第2話 : 宏美の我森プレイ
宏美の我森プレイ
今は、やってくる春のことが考えられる。もうすぐ桜が咲く。夫とは、毎年四月の最初の土曜日に、必ず飛鳥山公園へ花見に出かける。それだけは、結婚してからずっと続けている。お互いの誕生日も、クリスマスも、年始の帰省も、結婚生活が長くなればなるほど、おざなりになったが、お花見だけは毎年行っている。今年も、行こう。宏美は、そう思った。今頃、夫は私の捜索願を出しているかもしれない。それとも、「温泉にでも行ってきます、すぐ戻ります」というメモを信じて、帰りを待っているのだろうか。おそらく、メモすら見ていないだろう。それでもいい、と思った。このまま、同じように春を迎えよう。
家を空けたことは、結婚生活十一年で初めてだった。結婚生活に満足はしていなかったが、妻が無断で家を一晩空けることは、どうしても出来なかった。食卓には、いつも有機野菜を並べ、ベランダに花々の咲く季節が一年で一番楽しみだった結婚当初。宏美の思い描いた通りの幸せな毎日だった。満足のいく、専業主婦ライフを送っていた。
周りの同僚が立て続けに結婚していった二十八歳の時。宏美も、三十(歳)までには結婚したいと思うようになっていた。しかし実際は、事務の仕事に追われ、定時を待って会社を出ると、ヨガ教室に、フラメンコ、ワインにチーズと、いくつもの習い事で宏美の「時間割」は埋まっていた。一番大事で、一番欲していた、出会いのチャンスをどんどん潰していたのだ。「習い事もいいけどさ、たまには飲み会ぐらい参加した方がいいよ」。その頃の宏美が、よく言われていたことだ。
大学時代に付き合っていた彼氏と別れ、働き始めてからの宏美は、ずっと独りだった。自分の生活の中に、どうしても彼氏が欲しいか、別に独りで十分楽しいではないか。それを繰り返しているばかりだった。楽しいときに、楽しいままの暮らしをしていると、それが楽しくなくなったときには、手遅れになる。長い歴史の中で、人は結婚して、子供をつくってきた。そんな歴史には、それが一番いいという裏付けがあるはずで「キリンもさ、昔は首が長くなかったんだって。高い所にしか餌がなくて、それを食べられたキリンだけが生き残ったらしいの。それはね、きっと食べようとしたものだけが、生き残ったんだと思うわけ。結婚は別にしなくてもいい、っていう生き方は、それに見合うだけの何かがないと、苦しいよ。餌がないんだもん。だからさ、ヒロミも食べようとしなさいよ、結婚相手」。友人の一人が、そんなことを熱く語ったりもした。
夫とは、そんな時期に出会った。
宏美の会社の出入り業者だった夫は、同僚の間でも噂のイケメンだった。「どこがよ~」と批判がましく言う女に限って、彼を頻繁に飲み会へ誘っていた。夫は、話が面白い。着ているスーツのセンスが、うちの会社の男性陣とは違ってとてもある。笑顔が爽やかな童顔。年齢は、宏美よりも三つ上だったが、決してそうは見えないルックスだった。良い評判が飛び交う中で、宏美も、ちょっと気になっていた。
宏美が初めて参加した飲み会の帰り道。夫は、まるで高校生のようなストレートな告白をしてきた。「はい」。気付いたら、宏美も恥ずかしくなるほどの即答で、OKしていた。なぜ夫が自分を選んだのか。確かに、その日の飲み会では楽しく話した。しかし、これといって特別なことを話した訳ではない。ずっと前から気になっていたから。夫はそう言った。宏美は、その言葉に舞い上がってもいた。
付き合い始めた二人は、休日になるとデートを重ねた。二人の時間は、楽しかった。夫は、まじめな性格だということは分かっていたが、ちょうどいい案配のいい加減さで、カチカチじゃない所もたまらなくよかった。三十一歳の男性が経験するだろうことは、一通りこなしてきた感じもした。ギャンブルはしない。女性を買う店にも行かない。スイーツやフラワーショップにも、嫌々ではなく付き添ってくれる。そういう所も、宏美は好きだった。とはいえ、何でもかんでもこちらの提案を鵜呑みにするだけではない。デートの行き先をリードしてくれるときもあった。記念日も、忘れない。
