第3話:綿貫の我森プレイ

綿貫の我森プレイ


 ずっと檻にいた猿が、急に放たれると、ビクビクしてたじろぐというのは嘘だと思った。本能は、もっと奥深い所で、自分をスパークさせる。それは、押さえつけていたスポンジのボールが、ポンと跳ねる感じに似ている。もし仮に、今、綿貫の目の前でテレビを見ているあの青年の部屋に行き、お金を渡せば、彼もまた、いいなりになるのだろうか。綿貫は、そんなことを考えていた。

 冴えないオヤジ。そんなことは、誰ひとりとして綿貫本人には言わないが、風呂上がり、全身鏡に映る自分のたるんだ身体を見る度に、誰よりも感じていた。父親が一代で築き上げた会社は、東南アジアにも進出する企業となった。低価格で高品質。今ではどこでも使うこの強みを四十年も前から唱えてきた会社だ。バブル期、もっと利益を多くして、楽をしようと思えばできたが、あくまでも定価を下げて販売した。下着専門メーカー。大手に比べ、ネーミングだけでは売れない。勝負できたのは、徹底した高品質の追求と、可能な限りの原価調整だった。綿貫は、そんな一家の長男として生まれた。

 一人っ子だった彼は、ゆくゆくは会社を継ぐ二代目。小さい頃から、彼の周りの者は、誰も綿貫を批判しなかった。裸だと言われないまま育った綿貫は、中学に上がるまで、自分が一番だと、本気で思っていた。中学時代、自分の顔や背格好が、イケテナイと知ると、そのことが怒りに変わった。その怒りを抑え、なんとか安定が保てたのは、幼稚園の頃から家庭教師を付けていただけあって、勉強が出来たことだ。

父親の方針で、中学までは公立校に通ったが、仮に中学受験をしていたら、十分に難関御三家と言われる学校に合格できただろう。行けたのに、行かせてもらえなかった。だから、ここは、自分の居るべき場所ではない。中学時代の綿貫は、一言で言うと、誰からも相手にされない存在だった。女子からはもちろん、クラスの目立つ男子にも、相手にされなかった。唯一、小学生の頃から小遣いをたくさんもらっていた綿貫が、お菓子やゲームで釣った子分のような友達が何人かいるだけ。三年間、帰宅部。それが、多感な時期の彼が居た場所だった。

 自分に足りないのは、容姿だけだと思い込んでいた綿貫。彼のひねた性格や、虚言癖は、誰とも深く接せず、ぶつかることもないまま、ひどくなる一方だった。当時、自分のイケテナイ現実を避け、綿貫が逃げ込んだのが空想だった。彼は、ずっと空想日記を付けていた。その中では、クラスの女子と付き合い、学年で一番人気のサッカー部の男子と親友だった。その男子は、綿貫が困ったときには、何でも力になってくれた。もう一つの空想の中学時代。この先の綿貫の根幹のような部分を形成したのは、現実ではなく、むしろ空想の日々だった。

 都内の難関私立高校に合格したとき、家族や親戚、そして会社の幹部達は、これで一安心だと思った。二代目もしっかりと育っていると、その合格だけで思いこんでいた。しかし、父親だけは違った。そんな父親の態度に不満を持つ母親は、自分のしてきた教育が間違いではなかったと、息子の合格を喜んで止まなかった。入学式の帰り道。親子三人で、銀座の料亭で食事をした。そのとき、綿貫の父親は、「将来、おまえは何がしたいんだ」と聞いた。「分からない」と応えた息子に、「まぁ、ゆっくり考えて見つけろ」と言った。それを聞いていた母親が、「孝ちゃんは、会社を継ぐんだから」と笑ったが、父親が、そのときはっきりと「もし、うちの会社に入りたいんだったら、自分の力で一から頑張らないと駄目だ」と念を押した。

 父親は、自分の息子には、社長としてのカリスマ性のような、引っ張っていく人間力がないと判断していた。そして、その力を経験の上から身につけていくだけの器もない、と。父親の言葉を綿貫はずっと覚えていた。認められていない。高校生になったばかりの彼には、非常に厳しい言葉(現実)だった。頑張らなければならない。それは、綿貫にとって何を意味するのか。導き出した答えはこうだった。しっかり勉強して、いい大学に入ること。高校三年間、彼は勉強に明け暮れた。それにすがったと言う方が正しいのかも知れない。運動は出来ない、カラオケにいっても歌えない、女子と喋れない、親友が出来ない。そんな彼に残された唯一の道。いやそれは武器と言っても良かった。必死になって勉強して、いい大学に入ることだった。

 綿貫は、第一志望の東大に合格した。合格してすぐ、父親が死んだ。

 母体の大きくなっていた父親の会社は、いくつかの派閥が存在し、派閥争いの末、それまで副社長を務めていた四十二歳の若い男が社長になった。幸い、その新社長は、創業家の派閥で、綿貫が社長になるまでの繋ぎだと言ってくれた。父親が倒れ、他界するまでの一ヶ月。それまでの無理が祟ったのか、あまりにもあっけない最期だった。肝臓ガン。転移が進んでおり、手の施しようがなかった。何でも我慢してしまう父親の性格が、裏目に出る結果となった。

 今でも考えることがある。父親は、本当のところどう思っていたのだろう。病床で、見舞いに行った綿貫に、父親はこう言ったのだ。

「孝一、おまえ、他人が自分をどう見てるか、気になるか?」

「別に気にならないよ。自分は自分だし。他人なんて関係ないもん」

 そんな風に応えた綿貫に、父親はしばらく何も言わなかった。ただ目を閉じて、じっとしていた。そんな父親を綿貫もじっと眺めていた。

「これからは、」

 ゆっくりとした口調で父親が言った。

「それじゃ、駄目だ」

 綿貫が聞いた父親の最期の言葉。これからは、他人がどう見ているかなんて関係ない。それじゃ、駄目。綿貫は、大学を卒業して父親の会社に入り、部長、専務となってからも、この言葉の真意をとらえられずにいた。

