我森プレイ

@SHoGoPaPeR

第1話:裸の我森~陽人の我森プレイ


 あいかわらず、誰もいない露天風呂。我森(がもり)修平は、足を伸ばし、鼻の下まで湯につけて、浮かぶように、星空を眺めていた。キラキラ星、星のラブレター、スター。頭に浮かぶまま、知っている「星」の歌を口ずさむ。


《裸の我森》


 キンコン、カンコン。(空耳の)終了チャイムの後、「きりッつ」と声に出しながら、我森は立ち上がった。ザバッ、と湯のかたまりが下半身で弾ける。「ひんやりして、気持ちがいい」と思った。もう一度、夜空を見上げ、ゆっくりと、振り返った。

 露天風呂から脱衣場へ向かうドア。その前に、スーツ姿の男が、三人並んで立っていた。彼らがこちらを見ている。そんな彼らを見たとき、我森はどこかホッとした。そして、素っ裸のまま、彼らに向かって深く頭を下げた。両端の若い刑事たちが我森に近づき、「我森修平だね」と確認すると、「……、田所マミ、殺害……。」といくつか確認するように話しかけ、「署まで、同行願います」と耳元でささやくように言った。うまく聞き取れない部分が多く、ただ静かに頷きながら、我森は、ドアの前に立っている年配の刑事、秋山から目が離せなかった。彼の突き刺すような視線は、かつて我森が頼り、すがった者達が持ち合わせていた眼差しだった。この二十一年の人生で、この目で見られたことが何度かある。若い刑事に両腕をつかまれ、我森はゆっくりと歩いた。暗闇の中、フラッシュが何度か光った。その光の度に、我森は自分を俯瞰して見て、また現実感のないプレイの中へ、吸い込まれていくような気分になっていた。

「そうやって、また、見限るなよ」

 横を通り過ぎるとき、秋山はうつむく我森に言った。ドキッとした自分を必死で隠すように、にこりと笑った。そのまま、我森の身柄は、拘束された。


 テレビのワイドショー番組が、我森の逮捕劇を伝えたのは、身柄拘束から二日も経ってからだった。テレビや新聞が扱うニュースは鮮度が一番だ。膨大な数の中から、話題性のある数件だけを抜き出して迅速に伝えている。しかし、我森の場合は、彼の殺人未遂容疑に話題性があったのではなく、あくまでも身柄拘束時のインパクトだった。露天風呂をバックに、素っ裸の青年が、二人の刑事に腕を掴まれながら歩いている。下半身にはモザイク。濡れた上半身。うつむいているおかげで顔にモザイクはなく、前髪が垂れていた。両サイドの男達の険しい表情から、手錠はないものの、それが「逮捕」だと分かる印象があった。そんな写真が、LINEやTwitterというネットワークで急速に広がっていたのだ。その広がりを後追いで伝えたのが、テレビだった。それが二日後、ということになった。

 水沢陽人(あきと)は、そのニュースを不思議な気持ちで見ていた。我森が人を殺すだろうか。それは、彼が絶対に取らない選択肢のように思えた。日本中に、こんな姿で知らしめられた我森に対して、また怒りがぶり返すというよりもむしろ、殺人を犯そうとした違和感の方が強かった。そう思う一方で、利香(りか)も、我森のこの身体に抱かれたのだろうか。彼に抱かれているとき、利香は「つまんない」とは、思わなかったのだろうな、とも思った。


 《陽人の我森プレイ》


 陽人は、露天風呂の脱衣場の、あの何とも言えない水場の臭いを思い出していた。小学生になる前から水泳教室に通い、その頃からずっと、あの臭いが嫌いだった。泳ぐ事も嫌いだった。我森が同じ水泳教室に通うようになり、辞めるに辞められなくなったので、十年近く通ったが、結局、好きになれなかった。水泳教室の更衣室で、さっさと素っ裸になって水着に履き替える我森。彼は、バスタオルで必死になって隠している陽人をバカみたいだと笑っていた。頭もよく、運動もできて、喧嘩も強かった我森。だから、女子にとても人気があった。そんな我森が笑っていた更衣室。あの、臭い。

 当時は、我森の考えていることが、陽人にはさっぱり分からなかった。分からないどころか、我森のやっていることは、ほとんど「間違えている」と思っていた。それなのに、担任や周りの大人達は、我森に好感を持ち、褒めていた。思ったことを何でも言っては、すぐにやってしまう。相手がどう思うかなど、お構いなしだった。とにかく思いのまま、生のまま。それが、小学生の陽人から見た我森だった。

そんな我森も中学生になると、今度は、同年代の生徒たちから注目される存在になった。好きも、嫉妬も、僻みも、妬みも。我森に対して、誰もが何らかの感情を抱いていた。もちろん、陽人も例外ではなかった。我森のすること(陽人には理解できないこと)が、つまりは陽人には出来ない(・・・・)こと(・・)だと知ると、我森の横で、何ともいえない安堵と嫉妬が混じり合った気持ちになるのだった。

 

 昨日、陽人が家に帰ると、母親が玄関まで走ってきて「夕方、警察の人が来た」と涙目で言ってきた。そこには〈あんた、何したの〉という問い詰めがあった。「修ちゃんのことで?」と陽人が聞くと、ポカンとした顔になった。テレビや新聞は、まだ我森のニュースを扱っていなかった。だから、母親は我森の事件を知らなかった。陽人は、友達という友達、特に高校までの友達から、次々にLINEやリツイートがきて、嫌というほど「あの写真」を見ていた。ただ、事件のことは、全く知らない。最近は、我森と一切連絡を取っていないのだ。もし、今回の事件が本当なら、利香と我森が会っていたとき、同時に、その被害者とも会っていたことになる。もしかすると、我森に頼まれて、利香まで変な事件に巻き込まれていたかも知れない。それを考えると、陽人の怒りはぶり返すが、もう済んだことだ。

