力で、彼女を愛していたからだ。
「まだ、出会ってないだけだろ」
乾は言った。我森は、まだ空を見ていた。
「誰かのために、自分の力を使え。誰かと一緒にいたら、もちろん支えにもなってくれるが、何より、理由になるんだよ」
乾は、我森に向けて話ながら、あの日、自分が学校を去ったことを思い返していた。
「何かに自分が納得いかなかったとき、何かに強く疑問がわいて、その回答を渋々受け入れなくてはならないとき。そんなときに、飛び出してしまわないための理由に、家族はなってくれるはずだ」
乾の言葉は、我森には届かない。それは、乾が一番よく分かっていた。二十一歳の若者に、ひとりで造り上げてきたこの子の人生に、誰かは、必要ない。その誰かと手を取り合っていく術を、これまで一度も教わっていないのだ。
「よくわかんないですけど、俺みたいな人間は、子供とかつくっちゃいけないんですよ」
「終わりに、したいのか?」
乾の言葉に、我森が反応した。ブラブラさせた足を止め、乾を見つめた。
「終わらせて、くれますか?」
乾は近づき、我森に手を差し出した。
その手で、この橋から突き落とすことも、手を取って「こちら」に戻すこともできる。しかし、どちらにしても、我森は我森の「先」を自分で、歩まなければならない。
「落としてください、ここから」
我森の顔には、色も形も、影も温度もなかった。
「この手をとって、こちらに来るのも、このまま落ちていくのも、みんな、おまえさん次第だよ」
その瞬間、我森は笑っていなかった。スーッと身体を反らせ、真っ逆さまに、落ちていった。
乾は目を閉じていた。自分の中にあった、一番醜い姿が、我森と一緒に落ちていくようにも思えた。ぽしゃん。それは、まるで小石を投げ入れたかのような、とても小さい音だった。橋の高さ、そして極寒の冬。我森が「これから」の前で立ち止まり、それを拒否して落ちていったことを、乾は一つの答えとして受け止めた。我森が落ちていく。その様子を周りにいた数人の通行人が見ていた。周りに人が居たことに気づいた乾の、その差し出された右手は、硬直したように動かなかった。「警察~、だれか警察呼んで~」。ベビーカーを引いた若い女性が、金切り声で叫んだ。その声に驚いた乾は、全速力でその橋を渡り、そして、とにかく遠くへと走った。
それから乾は、宛てもなく走り、中央線に乗って、ここ大月にたどり着いた。それからは、我森のことを思い出すよりも、まずは「生活」することで精一杯だった。
都会に比べると、ここには、何処へ行っても何もなかった。あったとしても、何処に何があるか、分からなかった。テリトリーや暗黙のルールのようなものが、存在するのか否か。そして何より、どうやってお金を作り出せば良いのか。とにかく、これまで簡単に手に入った「情報」が、ここには欠如していた。二日、三日とさまよい、もう、どうにもならないと諦めるようになってから、乾は、我森のことを考えるようになった。
あのとき、橋の上から落下することを選んだ我森の、まだ二十歳そこそこの人生を思う。もう、自分もここで終わろうか。乾はそんなことを思い始めていた。リセットボタンを押しても、コンピューターが壊れて、強制終了すら出来ない人生。用務員として働いていた晩年、乾はコンピューターで備品管理や戸締まりをしていた。しかし、不慣れな分、よく強制終了させていた。我森が終わらせたいと思っていたこれからの四十年。強制終了できず、ただ固まったまま動かない、コンピューターの画面。
電気屋の二台並んだテレビ。隣のテレビでまた、裸の我森の写真が映し出されていた。これから、自分には何年残っているのだろう。乾は、ぼんやりと考えた。我森が恐れたほど、この先は莫大ではない。「まだ、いける」。乾は声に出して言ってみた。口に出してしまえば本当になる。そして、商店街を抜け、少し離れた所にある寺の境内へと入っていった。
昨日、その寺の住職が、乾に持ちかけた話の返事をするためだった。ボランティアだが、動けなくなった一人暮らしのご老人の身の回りのお世話をしてくれないか。ささやかながら、食事はその寺から提供されるといっていた。もし希望すれば、住職の家の空いている部屋で寝てもらってもかまわないという好条件だった。着るものは、なんとかある。そこに寝るところと食事付きの話だ。乾は、自分の体が動くことに感謝した。「私なんかに、出来ますかね?」と、乾は聞いたが、その住職は「わかりません」と言ったきりだった。なぜ、私に声をかけてくれたのかを訊ねると、他にも何人か、同じようにお願いしている人がいると、住職は言っていた。
境内には、梅かと見間違うほど早く咲く、桜の木があった。「春に咲く、新しい何か」。乾はまた、声に出して言ってみる。おかしな時期に、狂い咲いたところで、かまわないじゃないか。六十になる。今のところ、何も無い。ゼロからのスタートだ。狂い咲きの桜の後ろを春が追いかけてくるイメージ。乾は、明日から、ある老人の身の回りの世話をすることにした。
身柄を拘束された我森は、夜明けすぐ、香川から東京へと移送された。
あの時、誰もいないはずの露天風呂で、フラッシュが光った。つまりは、辺りに張り込んでいた記者かカメラマンがいたということになる。秋山は、ずっとそれを考えていた。露天風呂という、外の目をシャットアウトした場所で、なぜ狙えたのか。どうも引っかかった。ネタになるものを敏感に盗み取って、骨の髄までしゃぶりとる連中。長年、刑事なんて仕事をしてくると、嫌と言うほど見てきた。そんな奴らの嗅覚に、我森がはまってしまったのか。
秋山は、あの現場に居た二人の若い刑事の一人、今、助手席に座る大介を見た。ちょうど一通りのことを覚えた気になって、舞い上がる年頃だ。二十七歳。一度突っ走ったら、止めるのは難しい。また勢い余って、隙ができたか。今回の容疑者確保の情報が、大介の何らかの行動から漏れてしまったような気がしてならない。大介の倍以上生きていて、秋山は今、思うのだ。今回の事件が、間違えた方向で弾けなければいいのだが。
東京に身柄を移されてから、我森の聴取が本格的に始まった。驚くほどスムーズだった。田所マミを突き飛ばし、床に倒れた被害者を置いて逃走したこと。そして、その被害者が死んだこと。それらの事実をあっさり認め、それに見合うだけの罰を望む姿勢だった。金銭的なやりとりや、被害者が精神的に不安定であったこと。そして、別れを告げることになった経緯まで、我森はマミとのことを全て話した。注目されたのは、被害者の死因となった刺し傷が、我森によるものかどうか。それ次第だと、秋山は思っていた。ただ、この先にはもう、大きなヤマはないだろうと、ホッとしてもいた。ワイドショーで、我森のあの写真が、全国に晒されるまでは。
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