そんな夫との日々に、宏美はどっぷりとはまっていた。会社を辞めたい。春先になるといつも、宏美は愚痴った。そんな彼女の言葉をまじめに受け取った夫と、交際を始めて半年ほどで結婚した。宏美は、結婚して退職した。
なんだか順調すぎて怖くなるぐらい幸せな五月末付けの寿退職。何もかもがうまくいき過ぎて、滑っていくような感じが不安になる夜もあった。しかし、夫は次々に「やること」をこなしていくのだ。結婚の次は、すぐに家探しを始めた。そんな夫についていくうちに、新居も意外と早く決まった。夫の勤め先からは少し遠くなるが、手頃な値段で、最高の立地という条件が勝り、二人は蒲田で暮らし始めた。もうそれは、歯が浮くような甘い言葉と、白が基調の爽やかな暮らしだった。
夫の帰りを待って、シチューを煮込む主婦。買い出し、掃除、洗濯。疲れて帰ってくる夫の顔が、パ~っと明るくなる夕食の時間は、宏美の中で「やった」とガッツポーズを決めたくなるような瞬間でもあった。子供は、宏美が三十になるまでにつくればいいと思っていた。だから、結婚してからも二人は、それまでと同じような休日を過ごした。結婚式を挙げていないせいか、婚姻届を出して夫婦になったという記憶はあったが、実感が乏しかった。恋人同士の続きのような日常で、ふと変わった自分の名字を口に出したり、書いたりするとき、宏美は結婚したことを思い出すのだった。二人にとっては、そんな関係が心地よかった。
結婚して二年、宏美が三十歳になる頃、ある仕事の話が舞い込んだ。宏美と同じ大学に通っていた友人が、子供ができたのを機に会社を辞めることになったという。その後釜として、宏美に来て欲しいというものだった。英語が使えること。それが第一条件だけに、なかなか他に頼めないようだった。当時、宏美の中にも「外で働きたい」という欲求が高まっていたのは確かだ。近所の奥さん連中と外出しても、子供の話ばかりで、宏美にはついていけない。そうは言っても、ゆくゆく助かる情報になるからと、必死で興味を持って聞くのだが、それにも限界があった。夫に愚痴ると、何か習い事でもすれば? というばかりだった。働いていない自分が、暢気に習い事をするということが、宏美には後ろめたかった。自分の使うお金ぐらいは、自分で稼ぎたい。子供のいない夫婦という「家族」で、妻が夫に頼り切るのは申し訳ない。それは、宏美の中にある、意地といってもよかった。かつては自分も、新卒採用で、男性と同じだけ稼いできた宏美。そんな過去が、彼女をますます頑なにしていたのかも知れない。
宏美が、働きたいと言ったとき、夫が反対した大きな理由は子供だった。二人は、結婚当初から、宏美の三十という年齢をひとつの区切りにしていた。最近は、お互いがなかなか口に出せなくなっていたが、子供が欲しい気持ちは変わっていなかった。子供ができれば、外に働きに出るより、家にいたほうがいい。宏美もそう思っていた。しかし、夫と宏美の間で、肉体関係は一度もないセックスレス夫婦なのだ。もっというなら、夫と出会ってから、一度もセックスをしたことがなかった。そんな夫の、子供が欲しいという気持ちに、いまいち信憑性がなかったのも事実だ。
宏美は、自分の年齢を考え、子供を二人生むことを計算すると、夫の言うとおり、ここで働きに出るのではなく、子作りをしないと間に合わないと思った。夫も、今回のことで、何かが変わるかも知れない。真剣に、子供のことを考え始めるだろう。働きたいと言い出してから数日間、考えに考え、悩んだ挙げ句、宏美は、「やっぱり、働きに出るより、今は、赤ちゃんを産んで、しっかり育てる方がいいわよね」と告げた。
「そりゃ、そうだよ。もう二年もただ飯食わせてきたんだから、今更、何言ってんだよ」
宏美は、何も言い返すことが出来なかった。パチンと、スイッチが入ったような気がした。翌日には、その友人に連絡を入れ、働くことを決めた。夫には、事後報告の形となった。働き始めた会社は都心にあり、夫が出勤してすぐ、宏美も家を出るという暮らしが始まった。