 綿貫の中では、大学に入ることが第一関門だった。それが終わると、次は結婚。その次は子供を作って、家族を養う。そうして、自分は会社を継ぐ。何歳までに、何をするという縛りは、彼が生きていく上で重要な指標となっていた。それを順調にこなしていく自分に、やっと自信が持てた。それが裏付けとなって、自己を確立していたともいえる。結婚は見合いだった。父親が亡くなってから、母親の息子へ注ぐ愛情は、もはや常軌を逸する状態と言ってもよかった。自分の息子が一番。それが母親の生きる糧となっていた。見合い話は、軽く二十回を越えた。綿貫が選ぶ前に、母親の審査が入り、それに合格すると、実際に綿貫と会う。後は、相手が綿貫を気に入るかどうかという問題だけだ。家柄、素行、学歴。綿貫の母親は、そんな肩書きと、うわべで見えてくる相手の印象を重視した。二十五歳までに結婚する。綿貫には、その期限が迫っていた。社会経験は、最低三年は必要。それを終えてから結婚するのがよい。母親が昔、ぽろっと言った一言が、彼の結婚リミットだった。

 結婚相手は、短大を卒業したばかりの二十一歳の女性。綿貫の母親が、お稽古で通っていた茶道教室の先生の知り合いの娘だった。彼女の実家は、石川県で呉服問屋をしていた。大人しく、男性の三歩うしろを歩いて付いてくるタイプだった。綿貫は、写真を見た段階から気に入っており、後は相手がどう思うか。さすがの母親も、相手の気持ちまではコントロールできない。もちろん、猛烈なるプッシュとプロモーションは欠かさなかったが、相手がOKをしてくれたとき、綿貫よりも喜んだのが母親だった。

 結婚生活は、綿貫の実家で、母親と妻の三人暮らしでスタートした。綿貫にとって最も重要なことは、二年以内に子供を作ることだった。二十七歳。綿貫の父親が、自分を産んだ年齢だった。それまでには「絶対」子供をつくる。会社から帰り、妻と母親の三人で夕食をとり、「ほら」と目配せする母親の合図で、妻と二人で寝室に入る。そして、まるで取扱説明書通りのセックスをした。黄色と赤と白の線をここに繋いで、それからこのボタンを押す。そしたら映るテレビのような射精。あの頃の妻が、そんな生活をどう考えていたのか、綿貫は、考えることすらなかった。

 結婚して一年が過ぎ、妻が妊娠した。あとは男の子か、女の子か。妊娠の知らせを聞いた母親の喜びようは、凄まじかった。生産者と「それ」を流通させる者が別々であるかのように、作る人であった綿貫は、子供のことにほぼノータッチだった。彼なりに、自分の子供の将来を考え、子育ての本を買い、妊娠中の妻のフォローをしようと躍起になっていたが、それらは全て、綿貫の母親が担った。母親に任せっきりにした彼の「弱さ」に、妻が失望してしまったことは、言うまでもないが、綿貫自身がそれに気付いていなかった。子供の名前だけは、自分達で決めたい。そう思っていたが、それすら叶わず、母親が勝手に頼んだ、寺の僧侶からもらった。男の子だと分かってから、家中に青と緑を基調にしたベビー用品が溢れるようになった。

 子供が育つハイペースな成長は、綿貫の出世とリンクするかのようだった。彼は、トントン拍子に出世していった。離乳食から始まり、おむつを取り替えてもらい、自分の希望や意見は言葉にもならない泣き声に近く。それらをすべて母親のように一から十まで拾い上げて形にする周りの人たち。彼らは、綿貫を社長にしようと奮闘する幹部たちだった。よちよち歩きを始めた綿貫が、壁に落書きをすれば叱ることもある。思った以上にお利口だったときは、よしよしと頭を撫でられる。そんな会社での綿貫は、完全にお飾りにすぎなかった。一時ほどの勢いは失ったが、業績は好調に推移していた。超抗菌仕上げの男性用下着が二年前にヒットし、知名度も徐々に上がっていた。

 綿貫の息子が小学校に上がる頃、彼は専務になり、会社全体のことを考えるようになっていた。折しも、デフレが到来し、安くて良いモノは当たり前。その中から選ばれる時代だった。夏は涼しく、冬は温かい。そんな下着に求められる機能をどれだけ低価格で提供出来るか。何もできない、おぼっちゃん専務と陰口をたたかれながらも、綿貫なりに発言を繰り返した。彼の頭の中には、お勉強してきた様々な方程式があった。しかし、どれも現実離れしており、教科書通りを熱弁するにすぎなかった。それでも、周りは綿貫に気を遣った。というのも、先代の死後、社長に就いていた男にはリーダーシップがなく、その男が社長で居られる唯一の理由は、綿貫までの繋ぎであるということだけだったからだ。創業家という看板を背負って、綿貫が社長になるまでのリリーフ。何とか、綿貫を社長に仕上げなくてはいけない。会社の中で、今でも一番大きな派閥は、初代社長である綿貫の父親を慕うメンバーだった。もはや綿貫個人がどうという問題ではない、初代の息子という「血」だけが重要だったのだ。こんな古い体質の社風に、意見のあわない社員達は会社を離れ、出世する者はみな従順だった。

 息子が中学生になる頃、綿貫にも社長就任の話が、ちらほら出始めた。役員会議で全てが決まる。票集めのために綿貫は走り回った。彼自信の人間性で一票を投じる者は一人もいない。それを誰よりも痛感していた綿貫は、だからこそ地位が欲しかった。飾りでも何でも構わない。とにかくあの社長室の、一番大きな椅子に座りたかった。四十一歳。初めての挑戦は圧倒的多数で否決された。綿貫に社長の器はまだない、という結論だった。一般社員には、自分たちの会社の社長が誰になるかというより、台湾の会社に吸収合併されるのではないかという噂の方が気になっていた。いっそのこと、合併でもされた方が、将来性があると考える社員たちも中にはいた。山梨県で生まれた中小企業よりも、今やロンドンやニューヨークに出店する企業の傘下に入った方がいい。綿貫は、そんなもやもやした月日を暮らしていた。