「修平くん、何かあったの?」

「いや、なんでもない」

「ちょっと、陽人、修平くん、警察の方に、お世話になるようなことしたの?」

「知らない。俺は、何も知らない。だから、また警察が来たら、そう言っといて」

「本当に? 本当なのね、あんたは何も知らないのね、ウソじゃないわよね。」

 警察が突然やって来たら、たいていの親は、我が子を信じる気持ちに自信が持てなくなる。突き放すように言った陽人が、自室のある二階へ上がろうと振り返ると、母親の顔には、そんな自信喪失の跡がくっきっりと見て取れた。

「どうせまた、いつもの噂だよ、噂」

 陽人は、こういう時、何も言わずに放っておくことが出来ない。母親の心配が、陽人だけではなく、我森にも向けられていることを知っているだけに、こう言うしかなかった。噂。そう、実際にまだ容疑者なのだ。

「また、何か良くない噂があるのね。あの子もいろいろ大変ね。それにしても、警察が来るってことは、これまでなかったわよね」

 陽人も母親と同じことが気になっていた。これまでも、我森については色んな噂があった。ほとんどの噂は、彼の生い立ちが大いに関係していた。しかし、今回ばかりは違う。刑事が動き、実際に身柄が拘束されているのだ。それも殺人未遂という容疑で。

「まぁ、たぶん、また今度も、大したことないよ」

「そうよね。あの子、根は良い子だもんね。警察に追われるような、そんな事、きっと何か事情があるのよね」


 我森はホストをしているらしい。そんな噂が流れたことがあった。中身を知らず、長身で二枚目という我森の外見だけで判断するなら、そういう噂が広がるのも分かる。高校を卒業後、ほとんど会うことがなくなっていた陽人も、なくはない噂だと思っていた。しかし、陽人の母親は「それは、絶対にない」と言い張っていた。身体ばかり大きくなり、一見チャラチャラして見えても、生まれ持った性分までは変わらない。女の子と話す時、顔を真っ赤にして上手く話せない子が、ホストなんて出来るはずがない。それにあの子は、そう(・・)いう(・・)ことで、お金を稼いだりは出来ない。そう信じていたのだ。

 大人は、子供の成長を自分の頭の中で処理できる範囲程度に留めてしまう。その尺度をはるかに上回るスピードで、いろんなものに触れ、砕け、その中から様々なものを得ていくのに、そこに現実味がないのだ。ホストをしていることが、どうも本当らしいと聞いた時、だから、陽人の母親は、裏切られたような気分だった。別にホストという職業がどうこうというのではない。我森とホストという繋がりが、嫌だったのだ。

 陽人の母親の父、つまり陽人の祖父は、水商売の女性におぼれて家族を崩壊させた。中学生になった陽人が、何度も聞かされた話だ。陽人の母親にとって、水商売、夜の仕事というのは、そう(・・)いう(・・)ものなのだ。そこでお金を稼ぐ人というのは、自分たちのような家族をいくつも生む可能性を知った上で、生業にできる者達なのだ。そこに、我森がいるという嫌悪だった。

陽人がちょうど小学生になる年、近所に同じ歳の子が引っ越してきた。それが我森だった。母親としては、素直に嬉しかった。近所に、歳の近い子がいないせいか、陽人は誰かと一緒に遊ぶことをほとんどしない子だった。幼稚園でも、友達の作り方が分からず、彼の世界を広げるためにと思って通わせてた水泳教室でも、一人でいることが多かった。それだけに、同じ歳の子が来てくれることで、何か変わってくれるかも知れない。

 両親の居ない子であること、引き取られる年配のご夫婦とは、血の繋がりがないこと。我森には、引っ越して来る前から色んな噂があった。陽人の母親も、それらを耳にしてはいたが、実際に我森本人に会い、彼がニコッと笑った顔を見た瞬間、心底、良かったなと思った。

我森が中学生の頃までは、学校帰りや部活帰りに、よく陽人の家へ夕飯を食べに来ていた。おじいさんが亡くなり、おばあさんの腰の調子も良くなかった。そんな事情もあって、陽人の母親は、我森のために出来ることは何でもやってあげようと思うようになった。高校生になると、これまでのように慕ってくることはなくなったが、道で出会うと、元気に挨拶をするし、そのにっこり笑う顔は、幼い時のままだった。

我森が唯一頼りにできたおばあさんも、彼が高校二年生の時に亡くなった。これからは一人で暮らしていく我森に、陽人の母親は、何をしてやればいいのか分からずにいた。ただただ、不憫だった。あのとき、我森が言った言葉が頭から離れない。高校二年生、家のリビングでは、ずっと携帯電話をいじっている自分の息子と同じ、十七歳の少年だ。そんな我森が、精一杯作った笑顔と、精一杯作った言葉。

「大丈夫です。やれるところまでやってみます。

あ、でも、もし本当にダメなときは、助けてもらっていいですか?」

 ホストをしているとわかり、陽人の母親がまず思い出したのがこの言葉だった。一人で、やれるところまでやる、といった彼の答えのような気もした。我森の抱える事情。その深さと大きさを前に、陽人の母親は、もう、自分に出来ることは、少ないのかも知れないと思った。お腹が減った時、何か作ってあげる。そんな感覚で、「もちろんよ(助けてあげるわよ)」と応えてしまった自分の暢気さのようなものも痛感した。


 陽人は、自分の部屋に入ってからも、何となくそわそわして眠れなかった。

あの雪の夜から完璧に封印していた我森との事が、一気に頭の中を駆け巡ったのだ。大学に入り、陽人には新しい友人関係がやっとできた。彼の世界は広がり始め、その分、我森とは疎遠になっていった。それは、「我森のくっつき虫」とまで言われていた陽人にとって、大きな変化だった。大学生の陽人と、いくつもアルバイトを掛け持ちしているという噂の我森。二人は、全く違う時間軸で生活し、ほとんど接点がなかった。