働くことを決めて、それに反対を続け、それでも宏美が仕事を正式に決めてくると、夫は分かったような振りをするようになった。この時期の二人の溝は、それから何年も続く結婚生活を決定づける大きなものになった。
一年、二年と仕事を続けるうちに、歳を重ねる宏美。仕事は順調だった。会社の仲間もいい人たちばかりだし、宏美の英語力も重宝された。上司は、「柏本さんに子供でもできて、会社を休まれると、まわらなくなるな~」とまで言うようになっていた。「大丈夫ですよ。一年だけ産休をいただければ、戻ってきますから」と半分本気で言うこともあった。けれど、宏美はあくまでも、子供が欲しかった。そのためのタイムリミットに焦ってもいた。
夫との間に、もっと強い結びつきを望んでいた。宏美が帰宅し、夫がそれよりも数時間遅れて帰宅する。会話は、二人で晩酌する一時間ほどで、夫はさっさと風呂に入って寝てしまう。ちょうど、夫に役職が付き、部下ができ始めると、話す口調や内容までもが、段々と世間一般になっていくような気がした。宏美はそれが嫌だったが、仕方ないとも思っていた。義理チョコでも何個かチョコをもらってくる夫。三十後半には見えないルックス。まだまだ大丈夫じゃん、と、朝出かけていく夫を見て思うこともあった。
三十五歳。宏美は、この歳の誕生日を静かに迎えた。子供を産むことが頭から離れない宏美と、どこか、それはもう遠い過去の話という体の夫。六本木の高層階のイタリアンレストランで、夫は宏美の誕生日を祝ってくれた。夫の優しさが、どうも表面を撫でるだけのソフトタッチに思えて、それが不満ではあったが、やっぱり二人きりで外出すると楽しかった。仕事の話を続ける夫。それを聞きながら、同じようなシチュエーションで同じようにムカついたことを話す宏美。二人で「だろ?」「そうよね」と言い合いながら、ワイングラスを傾けた。「俺さ、最近、また体重が落ちてるんだよな。どっか悪いのかな?」「大丈夫じゃない。こないだの検診の結果も、問題なかったじゃない。だいたい、世間一般の三十八歳男子が、みんな太りすぎなのよ」「だよな」。ワハハと笑い会う二人に、これ以上何が必要なのだろうかと、宏美は思ったりもした。
三十五歳を過ぎて、それからの三年間はあっという間に過ぎた。夫との間で、肉体関係は、あいかわらず一度もなかった。これは驚くべき事なんだろうが、宏美の中では、とても自然で、何の不都合もなかった。もう、子供の事には整理がついていたし、夫の性欲の発散場所として、浮気やゲイを疑ったこともあったが、動物的本能を忘れた新型人類という週刊誌の特集記事にあったそれが、どうも夫にはしっくり来ると思っていた。
アラフォー。今の会社に働き始めて、八年が経とうとしていた。宏美のこなす業務範囲は広く、新人教育においては一手に引き受けていた。そのためか、ここ数年の新人女子社員からは、恐れられることも多く、煙たがられる存在にもなっていた。「結婚はしてるらしいけど、子供がいない、おばさん」。それは事実そのままだったが、だから「夫へ不満がある」「行き場を失った性欲をパワハラで発散している」などと、強引なつながりで拡散していく噂。それらを耳にする度に、宏美は、何とも言いようのない疎外感を感じるのだ。自分の時代というものがあるなら、終わったなと思うのだった。夫は、四十を過ぎて、課長になった。中間管理職にありがちなサンドイッチ状態で、休日は、ほとんどが接待続き。平日の夜も、最終電車にも乗れず、ほとんどがタクシー帰りだった。
夫のいない部屋。自分の居場所のない会社。
宏美にとって、この頃に通っていたバーが、唯一の居場所だった。会社帰りに立ち寄れて、独りになっても寂しくない場所。そのバーのマスターは、絵に描いたような髭面の初老で、なんとも落ち着く雰囲気を醸し出していた。通ううちに、常連客の顔も何人か覚えた。その常連客の中で、ナカザキという若い女性といつも一緒に来ている青年が、宏美は少し気になっていた。