 会社のもやもやを引きずったまま、家に帰ると、自分の映し鏡のような息子がいる。口ばかりが達者で、妙に冷めている。運動会では最下位を走る息子。学芸会では小道具係の息子。担任の先生からは、息子に関する具体的な例は挙がらず、いつも「よくやってます、このままで大丈夫です」という抽象的なことしか言ってもらえない。目立って良くも悪くもない存在。薄い、存在。そんな息子を見ていると歯痒かった。が、小さい頃から、あまり密に接することのなかった息子にとって、父親である綿貫の言葉は、中学生になってからでは、届かなかった。

 四年。最初に社長就任を否決されてから、毎年のように話は持ち上がるが、実現しなかった。とはいえ、他に有力な候補もいなかった。業績は横ばいのまま。この不景気の中、それは大したものだという守りの姿勢が社内の雰囲気を占領していた。「僕は、こう思いますけど」。綿貫の意見は、いつもこんな感じだった。自分はこう思うけど、それで行こうというわけではありません。強く出て叩かれるのが怖かったのだ。いや、もうそれが面倒だったという方が正しいのかも知れない。

 家に帰れば、母親の意見が最終意見として尊重され、綿貫の意見は通らない。息子がどんどん自分のようになっていく。仲間の輪から離れて、自分一人だけで完結する事に逃げ込んでいる。人と意見を交わして、その中で自分の意見が通せる力。その能力を無視したまま成長していく息子に、綿貫は危惧を抱いていた。「他人がどう見ているのか」。そんな時は、父親の言葉を思い出す。今の綿貫は、どう見られているのだろうか。ある日、綿貫は、父親と同じ質問を息子に投げかけてみた。同時に、息子が応えるだろう言葉に、自分はちゃんと解答を与えようとも思った。父親みたいに、「それじゃ駄目だ」と言い残して死んでしまうのではなく、ちゃんと、「他人の中の自分」を意識する大切さと、その中で「自分を保っていく強さ」を。それが、一番大切であることを教えようと思った。

「おまえ、他人が自分をどう見てるか、気になるか?」

 息子は、いつものように冷めた顔で、綿貫の質問を聞いていた。しばらく、無視していた息子にもう一度呼びかけると、

「じゃ、父さんはどう見てるの? ボクのこと」と、逆に聞いてきた。

 綿貫は言葉に詰まった。そして、何も言えなくなってしまった。ここではっきり言ってしまっていいのか。息子は傷付くだろうか。そもそも自分から見る息子は、本当の姿なのだろうか。そんなことを考えていると、

「ボクは、父さんみたいには、ならないよ」

 口いっぱいに頬張ったトンカツ。ニキビの目立ち始めた顔。そして、「自分みたいにはならない」といった自分の映し鏡。もう、何もかもどうでもよくなった。勝手にしてくれ、とも思った。

 毎日は、穏やかに過ぎていった。どうでもよくなった穏やかさの中に、綿貫は埋もれていった。静観し傍観し我慢せず受け入れた。何かを発信しても届く先はない。受信して何かを思っても、それが通るわけではない。空しかったが、どうすることも出来なかった。どうしようとも思わなかった。

 母親が死んだ後のことを綿貫は想像する。おばあちゃん子の息子は、精神的な支柱を失って、ふさぎこむのだろうか。何でも母親に相談して決める妻は、右往左往するのだろうか。もしそうなれば、自分は、今よりももっと存在を認められるのだろうか。リビングの光景を思い浮かべ、高校生になった息子が「あれが欲しい」とおねだりをする。妻は、「お父さんに聞いて、いい、って言ったら買ってもいいわよ」と答える。息子は自分に懇願する。そして自分は考える。息子にとってそれが必要かどうか。そして、息子にとって、ここで買ってやるのがいいか、我慢させるのがいいか。それは、ずっと先に出る答えでも構わない。考えて、考えて、自分なりの答えを出す。すると、妻も息子もそれに従う。そんな、夕食時の光景を空想して、少し気持ちが楽になる。

 社長になった自分も空想する。自分の元に上がってくるトップレベルの情報を分析し、先を読み決断する。それに向かって、社員が一丸となって取り組む。いい結果も悪い結果も出る。それをすべて自分の責任として抱え込む。耳の痛いこともダイレクトに言う。それが数年後、いい結果を生む意見だと自信を持って告げられる。自分の裁量を認める周りが居て、自分は周りを信じ切って任せられる。会社は、自分なしでも回って行くが、最後の最後は自分の決断が必要になるという形。綿貫は、社員から本音で話される自分を妄想するのだった。

 もちろん、現実は違う。そんな現実から逃避するノート。中学生の時に記していたそれと同じだ。あれから二十五年以上が経ち、決まった通り歩いてきて、家族も築いて、専務になった今でさえ、あの頃と、何も変わらない自分がいた。目を開けるのも嫌になるほどの現実だった。だから彼は、息子のことも家族のことも、会社のことだって、すべて眺めることにした。傍観するだけの自分の存在感をまた、あの頃のように一人だけの世界に持ち込んでいった。

 綿貫は、家からも会社からも離れた上野原に、マンションを借りた。それは、彼が自由に使える金で、内緒に契約したものだった。2DKの一部屋と、地下の多目的スペースを一部屋。彼は、その部屋を自分の城にするようになった。

 何もかも思い通りにならない現実から逃げ込む、具現化させた空想の世界。そう、中学生の頃から変わった点があるとすれば、想像しかできなかったものを金で買い揃えられることだった。その城には、今でも付き合いのある小学校時代からの同級生を呼んだ。お菓子やゲームで釣った従順な者たちだ。地元の優良企業の専務である綿貫は、彼らにとってはお客様だった。その友人とも呼べないだろう彼らは、地元山梨で小さな下請け企業にいる。大得意先の専務。昔のように、ちゃん付けで呼び合うが、そこには社会のシステムが歴然と存在していた。