 中学生になっても、二人は水泳部に入った。小学生から続けている水泳。我森と陽人は、お互いにタイムを競い合うようになっていた。大会に出れば、優勝争いをするような良きライバル。傍目からは、そう見えていた。しかし、陽人には、我森にかなわないということが分かっていたし、我森にも、陽人が自分を脅かす存在ではないことが分かっていた。そんなはっきりした勝負さえ、有耶無耶にするほど、二人は、いつも一つずつを分け合いながら生きていた。どちらかが、あからさまに「出る」ことに遠慮があったのだ。これには、陽人の母親の存在が大きく関与している。小学生の頃から、陽人にも我森にも同じぐらいの愛情を注ぐうちに、同じぐらいの結果を求めるようなった。それを肌で感じた我森が、自分の力をコントロールして、うまくやり過ごしていたのだ。陽人にも結果が分け与えられるようになると、いつしか、同級生の女子たちの間で「我森派」と「陽人派」が出来ていた。バレンタインデーになると、どちらにチョコを渡すかで賑わっていた。目立つリーダー格の女子から人気のある陽人とは違い、我森は、全体的に幅広い女子からチョコをもらっていた。数から言えば、圧倒的に我森の方が多かったが、陽人の方が目立っていた。格好いい、といわれる我森に比べて、陽人は可愛いと言われることが多かった。そう言われる度に腹が立ったが、陽人はただ、ニコニコ笑うのだった。

「ちょっとは、ガツンと言ってやった方がいいぞ」

 学校の帰り道、我森が陽人にそう言ったのは、学園祭の出し物を決めるホームルームの後だった。女子の輪の中に、陽人だけを強引に組み込んだ班決め。まるで人形のように陽人を扱う女子たち。それを外野から見ていた我森は耐えきれなかった。その輪の中でニコニコ笑っている陽人が、とにかく歯痒くてしょうがなかった。

我森には当時、付き合っている彼女がいた。その子は、学校一と言われる美女で、二人が校内を並んで歩くと、みんながほれぼれするほどの美男美女カップルだった。学校案内の冊子の表紙にも、二人が起用された。学校公認の不純異性交遊。不純じゃないから、公認なんだと我森は言うが、彼が嬉しそうに陽人に話す二人の関係は、羨ましくて興奮するほど「大人」の関係だった。普段の帰り道は、そんな我森たちカップルの話題なのに、このときばかりは我森が興奮して陽人を責め立てていた。

ボディペインティングという出し物を提案し、そのモデルに陽人を起用したクラスのリーダー格女子生徒Y。Yは、我森の彼女がキャプテンを務めるバレーボール部に所属していた。普段から、Yがいかにチームワークを乱し、足を引っ張っているか。彼女から嫌と言うほど聞かされている我森は、Yのやることなすことが気に入らなかった。そのYが、今度は陽人をターゲットにしたのだ。

クラスを大きく三つに分けて、それぞれ分担して行う学園祭。出店班と舞台班、装飾係に別れるのが常だが、出店を「見世物」にしようと言い出したのだ。しかも、Yの言い分は、水泳部の陽人なら、裸になることに抵抗がないからモデルに適していると。ニヤニヤ笑って話すYの顔が、陽人も大嫌いだった。しかし、周りを取り囲む数人の女子が、同じようにニヤニヤ笑うと、嫌いを通り越して、怖く見えてくる。嫌だ、と言えない恐怖。担任の女教師は、「面白そうね」とボディペインティングに賛成で、「先生も水沢君のハダカ、見てみたい」と、女子たちと一緒になって騒いでいた。

「だいたいさ、なんでおまえは、いつもそうなわけ?」

 我森の怒りは、収まらない。

「何が?」

「だから、身体に絵の具べちょべちょ塗られて、学園祭の期間中、ずっと、教卓の上に立ってるんだぜ。分かってんの? くそ恥ずかしいし、はっきり言って、バカだよ」

「じゃ、そう言ってよ」

「俺が言ってもしょうがないだろ。やるの、おまえなんだからさ」

「言えないよ。あいつら、面倒臭いもん」

「アホか。おまえ、おちょくられてんだよ。なんで、それが分かんないかなあ」

「分かってるよ、それぐらい。修ちゃんとは違うんだよ。自分が思ってること、何でも言って、それで周りが納得してくれるなんて、修ちゃんぐらいなもんなんだよ」

「なんだそれ」

「思い通りになんて、ほとんどのヤツがいかないんだよ」

「それは、そうしようと、しないからだろ」

「違うよ。そうならないって知ってるからだよ」

「なんで分かるんだよ。しようともしないうちから」

「そういうもんなんだよ」

 陽人の言葉を聞きながら、我森は死んだじいちゃんの言葉を思い出していた。何が欲しい? 何したい? そう聞いても、いつもはっきり応えない我森に、

「欲しいものや、したいことは、はっきり言わないと分からないんだぞ。

誰も、気を遣って欲しいモノや、したいことを想像してくれやしないんだから」

あのときのじいちゃんは、珍しく怒鳴るような口調だった。我森には、わがままを言ったり、ごねたり、物わかりの悪いことをすると、放り出されるという恐怖感があった。そうならないために、歳をとった祖父母と孫のような関係が織りなす、独特の空気を敏感に察知してきたのだ。怒鳴られた日から、少しずつ我森は変わっていった。水泳教室に行きたいと言い出したのも、その一つだった。

「そういうもんじゃ、ないだろ」

 それまでの口論の口調ではなく、我森は、少し冷めた声で陽人に言った。

「やっぱ、したくないことも、したいことも、ちゃんと言った方がいいだろ」

 陽人は、我森の表情が変わったので、上手く言い返せなかった。時々ある、この悲しそうで、重い雰囲気。〈修ちゃんには、優しくしないと駄目よ〉と、母親に言われていた陽人。詳しいことは分からないが、家庭の事情が複雑なことは陽人も知っている。だから、こういう雰囲気を出すのだということも感づいている。そんなときは、陽人は何も言えない。一方で、何も言わず、ただ黙る陽人を見て、我森もハッと我に返る。また、やってしまったと反省する。幼い時からずっと一緒なのだ。自分がついつい見せてしまう「雰囲気」を感じ取って黙る陽人。それが、申し訳なく思う我森。