その青年は、ちょっと前に、戦隊者のヒーロー役を演じていた若手俳優に似ている。青年は、ガモリというらしい。宏美には、特技とする癖があった。それは、周りの声を敏感に察知し、知らない間にそれを全部覚えてしまうことだ。その宏美の耳と頭が、二人の一部始終を解読し、解き明かしていった。婚約者よりも、ガモリのことが好きなナカザキは、婚約破棄を本気で考えている。どうも二人の間柄はそんなところだった。
一体どうなってるんだ近ごろの若者は、と宏美は思った。ちょうど、宏美の元にも中途採用で入ってきた二十四歳の女子社員がいた。その顔が真っ先に浮かんだ。大学を卒業して、一年半で会社を辞めたその女子社員は、性懲りもなく「がんばります、うふ」と、可愛さばかりをアピールしてうちの会社の人事を手玉に取った。人事部に、ヒトをみる目がないことは痛いほど分かっているが、それにしても使えなかった。そんな小娘を雇うぐらいなら、自分にその娘の給料分をくれたら、二人分しっかり働くのにと、宏美は思っていた。一年半前も、その女子社員はきっと、同じようにがんばります、うふ、と言って入社したに決まっている。その結果が、がんばれなかったのだ。なのに、どうして、それを信じてしまうのだろう。まぁ、いろいろあって、社会勉強もしただろう。同じことは繰り返さないよ、という上司の言葉ほど、「甘いな」と思わせるものはなかった。
ナカザキという女。なんとも、その駄目女子社員と重なって見える。婚約を破棄して、別の男にはしる。その行動自体に、一貫性がないではないか。出会う順番が違った。ナカザキは、本気でそんなことも言っていた。仮に順番が逆でも、ガモリという男を捨てて、違う方に「アンタ」なら走ってるよ。宏美は、そう考えながら、ま、別にいいけどという、完全他人事の人生の一部を勝手に楽しんでいた。それにしても、このガモリという男。ナカザキがトイレにいくと、速攻携帯電話を取り出して、何処かに頻繁に連絡を取っている。「こやつも相当な悪じゃの~」と、宏美は、心の中でニタニタしてみせるのだった。
ある日、珍しく定時で上がれた宏美は、いつものようにバーの扉を開いた。まだ時間が早かったので、ディナーメニューが表に出ていた。パスタなんかも出すんだ、と宏美は独りごちに言い、店内に入った。
カウンターが八席と、四人用のテーブルが二つの小さな店。客は、ナカザキとガモリだけだった。宏美は、この二人の会話にも飽きてきた頃だったので、もっと違う客が来ないもんかと、肘をついて、芋焼酎をロックで飲んでいた。独りで居る時間、全てを忘れて、全然違う世界を垣間見ては楽しんでいたのに、ここ最近は、会社のことを考えてしまう。その多くは、考えたところで正解のあるものではなく、結局、仕方がないと諦めるしかない類の問題が多かった。昔なら、夫に愚痴るように相談していたかもしれないが、それもできない。三十八歳の女が、心を許して話せる仲間も、社内には、実際問題として一人もいない。これが日本の会社の現状かと、芋焼酎のお代わりを頼んだ。
と。突然。驚くことに。ナカザキが、コップの水をガモリにぶっかけた。
近頃では、映画でもなかなか見ないような演出だ。いや、演出じゃない。ナカザキの本気の一撃だ。グラスの水をぶっかけた後、「さいってい!」の一言を残し、ナカザキは店を出て行った。宏美は、開いた口がふさがらない状態で、ガモリを見ていた。何、何、何、何がどうなって、そういう展開になったの! 心の中で、一番おもしろいシーンを見逃してしまった後悔が埋め尽くす。聞きたい。マスターに、ねぇねぇねぇ、どうなったの、二人、と映画のあらすじを聞く感覚で尋ねてみたい。が、もちろん、そんなことができる雰囲気ではない。
緩やかにカーブしたカウンターの両端に、我森と宏美の二人だけ。宏美から我森の顔が、ほぼ真正面に見えた。「水も滴る……」じゃない、と宏美の中で、ポッと熱いものが灯った。すいません。頭をぺこぺこ下げながら、マスターからタオルを受け取る我森。ずっと見ている宏美には、気付いていないようだった。宏美も、なんだか見てはいけないと思いつつも、「ガン見」癖が出たようで、ぼんやり凝視してしまった。
「あ、おかわり、いただけますか」