 ゴルフ、麻雀、飲んでは遊び、遊んでは飲む。綿貫が「集合」のメールを入れると素直に集まってくる「仲間」が、唯一、彼の思い通りになる存在だった。しばらくは、そんな楽園のようなマンションの一室で、城主気分を味わっていた。しかし、綿貫には会社での決定権がない。彼らもうすうす気づいてはいたが、話せば話すほど、それが確証を得るように思えた。次第に、休日だろうが、深夜だろうが集まってきた「仲間」が、何かと理由をつけて断るようになった。それと同時に、綿貫自身の中にも、妙に冷めた感情が涌いてきた。結局、半年ほどで「仲間」を集めるのを止めた彼は、また、どんどん内に籠もるようになった。内に籠もっては、誰にも邪魔されない世界、自分の思い通りになる世界を築きあげていった。


 我森は、そんな綿貫の道具の一つになった。

 綿貫が東京へ出張に出て、普段なら日帰りするところを新宿のホテルに一泊した日。そこで女性を買った。綿貫にとっては珍しいことではない。妻との肉体関係が希薄になり始めた頃から、彼はよく外で女性を買っていた。そして、関係を持ち、金を渡す。いつものようにぐっすりと眠ろうとしたとき、急激に襲ってきた怒り。それが何かは、彼にも分からない。何に対しての怒りなのか、そして、なぜ、その新宿のホテルの一室なのか。もやもやした日常から逃避した先で感じるこの気持ちに、綿貫は押しつぶされそうになった。彼は枕を叩いた。掛け布団をぐしゃぐしゃに丸め、それに顔を埋めて大声で叫んだ。わあああああああ。おあああああああ。その日、綿貫は一睡も出来なかった。

 翌日。午前中に会議のあった綿貫は、始発で山科まで帰ろうと朝5時にホテルをチェックアウトした。どうせ眠れないのだと起き上がったときの、あの不快にどんより重い気持ちのままロビーへ降りていった。チェックアウトを済ませ、ホテルを出ようとすると、一人の青年がホテルの警備員ともめていた。どうも、ロビーのソファーで眠っていたようだだった。何の気なしにその様子を見ていた綿貫は、青年を眺めながら、舌打ちした。いい若いもんが何をやってるんだ、と思った。奥へ連れて行かれようとする青年。それを見ながら、綿貫は高校時代や大学時代を思い出していた。自分とは違うジンシュだったその男の姿。女子からの人気。嫌味なほど爽やかな顔。楽しそうな、毎日。それを謳歌する典型通りの青春。それができる、容姿。

「あの」

 綿貫は、声をかけていた。

「知り合いです、私の」

 ビックリしてこちらを向く青年に、綿貫はうっすら微笑みかけた。

「先生~」

 青年は察したように、警備員の腕を振り払う。

「遅いじゃないですか。先生が来ないから、俺、どっか連れて行かれそうになりましたよ」

「すまん、すまん。あ、どうもすいません。うちの生徒なんです、こいつ。私が責任をもって連れて帰りますから。どうもご迷惑をおかけしました」

 綿貫が頭を下げると、渋々、警備員は早く連れて帰ってくれというかのように頷いた。二人でホテルを出ると、その青年は「ありがとうございました」と綿貫に頭をさげた。「助かりました」とにっこり笑った。その顔を見ていると、綿貫の中に妙な感情がわいた。

「何してたんだ、あそこで」

「いや、急にお客さんが豹変して、部屋から追い出されたんです。だから、始発までロビーにいようと思ってたら、いつの間にか寝てしまって」

「お客?」

「はい」

「君は、あれか。そういう商売をしてるのか」

「それだけじゃないですけど、色々やってます」

 いい若いもんが何をしてるんだ、と思う反面、綿貫の中に、その青年の、子犬のような表情が、なんだか良く映った。

「コーヒーでも、飲んでいくか?」

「あ、はい。でも、もう始発があるので帰れますけど」

「まぁ、いいじゃないか。助けてやったんだし、コーヒーぐらいつきあえよ」

 そして、二十四時間営業のコーヒーチェーン店に入り、綿貫は、我森に色々と質問した。その一つひとつの答え方がよかった。一見すれば、学生時代に綿貫のことを全く相手にしなかったような「イケ」てる容姿なのに、その綿貫に、一生懸命答えようとしてくる。

「何か、スポーツでもしてたのか?」

「はい。水泳をずっとしてました。結構、速かったんですけど、高校を卒業してから全然泳いでないですね」

「いくつだ、君」

「二十一です」

「若いな~。彼女とか、いるんだろ?」

「まぁ、一応」

「そっか、いいなぁ。楽しい盛りだよ」

「そうですかね。よく分からないです。歳とったら、そう思うのかも知れませんけど、今は、全然、楽しくなんてないです」

「そう言うもんだよ。私も、そうだったからね」

 綿貫は、なんだか妙な感じがした。目の前に座っている我森と、自分は同じ境遇の、つまり青春真っ最中の日々を同じレベルで謳歌してきたような錯覚。それが、とにかく心地よかった。

「ここに、来ないか、今晩」

 綿貫は上野原に内緒で借りているマンションの住所を渡した。

「え?」

「だから、私も、君を買いたいんだよ」

 戸惑っている様子だった。我森にしてみれば、冴えない普通のおっさんが、普通に説教をする感覚で自分をここに連れてきたと思っていたからだ。一秒でも早く、こんな面倒くさい場から離れたいとも思っていた。それが、客になる。思ってもいない展開だった。