「それにさぁ」

 慌てて我森は、言葉を繋いだ。

「うちのバカ担任もサイアクだよな。私も見てみた~い、だってさ。独身で寂しいのは分かるけどさ、中学生のガキの裸で、喜んでんじゃないっつーの。なぁ?」

 我森が笑ったので、陽人も笑った。

 結局、あの年、陽人は学園祭で水着一枚にされ、身体中を真っ白に塗られた。その上に花やらリボンを好き放題に描かれ、可笑しなサングラスをかけられて、スナフキンような帽子をかぶせられた。そして、教卓の上に立たされた。上級生にも噂が広がり、教室にきた人の多くは、携帯電話のカメラで陽人を写し、それをブログにアップしている者すらいた。最悪の学園祭だったが、分からないものである。翌年、水泳部には、それまでの倍以上の新入部員が入ってきた。


 高校生になった年、陽人は、我森と別れた例の美女と付き合うことになった。陽人よりも一つ年上の美女は、高校へ進学してからも我森と付き合っていた。週三ペースでセックスをし、コンドーム代で小遣いが消えるという羨ましい悩みも聞かされていた。一歩も二歩も先を行く我森の話は、違う惑星の話のようでもあった。とにかく高校へ入るまで。陽人は、受験勉強に没頭しつつ、出来る限り我森たちの話を遠ざけていた。ようやく高校へ合格し、真新しい制服に身を包んで通い始めたある日、突然、その美女から陽人に連絡が来たのだ。会いたいという内容だった。おそらくは、我森について何かを訊ねられるか、もしくは、喧嘩の仲裁でも頼まれるのだろうと思っていた。

 陽人とその美女は、近くの公園で会い、急にキスをした。陽人にとってのファーストキス。された、という方が正確だった。そのまま、人気の無い陰で、童貞も卒業した。高校生になったら、誰かと付き合ったりするのかな、童貞も卒業したいな。そんな我森的惑星への期待を胸に抱いていた遠い未来が、とんとん拍子にあっけなく終わった。ファーストキス&初体験。「ごめんなさい」「すいません。」。急に始まり、終わった後の二人の会話は、それだけだった。

この日の彼女の行動が、我森への当てつけであることはすぐにわかった。しかし、その美女は、陽人にとってやはり美女だったのだ。棚ぼたでも、掴んだこのチャンス。そう簡単に失う訳にはいかないと思った。高校生ともなると、陽人は、我森の影でおこぼれを頂戴する自分の生き方をしっかりと受け入れていた。そこに、自分なりの居場所も見いだしていた。太陽と月。輝く者の光を反射して、光っているように見せて生きる人生もある。陽人は、太陽の「陽」を名前に持ちながら、月のような人生を確立させていったのだった。

 一方、太陽の我森は、高校生になると、それまでに輪をかけてもてはやされるようになった。他校からも我森好きの波が押し寄せ、地元ではちょっとしたアイドルと化していた。関東地方の公立高校ネットワークで、毎年開催されるボーイズフォトコンテスト。そこに、隠し撮りされた下校時の我森の写真が投稿され、大きな噂となった。それは加工されながら広がり続け、その年のコンテストに優勝した。そうなると、本人に会ってみたいという他校生が何人もやって来て、校門の前で待っていることもしばしばだった。

 そんな状況を自慢するでもなく、斜に構えて遠ざけるでもなく、事実は事実として淡々と受け入れる我森のスタンス。陽人は、嫌いではなかった。我森に対して、妬みとか僻みという感覚が、麻痺していたのだろうと思う。しかし、他の男子生徒たちはおもしろくないようだった。自然と男子の中で、我森は総スカンをくらうようになった。いつもくっついていた陽人も、同じくはじかれるようになり、我森と陽人は、男子の中で孤立していった。我森は、もちろんそんな孤立を気にする素振りはなかった。陽人は、なんとか男子の輪に入ろうと、機嫌を伺いつつ話しかけてみたが、決まって我森の悪口を聞かされた。そのジメジメとした影の僻み、あまりにも情けない愚痴の多さに、これならカラッとした我森の側に居る方がいいと思った。

我森のくっつき虫。いつも側にいると、得することも多かった。高校一年の初めに「美女」と付き合い、三ヶ月ほどで別れた陽人は、その後も、「我森君かっこいい~」と色めき立った女子の中から、いつも隣いる「彼」という存在で注目され、三回ほど「おこぼれ」を頂戴した。どれもそんなに長続きはしなかったが、彼女がいる、という時期が多い高校生活を送っていた。

 そんな彼女たちと、利香は、確実に違った。

 高校三年になり、大学へ進学しないと決めた我森と、とりあえず右へ倣えで受験勉強を始めた陽人は、「別々の時間」を過ごすことが多くなった。夏休み期間中だけ、隣街の予備校に通い始めた陽人は、そこで利香に出会った。出会ってすぐ、恋をした。今までとは全く違う次元で、好きだと感じた。予備校の教室、斜め前に座る利香の背中。そこから漂う雰囲気で、一目惚れした陽人。何とか話がしたい。チャンスをうかがいながら、四度目の講義で、利香が陽人の隣に座った。ドキドキする陽人は、ギャグを交えながら英語の構文を教える講師の話などまったく頭に入らず、例えば、シャーペンの芯がなくなったら、すぐに差しだそう。消しゴムがこちらに転がってきたら、なんて言いながら渡そうか。色々悶々と考えているうちに、講義が終わった。陽人は、その日もふてくされてテキストを鞄にしまい、また明日か、と思いながら立ち上がると、利香の方から声をかけてきた。