我森が、マスターに空いたグラスを渡そうとしたのと同時に、
「あの」と、宏美が、声をかけた。
「飲み直しませんか? 別のところで」と、我森を誘った。
マスターの方が驚いた顔で、宏美の方を振り返った。
「すいません、マスター。ちょっとお店変えますね」と言うと、我森の方へ近づき、彼の腕をとった。為されるままに立ち上がった我森。意外と背が高いな、と宏美は思った。いつも、座っている我森しか印象にない。座っていると、顔も小さいので、こんなに身長があるとは思わなかった。
店を出て、二人は宛もなく路地を歩き、そのまま突き当たりにきて、宏美は、ジャンプするようにして我森に抱きついた。彼は、しっかりと彼女を受け止めた。宏美の中で沸騰する何かが、我森の肉体をむさぼった。ブロック壁を背にして、我森は激しい宏美の全てを受け入れた。そのまま、彼らは路上で肉体関係をもった。映画のような現実の続きを二人は、最後まで演じきった。
その日を境に、宏美の中に大きな変化が芽生えた。それは、これまでの人生についての、整理整頓されすぎた、薄っぺらさへの後悔の念とでもいうべきものだった。毎日には、多少のいざこざもあったし、泣いたことも、笑ったこともあった。雨の日もあり、晴れの日もあり、だけど、一年は驚くほどに速く、あっという間に今の歳になった。決まって春夏秋冬のリズムが繰り返された。そこに生じる、絶望的なつまらなさ。善と悪の単調さ。宏美は思うのだ。自分の人生は、正解ばかりを選んでほぼ真っ直ぐ来た。それが、とても誇らしい反面、だから、絶望的につまらなかったのだ。
初めて会話をした男と、屋外でセックスをする。やっちゃいけないことは、やっちゃいけない。宏美は、小さい頃からそれを遵守してきた。駄目だと言われることをわざわざするのは、無駄に思えた。しかし、我森の肉体が、忘れられない。あの夜は、夢中だった。本能のままに、はみ出した。駄目なことを実際にやってみた。これまでは誰かがはみ出すのを見て、そこに自分を投影しているだけだったのに。完全に勢いだった。考えてはいなかった。だけど、その「踏み出した一歩」が、これほどまでにスリリングで、これほどまでに興奮するとは思ってもいなかった。宏美は、我森の全部に触れたかった。全てを舐め回したかった。もっと、もっと、もっと、我森を欲していた。
それからも、宏美はバーに通い続けた。我森とは、その度にプレイした。ナカザキという女は、あの日以来、一度も見ていない。あり得ないような状況で、あり得ないような現実を共有した者同士の続きは、想像していたよりも楽しかった。
連絡先の交換はしないこと。お互い、完全に「遊び」の関係を全うすること。宏美が出したこの条件に、我森は忠実だった。とても危険な香りのする関係。どこの誰かもはっきり分からない、完全に遊び人の、若いイケメン。それを知りながら、こちらも割り切って遊んでみせる大人の女性。宏美は、夫との間で欠如していた「もの」だけを我森との間で埋めようとした。それ以外、宏美には何の不満もないのだ。自分には、家庭がある。子供はいないが、夫がいて、マンションがあって、仕事がある。我森は、それらの盤石なベースの上にあるのだ。それでよかった。四十歳を目前にして、宏美の中には、信じられない性欲が涌いた。この十数年、満たされることのなかったものが、我森の肉体を借りて満たされていく。それは、宏美が思っていたよりも、はるかに重要なものであったし、なくてはならないものだった。それを無しに、彼女はこれまでを生きてきたのだ。
そんな関係も三ヶ月が過ぎたある日、宏美は、初めて我森にお金を渡した。
ちょうど、宏美の仕事が繁忙期に入り、いつものバーにも、なかなか顔が出せなくなった時期だった。二人は、お互いに連絡を取り合うことが出来ない。会うのは、会いたくなった方がバーへ行き、お互いに顔を合わせたときだけ。五日ぶりにバーに向かった宏美が扉を開けると、我森がすがるような眼差しで見てきた。
「俺、ずっと会いたくて、毎日来てたんっすよ。ひどいじゃないですか」