「はい。わかりました。何時に行けばいいですか?」

「そうだな、八時半でどうだ?」

「はい。伺います」

 伺います。我森のこの言葉が、綿貫には可笑しかった。

「伺ってくれ。あ、そうだ。私は男を買ったことがないから、相場がわからないんだけど、いくら出せばいい?」

「内容によります」

「そうか。内容か。三万でどうだ? 一緒にいるだけでいい。話をするだけでいいよ。まだ君には分からないだろうが、この歳になると、若者と話をするっていうのも、たまには楽しいもんなんだよ」

「わかりました」

 

 我森がそのマンションに着いたのは、九時を過ぎてからだった。上野原なんて遠い所まで中央線に乗ったのは初めてだった。綿貫は、すでにかなり酔っていた。我森にとって、男の客は初めてではなかった。大体、普段はクソが付くほどまじめで、そういう場になると急変することが多い。綿貫も、おそらくその類だろうと思っていた。

「すいません、道に迷ってしまって」

「ああ、構わないよ」

「失礼します」

 靴をそろえて、我森は部屋の中へ入った。広いリビングの奥に、もう一つ部屋がある。そこそこの金持ちなのかも知れないと、我森はふんだ。

「何か、飲むか?」

「あ、はい。同じものをいただいていいですか?」

 芋焼酎をグラスに注ぎ、綿貫は我森に渡す。腹が減っているという我森のために、ピザを注文した。綿貫は、自分の高校時代や大学時代の話、それも空想ノートにつけていた自分の嘘の過去を我森に話した。我森は、気持ちいいほどタイミング良く頷き、感心し、尊敬の眼差しを向けてきた。酔いが回ったこともあるが、綿貫の気分は高揚して、笑いが込み上げて仕方なかった。自分の言ったことが、すべて本当になる空間。かつて、自分が憎むように憧れた容姿の青年が、うんうんと頷いている。

「よく食うな」

「あ、はい。腹ペコだったんで」

「大学生か?」

「いや、行ってません」

「じゃ、ずっとアルバイトか?」

「はい」

 空になったピザのケースを台所に運ぶ我森。焼酎がなくなれば、絶妙のタイミングで継ぎ足す我森。綿貫は、何とも心地いい時間を過ごした。

「もういいよ」

「え?」

「だから。明日もアルバイト、あるんだろ。早く帰って寝なさい」

「あ、はい」

 綿貫は、なんだか自分の息子のようにも思えてきた。じめじめしたところが一切ない、真っ青な晴天のような我森。見ていると、綿貫まで気持ちが晴れるようだった。グラスとフォークと小皿を洗って、我森が手を拭きながらリビングに戻ってくる。すらっとした手足が、何をしてても様になった。

「あ、これ、今日の分」

 綿貫は財布から一万円札を三枚抜き出し、我森に渡した。

「あ、いやいや、一枚でいいです。何もしてないし、ピザとか焼酎とかご馳走になったので」

「いいよ、いいよ。約束だから。その代わり、また明日も同じ時間に来てくれないか」

「はい。それじゃ、失礼します」

 帰って行く我森を見ていると、学校へ行く息子の、それも空想していた理想の息子の後ろ姿のように思えた。

 翌日、我森は約束通りの時間に来た。昨日よりも綿貫には身近に感じられた。また、昨日のように話し、酒を飲んだ。寿司が食べたくなった綿貫は、近所の寿司屋まで我森に取りに行かせた。「はい」「わかりました」「ぼくもそう思います」。そんな我森の一言一言が綿貫の心の中に蓄積されていく。寿司をさげて帰ってきた我森が、小皿をテーブルに並べ、箸をセットする。綿貫が食べるまで、我森は決して手を付けない。それが分かって、綿貫はじらしてみせる。ずっとこちらを伺い、何か言えば俊敏に対応する我森。それらがすべて、綿貫の理想通りだった。一つ、寿司をとって、綿貫は我森の口の方へ近づけた。こちらを見ながら、我森がそれを食べた。

「旨いか?」

「はい」

 綿貫も、一つ、頬張った。食べていい。そう言ってから、我森は箸を割って、小皿に一つ、寿司をとった。それを見ていると、綿貫の中に突如、突き上げるようにして沸いた言葉、

「箸で食うな」

 それを強い調子で、言い放っていた。

 我森は、「はい」と言って、箸を置いた。そして、右手で寿司を掴もうとする。

「手でも食うな」

 そういうと、綿貫は我森の小皿をとり、床に置いた。

「両手を後ろに組んで、口だけで食え。犬みたいにワンワン吠えながら、食ってみろ」

「はい」

 我森は、少しも動じることなく、言われた通りにする。両膝をつき、背中を丸め、舌を使って寿司を持ち上げた。それから、顔を二三度振って、口の中に入れ、それを食べた。飲み込んでから、「ワンワン」と、言った。

 綿貫は大声で笑った。「そうだ、そうだ。よくやった」と、手を叩いて笑い続けた。

「どうだ、旨いか?」

「はい」

「はいじゃない、ワン、だ」

「ワン」

「ハハハハハ」

 その晩、我森は綿貫の命令をすべて素直に遂行した。腰まで下げたジーパンから、パンツが見えている我森の格好。でかい身体を小さく丸めて寿司を食う格好。ワンワン吠える、我森。寿司を手にとった綿貫が上に大きく放り投げる。「落とさずに食えよ。落としたら罰として腕立て百回だ」。ハハハ。上手いぞ、上手いぞ。さ、ほれ、今度は高いぞ~。おー、ナイスキャッチ。さぁ、次はどうかな。何度も繰り返し、我森は腕立てを四百回やった。最後は、腕立てする我森の背中に綿貫が乗って、お尻をパンパン叩きながらやらせた。徐々にエスカレートしていく自分の気持ちに、歯止めがかからなくなり、結局、自分の口に含んだ寿司をくちゃくちゃ噛んだあと床に吐き出し、それを我森に手を使わず食わせていた。綿貫は、たまらなく興奮した。命令通りに動く我森が、可愛くてしようがなかった。この二時間から三時間にわたる我森とのプレイ。綿貫は、最後に財布から金を出すときになって、初めて現実に戻ってくる。一日目、三万円だった金額は二日目は五万円になった。それも、我森は表情一つ変えず、まるでコンビニのレジの店員のように「昨日は本当なら一万だったんですが、今日の内容だと、五万円です」と言ってのけた。綿貫は、それからも、毎日のように五万円レベルの内容で、我森とのプレイを楽しんだ。命令して、従順な我森がいて、最後金を払って終わる。その空想を具現化したプレイが、現実の中で錯覚を起こすようになったのは、一ヶ月ほど経ってからだ。