「この後って、まだ講義とってますか?」

 一瞬、自分に話しかけられたとは思わず、危うくシカトをしてしまいそうになった。陽人は、慌てて「いや、これで終わりです」と応えた。

「よかったぁ」と言って笑った利香の顔も、たぁ、と少し伸ばした声も、とても好きだった。

「俺も、よかったです。次の講義なんて、とってなくて」

 陽人が応えると、利香は、ますます可愛い顔でにっこり笑った。

 それから二人で「ブルックリン」に行って、アイスコーヒーを飲んだ。

「クリームとか、乗ったやつじゃなくていいの?」

 陽人の質問の仕方が可笑しかったのか

「今日は、クリームとか乗ってないのに、しようと思って」

 と、利香が応えた。

「いつもはクリームとか、乗ったやつを頼むんでしょ?」

「いつもは、あんまりこういう所、こないから」

「そうなの! 御免、じゃ、店かえる?」

「いいよ。別に。いつもとは、ちょっと違う感じがいいから」

「そう?」

「うん」

「じゃ、いつもは、どういうところに行ってるの?」

「ミスドとか、サブウェイかな」

「へぇ~。俺、どっちも行ったことないな」

「うそ。ほんとに? ドーナツとか超おいしいのに。じゃ、今度はミスドにする?」

「そうだね」

 今度。また今度もあるのかと、陽人は嬉しくなった。それから、予備校の帰りには、利香とドーナツを食べた。夏休みが終わっても、メールで励まし合ったり、頻繁過ぎるほど、陽人は利香に会いに行った。

大学に何とか合格した陽人と、短大に進んだ利香。お互いが学生時代だった時期は、あっという間に過ぎた。あれほど好きだった気持ちにも、慣れが出来て、新入生の一年間は、お互いの学校のイベントや飲み会でそれぞれ忙しく過ごした。二年目になると、利香はもう就職活動を始めた。陽人は、あいかわらずだらだらと過ごし、傍から大人になっていく利香を眺めていた。当時、二人の会話はほとんどがLINEになっていた。たまに会っていても、目の前の相手よりも、他の誰かとLINEで繋がるような関係。彼氏、彼女という存在が、居るというより「有る」というのに近かった。

利香は、就職を決め、職場に通いやすいよう杉並区にマンションを借りた。そこに、陽人が入り浸るようになってから、お互いが居る存在として、付き合い始めたのかも知れない。陽人は、この頃から本当の意味で利香を離したくないと思うようになった。良い意味でも悪い意味でも、社会人を経験して帰ってくる利香の言葉は、いつも刺激的だった。利香にとっても、社会人としての不安を陽人に頼り、陽人の頼りなさから社会人としての自覚を再認識する日々だった。社会人と大学生。その間にある時間感覚や金銭感覚で、多少の摩擦や不一致は生じるものの、二人は、順調に交際を続けていた。一緒に重ねた時間に比例して、居なくなったことを考えると、喪失感の方が勝っていく。どんなに喧嘩をしても、別れることはなかった。


 陽人が大学四年生になった今年は、就職難だった。

 不景気、不景気という触れ込みが、ただの流行語ではないかと思うほど、社会に無頓着な大学生から、一気にその言葉の厳しさを突きつけられる就活生へ変わる。この変化に、陽人はなかなか順応できなかった。面接に行けば行くほど、自信をなくしていく。周りの同年代の就活生が、みんな自分より遙かに良く見える。欲も見える。好くうつるのは、きっと欲も大事なのだと痛感した。陽人は、何社も受けて、何社も落ちた。まず、資料すら請求できない大不景気の中、採用を予定する企業から、自分の行きたいところを見つけるしかなかった。その逆は難しい。つまり、自分の行きたい企業を探し、そこを目指すというのは、採用がこれだけないと遠回りになる。時給とシフトと立地とネーミング。それを考慮して妥協点を見いだし、応募したアルバイトの延長に、就職があるようにすら思えた。

 ずっと働けるわけではない。働けるうちはしがみつくが、それが定年まで続くとは、陽人も、陽人の周りの学生も考えていなかった。それを不安定と恐れる者は、こぞって公務員を目指した。年功序列の終身雇用。そんなエスカレーター式序列の中で、ゆったりと生涯を終えたい。サプライズ的な大儲けより、そこにあるリスクを恐れる。そうやって先を選んでいる者も、上手くいかない日が続くと、とにかく何処でも良いから内定という形が欲しくなるのだった。

 就職活動中、陽人の精神は、とても不安定だった。打っても打っても跳ね返され、おまえは駄目だと「×」を付けられる日々。周りはどんどん内定をとり、焦りばかりが先行する胸の内を利香にすら話せなかった。二年前、利香も同じ事をしていたはずなのに、こんなに苦労はしていなかったように思う。大人のメイクをして、スーツ姿で面接に行ったのも、二度か三度だったはずだ。二年前と今と、就活の厳しさはそんなに変わってないと聞く。それなのに、利香はしっかりした会社に就職した。陽人が話せないのは、そんな利香と自分との違いに対する情けなさと、やはりプライド。いや意地と言ってもよかった。彼はただ、「決まった」という報告だけがしたかった。

利香と暮らす中で、陽人はいつしか、自分が駄目であることを簡単に認められない男になっていた。これまで、側にあった太陽と比較して、いつも駄目であることを前提にしていたが、その存在がなくなると、一人でしっかりしなくてはいけなくなる。就活なんて意外と簡単だったよ、と言い、さすがね、と言われたかった。いや、そう言われないと、いけないと思い込んでいた。陽人と利香は、この二年で、そういう立ち位置になっていたのだ。