「ごめん、ごめん。こっちは、ちゃんと仕事してる大人なの。あんたみたいに、フラフラ時間をもてあましてる訳じゃないんだから」
「ひどい言い方だなぁ。ま、いいや。ね、早くいきましょ?」
我森に腕を引かれてバーを出るときから、宏美の身体の中は、熱いもので満たされていた。我森は傍目から見ると、影のあるいい男だ。年齢以上に大人びている。なのに、こうやって話し始めると、可哀想なペットに似て、とても可愛いのだ。宏美は、このかわいさに、いつも自分を見失いそうになる。安いラブホテルは嫌。それが、宏美が最近付け加えたもう一つの条件だった。さらに言うと、いつも割り勘だった。お金で繋がる関係は、宏美にとって生理的に嫌なのだ。「金がないから、今日ぐらいここでいいでしょ」という我森に、「じゃ、私が出すから」という事はたまにあったが、それは特別だ。大体、ちゃんとしたホテルの部屋をとって、二人でプレイをして、先に部屋を出るとき、宏美が我森に自分の分を渡す。そういう不倫関係を続けていた。
それが、この日は違った。うまく言えないが、宏美の方に隙があった。ちょうどその日、会社で上司に言われた一言が引き金だった。「柏本くんさ、それじゃ下がついてこないよ。ルールは大事だけど、柔軟さも必要だよ。ルールだけじゃ、いざと言うときに、力にもなってくれないからね」。つまりは、何なんだ、と首を傾げる宏美にも、多少、思い当たる節はあった。自分だけに特別な対応をしてくれた上司。部下にとっては、いざというとき、その上司のためならと力になってくれることもあるだろう。確かに、宏美のチームは、団結力の欠如した、なんともちぐはぐな形でしか仕事に取り組めなかった。ドライな関係を築きすぎたのかも知れない。宏美は柄にもなく、自分のやり方に疑問を抱き始めてもいた。事務職だけをこなしていた時期はとっくに過ぎ、宏美は、一つのチームを任されるマネージャーになっていた。そんな自分が、まとめることのできないバラバラのチーム。
「分かってるんだけど。こんなこと、ぜったいにしちゃ駄目だって、分かってるんだけどお願い、すぐ返すからさ、三万円、貸してください」
お互い裸のままベッドに座り、急に正座になった我森が、右手を突き出して深々と頭を下げた。その様子を見て、宏美は可笑しくなった。
「何に使うの」
自分が母親にでもなったかのようで、嫌だった。だけど、ちょっとだけ嬉しい気持ちもあった。
「だから、さっきから言ってんじゃん。うち、じいちゃんもばあちゃんも死んで、高校の時からずっとよくしてもらってる大家さんに、格安で家を貸してもらってんの。確かに安いけどさ、家賃がちょっとね。今月ピンチで」
「三万円もないの? 一応、働いてるんでしょう?」
「それはそうだけど。こんなこと言ってもしょうがないし、言いたくもないけど、どっかいっちゃったうちの両親が、借金つくってて、それ返すので、いっぱいなんだよね」
我森の家庭が複雑なことは、これまでにも聞いていた。若いのに、色々苦労が絶えないなと同情もしていた。それが仮に、全部作り話だとしても、宏美には何の害もない。元々、そうやってリスクのある関係を始めたのだ。しかし、実際に金銭の貸し借りを始めてしまうと、ゆくゆく面倒なことになるだろう。
我森はいい男だ。しかし、宏美にとっては、それだけだ。彼とこの先、将来をどうこうしようという対象ではない。だけれども仮に、だ。我森のいう話が本当だとしたら、ここで自分が払う三万円が、彼にとっては、とても重要になる。この先、いつまで続くか分からないこの関係を優位に保てるのではないか。「いざというときに力になってくれる」「ルールを越えた柔軟性」。宏美の中を巡る言葉。自分が優位に進めていく我森との関係。彼女は、頭の中で計算する。夫には、手取り二十五万円の給料だと伝えているが、実際は三十五万円。残った十万円も、積もり積もって、今では結構な額になっている。我森との関係で満たされているものを考えると、習い事で払う月謝よりも有意義かもしれない。
「三万円でいいの?」
「え?」
「だから。お金。必要なでしょ、その家賃分が」