 綿貫が家庭で息子に話しかける。それは時々命令するようにもなっていた。しかし実際の息子は、聞く耳を持たない。無視、に近い反応だ。会社でも同じだった。気分が高まって発言した自分の言葉は、ことごとく無視される。これが現実。我森はバーチャルだ。それを頭の中で理解しているが、気持ちのバランスが狂ってしまうのだった。

 我森とのプレイにも、そんなバランスの崩れが現れ始めた。それまでマンションの一室だったプレイの場所が、地下に借りていたスペースに変わった。そこには、綿貫の趣味である鉄道模型が、莫大な費用をつぎ込んで組み立てられていた。以前なら、それを眺めているだけで十分だった。しかし、我森を覚えた今、暢気に走る模型の世界では空想すらできない。実際に、この手で触れて、そして目の前で一人の人間が命じた通りに動くのだ。それ以上の仮想はないだろう。地下室に持ち込んだのは、古いベットと縛り付ける用の十字架のような板。インターネットは本当に便利だ。何から何までクリック一つでそろった。専務室に置かれた自分のパソコンが、閲覧記録など取られてはいないだろうと、安心仕切っていた綿貫は、毎日のようにプレイルームの設備を買いそろえていった。命令通りに動く我森が、ただかわいいと思っていた時期を過ぎると、言うことを聞かない息子や、会社の連中に対する鬱憤を我森ではらすようになった。フラッシュバックするような高校時代のイケてるクラスメイト。総スカンしていた奴ら。そんなすべての恨み。我森をパンツ一枚にさせ、十字架に縛り付け、鞭で打った。パンツ一枚の我森は、綿貫もほれぼれするほどの肉体だった。それまで、一度も男を見てキレイなどと思ったことない。しかし、我森の裸体は、ギリシャ彫刻に近かった。そんな美しい肉体を叩きつける。痛みに耐える顔を見ると、綿貫はどんどん興奮の度合いを増していった。やがて蝋燭も垂らした、空気銃で我森を的に撃ちもした。ぎゅ~っと絞り出す綿貫の中の感情。一度に払う金額が、十万円にまでつり上がるまで、三ヶ月と経たなかった。

 やがて、二時間から三時間だったプレイの時間が延びてゆき、明け方まで拘束することも珍しくなくなった。檻を部屋の中に設置して、そこで我森を飼っているプレイにもはまった。知らないうちに眠ってしまい、目覚めた綿貫が慌てて檻の鍵を開け、我森に金を渡し、家に戻り、服を着替えて出社する。そんな日もあった。

綿貫の母親は、誰よりも早く、そんな彼の異変を察知した。探偵を雇い、浮気調査を開始した時にはもう、綿貫には、我森なしでは精神のバランスがとれなくなっていた。

 G。綿貫は、我森との連絡を社内のパソコンから行っていた。我森を示すGへの送信が目立って多い。探偵は、上野原のマンションなど、とっくに突き止めていた。張り込んでも、女性らしき影はない。気にかかるのはGという存在。それが誰なのか。探偵を雇っても、決定的な証拠がなかなか掴めない母親は、ある日、綿貫に直接聞いてみることにした。一時の気の迷いなら、今のうちに目覚めさせないといけない。

「孝一、ちょっと、こっち来なさい」

 綿貫が朝帰りをして、シャワーを浴び、ネクタイをしめているときだった。

「なんだよ。時間、ないんだよ」

「毎晩、毎晩、あんたどこ行ってるの」

「どこでもいいだろ。色々あるんだよ。接待したり、されたり」

「嘘おっしゃい」

「なんだよ、嘘って」

 母親に対する口調が、まるで反抗期の少年のようになっていることを綿貫は自分で気付いていない。それは、我森と接する内に、自分があたかもイケてる高校生にでもなったかのような錯覚がもたらすものかも知れなかった。現実との境界線で、自制仕切れないこの頃の綿貫。母親は、ここがもう限界だと思っていた。小さい頃から言い訳はしないし、反抗期もなかった。いつも、自分の言うことはちゃんと聞いていた。もちろん、もういい大人だ。息子だって、高校生になっている。そんな父親になった息子を叱るわけにもいかない。

 綿貫の母親は、彼女なりに、我慢してきた結果だった。時々、母親は思っていた。こんな大人になったのは、自分の育て方のせいではないか、と。会社での評判、父親としての不甲斐なさ。綿貫の母親は、誰よりも自分の息子が歯痒かったのだ。そんな息子の朝帰りをこのまま放っておいていいのだろうか。母親にも分かっていた。綿貫がそういう男ではないことが。しかし、お金を持ってしまった男だ。余所の女に、溺れることも十分に考えられた。