 就活が始まる頃から、陽人は実家に戻り、利香と会わない日が続いていた。利香からの励ましのメールにも上手く応えられず、自然と連絡を絶つようにもなった。結局、陽人の内定が決まったのは、九月も終わりになってからだった。汗だくでスーツを着て、それでもぜんぜん駄目で、会社の名前なんてもはやどうでもよくて、とにかく、どこでもいいから働きたいとすら思うようになっていた。そんなつもりで受けた会社にすら、信じられないほど応募があり、倍率は高かった。陽人は、ほとほと疲れ切っていた。そんなある日、あるスポーツ用品メーカーの求人を見つけた。陽人が就職用ウェブサイトを見ていると、懐かしい名前があった。大学に入ってからは全くといっていいほど泳がなくなったが、高校まで十年以上続けていた水泳。その水着メーカーのロゴを見ていると、まるで「こちらへ」と示す矢印のように思えた。クリックすると、まだエントリーシートを受け付けていた。多くの企業が新規申し込みを終了している中で、陽人にとってはラストチャンスと言ってもよっかった。募集の条件はただ一つ〈やる気があって、当社に見合う人〉、それだけだった。学歴、性別、経験など一切不問。年齢も不問で、新卒者に絞った募集でもなかった。新卒という縛りの中でも落ち続けた陽人には、なんだか不安にさせる条件だったが、とにかくクリックしてエントリーした。履歴書を持って、指定された日に面接に来てください。その頃には、空で書けるようになっていた「志望動機」も「自己PR」も書くことなく、連絡先を書いた履歴書だけを持って会いに来てくださいという。陽人は、自信が持てなかった。ただ会っただけで選ばれる要素など、一つも持ち合わせてない。就活が上手くいかないうちに、嫌と言うほど、自分が輝けた「太陽」の存在を思い出してしまう。それを考える自分が、腹立たしくなった。

 面接当日。十人が一つの部屋に集められ、面接官は二人だった。自己紹介をしてください。最近、最も充実したご自身の経験を話してください。この会社に入って一番やりたいことを教えてください。質問はこの三つだった。そつなく応える者の中には、三十歳を過ぎたような人もおり、○○へアプローチをかけると面白いと思います、といった具体的なことを述べる中、陽人は、まったくもってうまく応えられなかった。六歳から十二年間水泳を続けていたこと。このメーカーの水着を初めて履かせてもらったのは小学生の高学年で、そのときめちゃくちゃ嬉しかったこと。今回、募集を見たとき、とても懐かしく思ったのと同時に、最近、何かを本気ですることがなくなったと思ったこと。そして、最後に「久しぶりに、泳いでみたいです」と言った。「とにかく、何事においても一生懸命やります」いう決まり文句すら、言うのを忘れてしまった。二次面接、三次面接と日時が教えられ、合格者には、三日以内に連絡をすると言われ面接は終了した。

 全く自信はなかった。その面接の帰り道、本当に泳いでみようと思った。面接から帰宅して、近所の市民プールに行った。水の中の音が、心底懐かしかった。水中で進む自分の身体が、なんだか不思議だった。泳ぎ終わった後の疲れる感じも久しぶりだった。その晩は、ぐっすりと眠った。その翌日、不思議なことに二次面接に呼ばれた。そして、二次面接のその場で、早々と内定をもらった。きょとんとする陽人に、面接官の一人が「一緒にがんばろうな」と言った。「はい」と、反射的に大声で応えた陽人を見て、面接官は笑った。「そうそう、そういうとこだよ」と言った。陽人は、何かの冗談だとも思った。もしかすると、詐欺かもしれない。しかし、内定しました、というだけで、何一つ騙し取られたわけではない。聞くところによると、そのメーカーは、今年十五名しか内定を出していないのだという。その中に自分が選ばれた理由が、未だに分からない。だけど、とにかくホッとした。あんなに欲しがって、内定が取れればしたいことが山ほどあったのに、いざ内定をもらうと、こんなもんかとあっさりした気分だった。

 陽人は、利香に連絡をして、久しぶりに会った。利香は、また大人になっていた。アパレル系メーカーの広報として働く利香は、スポーツ用品メーカーに内定した陽人に近いものを感じていた。歳は同じだが、社会人経験は二年先輩だ。働くと言うことは云々、先輩風をふかした物言いが、陽人を少し苛つかせたが、とにかく内定が決まった安堵から素直に聞いている振りはできた。四月の入社まで、最後の大学生活を謳歌しよう。働き始めると、なかなか休みが取れない。今は金がないが、働き出すと時間が無くなる。であれば、余るほどある時間を今のうちに贅沢に使った方がいい。そんなことを言われても、いざその立場に立つと、時間なんてどうやって有効に使えばいいか分からなかった。時間がなくなった利香だから、初めて分かるもんじゃないかとも思った。

 十一月に入っても、陽人は、週末は利香と会い、平日はバイトに行くか、家でゴロゴロするという毎日を続けていた。冬になって、年が明けて、春休みが始まった。後期試験を終えると、卒業論文もない陽人は、卒業を待つのみだった。大学の友達とソウルへ二泊三日の卒業旅行に行くこと以外、これといって予定もなかった。利香と、実家と、ベッドと、母親の小言。そんな毎日をダラダラ消費していた。

変化に気づき始めたのは、一月の終わり頃だった。

 利香が、突然

「陽人ってさ、我森君って知ってるでしょ?」

と、聞いてきたのだ。

「知ってるけど、なんで?」

「会社の先輩が、その我森君って人に、遊ばれて、捨てられたのよ」

「へぇ~、そうなんだ」

 じゃがポックルをつまみながら、陽人が間延びした声で応える。

「最低ね、その我森ってヤツ」

「なんで?」

「だってさぁ、その先輩、中崎さんっていうんだけど、婚約者もいたのに、それも駄目になっちゃったんだよ」

「へぇ~」

「へぇ~ってね。話、聞いてる?」

「聞いてるよ。だけどちょっと待ってよ。これ、井伊直弼だよ。ぜったいCだって」

 テレビのクイズ番組で、回答者のお笑いタレントが、Bを選んでいる。

「ほら~、な? Cだろ」

「はいはい、陽人は日本史が得意です。わかりました。だから、聞いて、その中崎さんがね」

「誰? それ?」

「だから、婚約者と別れて、その我森ってヤツに、いっちゃった先輩よ」

「あ~」

「結婚しよう、みたいなことも言ってたらしいのよ、我森ってヤツ。だからすっかりその気になってたのに、いざ両親に会わせるって段階になって、急に態度を変えたんだって」

「まぁ、修ちゃんなら、なくはない話だな」

「修ちゃんだか、しょうちゃんだか、知らないけど、ガモリよ、ガモリ。最低よね。びびってるだけじゃない。遊ぶだけ遊んで。中崎さん、キレイだもん。もう、なんかそういう話聞くと、ほんとむかつくのよね」