「ほんとに! 助かります!」
にっこり笑った我森を、宏美はぎゅっと抱きしめた。
それからの二人の関係は、宏美が頭の中で思い描いていた方向とは真逆に進んでいった。我森の要求する金額が、徐々に増していったのだ。急激な増え方ではなかったが、気付けば、一回に十万円を渡すまでになっていた。宏美は、何度か拒んだことがある。拒んだ後は、拗ねたように我森は冷たくなり、それでも彼の身体を欲してしまう宏美は、またバーへ行き、我森を待つようになってしまう。我森も、プイッとふてくされてホテルの部屋を出たことなど、まるでなかったかのようにくっついてきて、二人でプレイする。
完全なる、アディクションだった。足りないものを補うだけだった我森との関係が、完全になくてはならないものとなり、宏美の身体はもう、我森なしではどうしようもなくなっていた。積み上げてきた八年に及ぶ貯金は、驚くほど早く崩壊した。たったの数ヶ月で百万を越える金額を我森に渡したことになる。振り返って冷静に考えると、怒りで煮えくりかえるが、我森を前にすると、特に使う宛てもないからいいか、と宏美は思ってしまうのだ。貯金が底をつき、家計の中からお金を持ち出すことが増え、それも限界で、ついに、宏美は、夫に内緒で夫婦の貯金にまで手を付け始めた。もう駄目、終わりにしないと、全部を失ってしまう。
今年に入って、我森の要求する額は一回につき数十万円にまで跳ね上がった。
お金が必要な我森の理由は色々あった。宏美も頭のどこかでは、嘘の作り話だと思っていた。思ってはいたが、お互いが裸になって貪り合い、しばらくして部屋の電気を付けると、我森の身体には無数の傷があるのだ。縄のようなもので縛られた跡、そして鞭で叩かれたような跡。初めは、宏美も「そういう趣味なの?」と笑い話にしていたが、SMなんてレベルを超えて、このままでは殺されてしまうのではないかというレベルにまで傷跡は深くなっていた。金を持って行かないと、本当に殺される、と我森は言う。その表情と、実際に彼の身体に残る傷跡。警察に行った方がいいという宏美の提案も、警察じゃかなわない組織だという莫大な暗黒のイメージが勝り、宏美は、ただただお金を渡すしか出来なかった。
頭の中で割り切って始めた「危険な関係」から、もはや引くに引けなくなった宏美。我森を助けたい。頭の中枢神経が送りだす命令は、それしかなかった。ついに、夫が勘ぐり始めたとき、宏美にも、一体いくら我森に渡したのか、分からなくなっていた。大切なのは、夫との生活。その安定の上に立って、初めて我森がある。そんな当たり前のことを何度も何度も考えながら、それでも、またバーに行ってしまう。
「本当に、もう無理なの」と、宏美が泣いて言った夜、
「……そうだよね。ごめん。無理させて。
俺なんかに、出会わなかったらよかったのにね」
「そんなことないよ。私、すごく貴重な時間だったし、これからも、ね、私、出来る限りのことはするから。春から、ちょっとだけど、給料も上がるの。だから、だから、
もうちょっと待って」
「もう。駄目だよ。これ以上、宏美さんに迷惑かけられない。終わりにしよう」
「いやよ。待ってよ、ねぇ、待って」
我森は、ホテルの部屋から出ようとした。こうやって、彼が部屋を出て行くことは何度かあった。だけど、今回は違った。これまでのように、拗ねて出て行くのではない。完全な形で別れを告げて、出て行くのだ。宏美にはそう感じた。それが、彼女を絶望的な気分にさせた。
「待ってよ」
宏美は、大声を出した。我森は立ち止まり、振り返った。
「もう、終わりだよ。言ったでしょ、俺、まじでやばいんだって。これ以上、俺なんかと関わらないほうがいいよ。今までありがとう。金も、ちゃんと返すから。いつになるか分かんないけど、俺、両親の借金返したら、ちゃんと働いて、絶対、宏美さんから借りた金、返すから。ありがとう」
「いやあああ」
大声で叫んだ宏美は、気付くと、ベッドサイドに置いてあった花瓶で、我森の頭を殴っていた。