「あんたね。もういい加減にしておかないと、母さんもかばいきれないわよ」

「かばうってなんだよ、かばうって。もう子供じゃないだからさ」

「だから厄介なんじゃないの。あんたが子供なら、叱りつけて言うことをきかせるわよ。もういい大人だから、これまで母さんも、我慢してたんじゃないの」

「とにかく分かった。今晩、ゆっくり聞くからさ。ね、じゃあね、行ってくるよ」

 キッチンで朝食の後片付けをしている妻は、何も言わなかった。その後ろ姿を見ると、綿貫の母親は、不憫でしかたなくなる。

「孝一」

 玄関に座って、靴を履く綿貫の背中に、母親が言った。

「Gって、誰なの」

 綿貫の動きが止まった。それを見た母親が、やっぱり、と思った。

「なんだよ、それ」

「Gっていう人と、あんた、浮気しているの?」

 母親は少し声を落として、綿貫に聞いた。

「浮気?」

 綿貫は声を裏返して大声で驚いた。その表情を見ると、まんざら嘘をついているようにも思えない。母親は、ますますわからなくなった。

「もしかして、俺の会社のパソコン、見たの?」

「見られたら困るような人なの?」

「だから、誰が、いつ、俺のパソコン、見たんだよ」

 綿貫の表情は真剣だった。何かを必死で隠そうとする、子(窮)ネズミの目だった。

「そんなことは今、問題じゃないの。

Gって誰なのか。母さん、それを聞いてるのよ」

「友達だよ」

「毎日、毎日、メールして、上野原で待ち合わせる、お友達なの?」

 母親は少し呆れた口調で追い詰めた。

「あれだよ。鉄道のさ、ほら、サークルみたいなもんだよ。心配ないからさ。じゃ、行ってくるよ」

 綿貫は慌てるように家を飛び出した。上野原のマンションは、もうばれている。会社のパソコンも監視されている。何か、変なことは書いてなかったか。綿貫は頭をフル回転させる。大丈夫だ。我森に辿り着く証拠は、何もない。駄目だ。地下室にあるものを始末しないといけない。また、模型をセットして、疑われないようにしなければ。自分の息子が男を部屋に連れ込んで、SMみたいなことをしていると知ったら、母親は倒れるんじゃないか。とにかく、一日も早く、すべてを「元通り」にしなければ。

 綿貫はその日、上野原のマンションの地下室から、全ての設備を撤去した。まったく付き合いのない県外の業者に依頼して、夜中のうちに作業を終わらせた。会社のパソコンからも、メールデータ自体を消去した。ホストコンピューターに残されたデータも、パスワードを知っている綿貫には、消去することができた。そして、我森との連絡を絶った。

 母親にばれたこと。それが綿貫の中では大事件だった。四十歳も後半に近づき、高校生の息子の父親になっても、結局、母親は怖い存在のままだ。そんな自分を情けないと思う暇もないほど、とにかく、ばれないための証拠隠滅に躍起になった。母親から問い詰められたあの日から、綿貫は家に帰るようになった。あまりにも退屈で、自分の存在感が薄いという「悩み」は、もっと窮地に立たされた今では。何の問題も感じない。とにかく、元通りになること。綿貫の願いはそれだけだった。

 一週間後。すべての証拠を消して、我森との日々などユメであったかのように暮らしていた綿貫に、我森から連絡が入った。会社のパソコンに、Gより送信が来たのだ。

「最近、連絡がありませんが、今日あたり、どうですか」

 一回、二十万円だ。我森は、そんなおいしい関係を断ち切ってしまうのは、もったいないと思っていた。綿貫という男が、最後の最後には正気に戻る、ある意味利口で、ビビリな男だということが分かっていた。檻の中に閉じこめ、そのまま監禁し続けることもできるが、綿貫は、そんなことまでは絶対にしない。

 ぜんぶ自分の思い通り。若い身体も、こいつの人生さえも思い通りだと思っていた綿貫が、逆に、我森に「監禁」された状態になってゆく。Gのメールは、無視しても、無視しても、会社のパソコンに入ってきた。もしかして、と綿貫は空想する。我森がもし、被害届を出したとしたら、どうなるだろう。身体には無数の跡が残っている。いや、けれど大丈夫だ。それが自分と繋がる証拠はすべて消し去った。もう、我森と自分を結びつけるものはない。まさか、傷跡から綿貫のDNAが採取される訳でもないだろう。大丈夫、大丈夫。念じるように、綿貫は、Gからのメールを無視し続けた。一週間、二週間。毎日来るメールが止むことはなかった。恐怖に耐えながらも無視を続けた。こちらから一回でもコンタクトを取ると、また繋がりが残る。とにかく諦めてくれ、もう許してくれ。綿貫は、そう願っていた。

 さらに二週間が過ぎた月曜日。いつものように、綿貫は誰よりも早く出社して、ホストコンピューターからGのメールを消そうとして……、手が止まった。この日、パソコンに送られてきたのは、縛られた我森が、顔を歪めている写真だったのだ。しまった、と綿貫は声に出して言う。何度か、携帯電話でプレイの様子を撮っていた。それはもちろん綿貫の携帯電話で撮っていたので、そんな写真はとっくに消し去ったが、何度か、我森を繋ぎ止めるために彼にも送っていたのだ。それを逆に、使われてしまった。そして次の瞬間、息が止まりそうになった。縛られた我森の背後、細長い姿見鏡が立てかけてあり、そこに、綿貫が、鞭を持ってほくそ笑みながら写っていたのだ。綿貫の身体が震えた。もう駄目だ、と思った。このまま、我森が全てを暴露すれば、自分はもう生きていけない。家にも、会社にも居られなくなる。どうしようか、どうすればいいのか。

 綿貫は、我森を呼び出した。

 場所は、初めて出会った新宿のホテルだった。彼は、以前と何ら変わった様子もなく、あいかわらず爽やかな好青年として現れた。

「どこか、出張でもいかれてたんですか?」

「いや、ずっといたよ」

「そうなんですか。ぜんぜん連絡がなかったから、心配になってました。綿貫さん、ぼくに鞭いれないと、精神がおかしくなるっておっしゃっていたので、これだけ日にちがあくと、大丈夫かな、って」

 綿貫は思っていた。これは演技か? 芝居か? 自分を追い込む若者が、何でこんなに普通でいられるんだ。今となっては、我森との日々に、精神がおかしくなりそうだというのに。