「っていうかさ、その中崎さんって人、浮気してたんでしょ?」

「そりゃ、まぁ、そうだけど」

「俺は、婚約までして、他の男にいっちゃう女の方が、どうかと思うけどな。俺、浮気は絶対駄目だから」

「分かってるわよ。私は浮気なんてしないし、そんな軽い女じゃないけど。だけど、そこまでして選んだ男に、裏切られる女の気持ちも考えてみてよ」

「じゃ、その中崎さんの婚約者って人の気持ちはどうなるんだよ」

「そうだけど、そういうことじゃなくて」

「だいたいさ、なんで修ちゃんと、俺が知り合いだって分かったんだよ?」

「なんか、言ってたらしいわよ、そのガモリが」

「なんて?」

「私の彼氏と、自分は親友だって」

「は? なんで?」

「知らないわよ。陽人がガモリに何か話したんじゃないの?」

「言ってないよ。修ちゃんとは高校を卒業してからほとんど話してないし、利香のことも話してない」

「じゃ、なんでだろう?」

「さぁ~、なんでだろうな。まぁ、そんなことより、じゃがポックル、全部食っちゃっていい?」

「ダメよ~」

 そんな会話をしてから二週間後。バレンタインデーが済んですぐの土曜日に、利香は、我森と会っていた。

陽人の母親が、八王子の駅前で我森と利香が一緒に歩いているのを見たらしいのだ。利香が、そんな所にいるはずはない。見間違えたのだろうと、初めのうちはあまり気にしなかったが、母親からその話を聞いた後、次に利香に会ったとき、彼女は八王子で見つけた美味しいカフェの話などを嬉しそうに話したのだ。八王子なんて行くんだ、と陽人はそれとなく訊ね、会社の同僚が住んでるから、と利香が応えた。それは、いつになく自然で、とてもスムーズで、つまり嘘で、

「もしかして、修ちゃんと一緒だった?」

 陽人が尋ねると、利香は逆上したように怒って、

「なんで、私がガモリと一緒にいなきゃなんないのよ」と言い返してきた。陽人は、不安になって

「もう一回言っておくけど、俺、ほんと、浮気とか駄目だから。浮気することもないし、されることも、絶対に許さないから」と、念を押した。

 しかし、利香と我森は、陽人が想像するよりも早く、そして濃密に近づいていた。利香と二人で会っていても、我森の話題がそれとなく増えた。昔はどんな人だったのか。今は何をしているのか。好きな色は何か、どんな彼女とこれまで付き合ってきたのか。中崎という先輩の話にかこつけて、利香は我森の情報を欲しがった。我森と利香は、本当に八王子で会っているのか? 利香が唐突に言い出したフォーピーエムというカフェだろうか。陽人の家から八王子までは、一時間以上かかるが、行けない距離ではない。

 時間だけは豊富にある陽人にとって、それが有効な使い方かどうかは分からないが、利香の会社が終わって、八王子にたどり着けるだろう時間帯。夜の七時から八時の間を狙って、何度かそのカフェへ足を運んだ。しかし、一度も利香にも、我森にも会わなかった。利香が、まさか、そんなことは絶対ない。絶対ないと思えば思うほど、絶対とは言い切れなくなり、気付けば、また八王子に向かってしまう陽人。

二月の終わり。ここ最近、立て続けに都内でも積雪があった。陽人は、いつものように、気付けば中央線に乗っていた。八王子の駅前から、ちょっと歩けば細い路地裏がある。そこに小さな居酒屋が二軒ほど並んだその奥に、フォーピーエムというカフェはある。いつものように店に入って、ブレンドコーヒーを注文し、今日もいなかったな、と安心して店を出た。駅までの道は、雪がシャバシャバと音を立てた。陽人の履いていたスニーカーが濡れる。マンホールの上は、ツルツルしていた。早く帰らないと、電車が止まるかも知れない。雪は、まだ降っていた。

 陽人が、駅へ向かって急いで歩き出したとき、小さな居酒屋の扉が開き、我森が出てきた。陽人は一瞬、それが我森だとは気付かなかった。真っ赤な顔をして、足下がふらついている我森。かなり酔っぱらっていた。思わず立ち止まった陽人に気付いた我森が、「お~」と言いながら、ふらふら右手を大きく挙げた。ふらふらで真っ赤で、ぐでぐででも、我森はどこかスマートだった。陽人の目から見ても、悔しいがそう思う。

「修ちゃん、こんなとこで何してんの?」

「ん? いや、トイレをさ、トイレを探してんだけど、どこだっけかな」

 陽人が近づこうとしたとき、店の中から、利香が出てきた。

「ちょっと~、違う、違う、外じゃない。トイレはこっち」

 後ろから、我森の腰を支えるように抱きつく利香。

「あ、バカ、おまえ、何で出てくんだよ」

 我森が少し慌てて利香に言う。それを聞いた利香と、陽人は目があった。陽人は何も言えなかった。何日も電車に乗って、一時間以上かけて八王子まで来て、だけど、実際に二人が一緒の現場を見ると、陽人の身体は、うまく動かなかった。

「違うの。陽人、これは、ほんと違うの。私ね、ほら、中崎さんが、どうしてもかわいそうで、この人に、一言文句言ってやろうと思って、それでね、それで中崎さんから連絡先聞いて、この人に会って」