倒れている我森を見て、宏美は震えが止まらなくなった。震えた声で、貸したんじゃない、あげたのよ、返さなくてもいいから、このまま、今まで通り、お願い……どこにも行かないで。宏美は、呟くように言って、泣いた。我森は動かなかった。宏美は泣いた。泣いて、叫んで、だけど、そうするのと同時に、服を着て、バッグを持って、宏美はそのまま、部屋を出た。
我森という中毒から抜け出せない自分に、時々、いっそのこと、手の届かないところへ行くか、消えて無くなってしまえば良いのにと思うこともあった。だけど無理、いくら遠くへ行っても、探し出して、見つけ出して、また繰り返すだろうことも分かっていた。そうであるなら、このまま、ちょっと「本数」を減らす感覚で、宏美に扱える程度のプレイで済ませておけばいい。完璧に無くなるというのは、考えただけで耐えられない。
ホテルから電車に乗って、家へ帰る途中。我森の残像が宏美の頭の中を締めつけた。あの時、自分はいったいどうしてしまったんだろう。あそこに花瓶がなければ、たぶん、我森に抱きついていたんだと思う。倒れた我森が、暗黒の組織に殺される像と重なって見えた。これまで宏美は、我森との関係を続けながらも、最終電車には間に合うようにして、必ず帰宅していた。自分の家庭。そこに夫がいなくても、家を空けることは絶対にしなかった。我森を置いて出た部屋。最終電車に乗り遅れないように駅まで走る自分。どうしよう。このまま夫と顔を合わせて、普段通りにできるだろうか。宏美の心に、会社のオフィスが浮かび、そこで響くキーボードと電話の音、うすら笑顔で笑う後輩達の顔、口では上手いこと言うが、陰ではボロカスに言っているだろう上司達の顔……。夫の、最近かけ始めたメガネの奥の、笑っていないのっぺりとした、爽やかな表情。宏美は、我森のいない日常を思った。
夫はその日も家に戻らなかった。最近では珍しいことではない。会社には仮眠室があり、そこに泊まっていると言っていた。朝一番の会議のために、準備が朝方までかかるらしい。知らない女と、どこかのホテルの同じベッドで寝ているのかも知れない。宏美とは無理だが、他の女となら、セックスをしているのかも知れない。宏美は何度も考えたことがある。考えたが、仮にそうだとしてもいいと思ってきた。宏美自身も、我森と一緒に寝ているのだ。そういうお互いの「裏」は、見ないように暮らしていけばいいのだ。
だけど、こんな夜は、完膚無きまでに思い知らされる。自分は、本当に、独りきりなんだと。我森はまだ、あの部屋にいるだろうか。今、行けば、会えるだろうか。会って、どうするんだ、いつもみたいにケロッと忘れて、プレイ出来るのだろうか。そんなことを考えながら、その夜、宏美は眠ることが出来なかった。
翌日。会社には、休むと電話を入れた。午後になっても、食欲が出なかった。カーテンを開けるのも億劫だった。何日も前の新聞に目を通し、ぼんやりと文字を眺めていると、白黒の、どこにでもありそうな温泉旅館の写真があった。「たまには ゆっくり しませんか」。そんなやすいコピーが、宏美の心を掴み、どうすればいいか分からない宏美は、とにかく食卓にメモを置いて、バックに荷物を詰め込めるだけ詰め込んだ。そして、電車に飛び乗り、この温泉宿までやって来た。
美味しい漬け物にお味噌汁。気持ちに染み渡る安堵。宏美は、自分の食べた食器を重ねて、厨房へと運んだ。わざわざすみません、という女将さんに、今日でチェックアウトすることを伝えた。ふとテレビを見ると、また違う誰かが、違う局のワイドショー番組で、我森の裸を見ていた。
綿貫(わたぬき)孝一は、心底安堵していた。我森は、これで被害者なんかじゃなくなった。ただの殺人犯だ。仮に、彼が何を話したところで、誰も信じない。よかった。ぜんぶ元通りになる。綿貫は、ここ最近の食欲不振など忘れ去ったかのように、おかわり自由のご飯をよそい、生卵をかけて、掻き込んだ。ロビー横の簡単な食事スペース。このビジネスホテルでの暮らしも、今日でおさらばだ。
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