「部屋、行こうか」

「はい」

 最後まで素直な返事だ。しかし、今は、それが恐怖に感じる。この若者はいったい、何を考えているんだろうか。部屋に入ると、何も言わないうちから、我森は上の服を脱ぎ始めた。それは、我森に命じた綿貫の言葉通りのことだ。地下室に場所を変えてしばらく経った頃から、綿貫は、自分の前では何も着るな、と命じていたのだ。一言も発することなく、ジーパンも脱ぎ始める我森。彼の身体には、無数の傷が、生々しく残っていた。半田ごてを押さえつけた左腰の傷は、特にひどかった。こいつのこの身体と、あの写真があれば、もうどんな言い訳も通じない。綿貫は、ブルブルと震え始めた。震える綿貫の前で、我森は指示待ちの体勢で直立不動だ。

「シャワーを浴びて来い」

 綿貫は、とにかく頭の中を整理するために、我森に命じた。はい。素直にシャワーを浴び始める我森。部屋の中に、水の弾ける音が響いた。冷静に、冷静に。綿貫は小さな声でそういいながら、用意してきた睡眠薬を鞄から取り出す。そして、それを大きめの注射器に入れた。何度もそのプレイはしていた。注射器にいれた水を、我森の鼻の穴に突っ込んで注入する。そのプレイを装って、我森を眠らせよう。綿貫には、我森という証拠を消すことしか頭になかった。

 一方の我森は、これを最後にしようと思っていた。最後の請求額は百万円。これだけ請求すれば、綿貫の方から手を引いていくだろう。その前に、口止めしなければならない。有耶無耶のうちに関係を絶てば、どこでどう我森の身に災いが降ってくるか知れない。しっかりと、お互いに確認し合って、全てのことを整理しなければ、後々面倒なことになる。シャワーを浴びながら、我森は交渉の順序をシュミレーションしていた。

 シャワーから出た我森をベットに寝かせ、綿貫は、首をしめた。真っ赤になっていく我森の顔。もっと強く、もっと強く。このまま殺してしまおうかと思った寸前、ふと我に返った綿貫は、手を離した。首を絞められても、抵抗しない我森。我森には分かっているのだ。この男に人は殺せない。綿貫は、用意した注射器を我森の口の中に入れる。睡眠薬の量は、通常の倍以上にした。その注射器を飲み込んでいく我森。綿貫の手が震えている。それを感じ取った我森が、慌てて注射器を口から吐き出しが、遅かった。にらみつける我森。綿貫は、まだ震えている。

「すまん、すまん、すまん。頼む、お願いだ。お願いだから、消えてくれ。もう、苦しめないでくれ」

 綿貫は涙声だった。その声が、段々遠くなってゆき、我森は眠ってしまった。

 完全に眠った我森。綿貫は、用意してきた大きなバックに我森を詰め、台車で駐車場までポーターに運ばせた。心臓が飛び出るほどのドキドキした鼓動。毎回スイートルームに泊まる綿貫はホテルにとってはVIPだ。少々の「おかしな点」には、目をつぶってくれるはずだ。綿貫は、我森を入れたバックをトランクに乗せ、とにかく人気の無い所へ車を走らせた。ぶるぶると震える手。我森はもう、眠りから覚めないかも知れない。いや、もし覚めれば、我森がどんな反逆に出るか分からない。最後、注射器を吐き出してから、カッと睨んだあの顔。あれは、決して自分を許さない顔だ。とにかく、もう、殺すしかない。

 この日、都内でも積雪のあった、寒い夜だった。綿貫は、人気のない山道で車を止め、トランクから我森を取り出した。そして、枯れ木ばかりが林立する山の中へ、我森を捨てた。死んだだろう。いや、もしかすると、すでに死んでいたかも知れない。いつか、バックが発見されて、死体が見つかったとき、ホテルだ。ホテルの従業員は、自分と我森が一緒だった所を見ている可能性が高い。どうしよう、何とか口封じをしなければ。そんな風に考えながら、家路を急いだ。これ以上、朝帰りをすると、母親はもう許さないだろう。とにかく、後のことはゆっくり考えよう。綿貫が家に戻ったのは、もう深夜だった。家族は誰一人として、起きておらず、綿貫を待つ者は、一人もいなかった。

 それから数日間。いつ我森の死体が発見されるかと、ドキドキしながら過ごした。しかし、そんなニュースはなかった。

 ホテルに電話をして、警察から何か連絡があったか、かなり不自然だったが問い合わせてみたりもした。特になかったという。いつ、来る。俺は、どうなる。緊張の糸が張り詰めたまま、綿貫は暮らしていた。会社にいても、家にいても、どこかキョロキョロしてしまうような毎日。

 関西出張の話が出て、それを断ったはずが、手違いで先方に伝わっておらず、綿貫は滋賀県へ出張することになった。出張中、何か動きがあったらどうしようか。留守中に警察が家に来て、母親に色々と聞いたら、どうなるんだろう。とにかく、家を空けるなら最小限にしなければ。一泊の予定で出かけた出張も、交渉がなかなかまとまらず、三日目となった朝。綿貫は、テレビで我森逮捕のニュースを見たのだった。


 死んだ、と思い込んでいた我森が生きていた。

 しかも、どこかで殺人を犯し、捕まったのだ。証拠写真があるのか。いや、考えてみれば、あんな写真、いくらでも合成できる。殺人犯の差し出した証拠写真など、合成だと言えばそれで済むだろう。目の前に広がる琵琶湖が、今朝はきれいだった。こんなちっぽけな簡易の食事スペースからの、贅沢な眺めだ。なかなか折り合えなかった交渉も、今日には決着するように思えた。綿貫は、とにかく、早く済まして、帰りたかった。


 乾(いぬい)武男は、商店街の電気屋のテレビで、何度も映し出される我森の姿を見ていた。ただただ、可哀想な子だと思った。周りがどんどん勝手に、我森を造り上げていった。そのイメージに、この子はまた、合わそうとしてしまうのだろう。死ぬことも許されずにるのかと思うと、知らないうちに、乾の頬には涙が伝っていた。

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