「いいよ、別に。言い訳なんて、聞きたくないから」

 陽人は、駅とは反対の、より暗いほうへと振り返って歩き出した。

「ちょっと、待ってよ」

 利香が叫んでいる。その声が、何だか無性に腹立たしかった。

 陽人は振り返り、

「もう、終わりだよ。言っただろ、俺、駄目だから。もうこれは結果として、決まったことだから。無理だよ」

 陽人の言葉を聞いて、利香はしゃがみ込んだ。しゃがみ込んだ利香を我森が抱え上げようとすると、利香はその腕を振り払って駅の方へ走っていった。人は通っていない。店の中から奇声に似た笑い声が聞こえるが、それもとても小さなものだった。

陽人は、そのまま、駅とは反対方向に歩いた。何分か分からない。住宅街も終わり、空き地のような所まで来た。雪は、みぞれになっていた。後ろから、誰かがついてきていることは分かっていたし、それが我森であることも知っていた。しかし、陽人は振り返らなかった。

「なぁ」

 夜の静けさの中で、我森の声は響いた。

「なぁ、陽人。ほんとにいいのか。おまえと利香ちゃん、終わっちゃうぞ」

 陽人は無視した。小走りで陽人に追いついた我森が、前に回り込んだ。

「おまえが思ってるようなこと、俺、ぜんぜんしてないから。まだ大丈夫だよ」

「大丈夫って何がだよ」

「だから、その、俺は、陽人の彼女だっていうから、そのちょっと、どんな娘かな? と思っただけでさ」

「もう、いいんだよ。別に、おまえと利香がどうなろうと、俺には関係ないから」

「冷たいねぇ~」

「おまえさ、どっか行ってくんないかな」

 黙った陽人の横で、我森も黙った。みぞれになった雪が、まだ降っていた。


「俺さ~」

 すっかり酔いの覚めた我森が、夜空を見上げながら言う。

「陽人のこと、昔っから、大嫌いだったんだよな」

 陽人はもう、何も応える気になれなかった。

「俺の持ってないもん、はじめっから持っててさぁ、それが当たり前みたいな顔で、のほほ~んと生きててさ。俺、そういうヤツ、ほんとにムカつくんだよな」

「もう、おまえとは友達でもなんでもないさ。別に嫌いになってくれてもいいよ」

「だから、昔から嫌いなんだって、おまえのこと」

 我森が顔を陽人に近づけ、「なっさけねー」と、捨て台詞まで吐いた。

「言ってたよ、利香ちゃん。陽人は、つまんないんだってさ。ノーマルすぎて、魅力薄なんだと。残念だったな。俺の方が、いいみたいだぜ」

 不採用の続いた就職活動の、真夏で汗だくだったスーツのパンツが太ももにへばりついて、必死で走り回って、それでも不採用で。高校のとき、一人で廊下を歩いてると、決まって我森君は? と聞かれたときのむなしさや、ボディペインティングされて突っ立っては知らない女子に写メで撮られたことが、走馬燈のように陽人の頭を駆けめぐり、

 気付けば、我森を殴っていた。

何度も殴っていた。身長は我森の方が陽人よりも高い。しかし、線の細い我森よりも、がたいのいい陽人の方が力は強い。投げ飛ばし、倒れ込んだ我森にまた殴りかかった。我森が憎かった。利香が腹立たしかった。そして、誰よりも何よりも、陽人は、自分自身が空しかった。我森が動かなくなり、動かなくなった我森をぼんやりと眺めた。次の瞬間、陽人は、反射的に走り出していた。夜はとても暗かった。陽人の目には涙が溢れた。これからの、残された自分の人生に対する、喪失感のような涙だった。


 また、我森の画像が転送されてきた。

 今度は、顔だけをアップにトリミングして、解像度を上げた写真だった。何枚も、こうして加工されて日本中にばらまかれている。逮捕された我森、人を殺した我森。陽人は、何度考えても、殺人という選択肢を選ぶ事に違和感があった。あの雪の夜、殴られる修ちゃんは、抵抗しなかった。殴られるまま、殴られていた。最後は、呼吸もしてないんじゃないかと思うほど、ぴくりとも動かなかった。修ちゃんの取るだろう選択肢はおそらく、相手が一番して欲しいことだ。あの夜、陽人が一番、聞きたくない一方で、言って欲しかったこと。それを言ったのだ。ちゃんと修ちゃんのせいにできるために。

 翌日、また刑事が陽人の所へ来た。その刑事は、どこかで見たような顔だった。一見、陽人と同じ歳か、一つか二つしか違わないような若い刑事だった。彼は一人だった。我森について、何でもかまわないから、教えて欲しいと言った。その口調、醸し出す雰囲気が、まるで陽人の大学の仲間と話しているような、そんな錯覚を起こした。見せられた手帳には、山城大介と書かれていた。「何も知りません。ただ、ぼくの知る限り、殺すことは、しないと思います」とだけ応えた。陽人が知っていることは、ほとんどない。被害者の女性が、利香の言っていた中崎という女性と、何か関係があるのかも知れない。しかし、それは想像でしかない。それでも大介の質問は続いた。小学校から高校まで、一番仲の良かった友達として、つきまとった彼の数々の噂について。陽人は、それらの質問にも、よく分からない、特に変わったことはないと応えた。


 柏木宏美(ひろみ)は、この温泉宿に来て、ようやく、こんな気持ちで食事ができるようになった。若いカップルの女の方が、ザッピングしながら、少し前から止めている画面。「すごいよね~、いいのかな、こんなの映して」と笑いながら凝視するその画面には、素っ裸で逮捕された我森が映っている。毎朝、この食堂で食事をしていても、部屋に居ても、お風呂に浸かっていても、ふと、宏美の身体は、我森を求めて震えだしてしまう。夫と我森。捨てる方ははっきりしているのに、なかなか捨てられず、ぶらりぶらりと宙ぶらりだった。だけど、我森は逮捕された。彼は、宏美の知らない所で罪を犯していた。これでキッパリと、終わることができる。


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