2章 トキ

第15話

「眠れなかった、そんな顔をしているな」

「…誰のせいだよ」

 不機嫌を隠そうともせずに応じるカイルに、わかりやすい奴だとトキは笑う。

「大体俺は行くなんて一言も言ってないし、画廊に持ってく絵を仕上げるつもりだったんだ。しかもなんだよこの馬車。明らかに操ってるの、人じゃないよな」

 家の前に付けた馬車に乗り込むのを渋るカイルの体を、遠慮なく持ち上げて放り込んだ御者の姿を思い出していることは、苦々しい顔が如実にょじつに語っている。

「ああ、風の精シルフの力を借りている。屋敷に着くまでお前と少し話をしたかったからな」

「人ぐらい雇えばいいだろ。案外ケチくさいんだな。アルファザードって、恐ろしく金持ちな家だって聞いたけど」

「世の中、金だけで解決できることばかりではなかろう。少なくとも今、あの家に大勢の人間を迎えたくはないんだ」

 肩を竦めるトキを前に、カイルは黙り込んだ。


 この様子を見る限り、ゆうべトキが去った後居ても立ってもいられずに、カイルがあの画廊に駆けこんだことは想像に難くない。

 もっともカイルの態度を見る限り、トキがブランク・マスターであることを、旧知の仲であるあの店主にすら、口にしたとは思えなかった。それでは詳しい情報など摑めなかっただろう。

 無論受け取る気はなかったが、画廊から引き取ってきた、例の金らしきものが机の上に用意されていたのは知っている。だが、有無を言わさず連れて来たため、それすら忘れてきたことさえ、カイルの頭からは失せているようだ。


 今、トキの左手には閉じたブックが収まっている。

 精霊を召喚した後は、必ずしもそのページを開いている必要はない。馬車を人外の者が動かしているにしても、トキが持つその本が本当に白紙なのかまで知る方法はなく、トキの手元をじっと見ていたカイルが、視線をゆっくりと俯かせた。

 内心の葛藤が、手に取るようにわかる。

「なあ…話せよ、昨日の続き」

 カイルは囁くように言った。

「頼む…」

 眠れるはずなどない、そんな表情で。

「あんな風に追い返しておいて図々しいのはわかってる。けど、頼む。何でもいいから教えてくれ。オルガは…オルガ・ディプトリーは…俺の、たった一人の姉なんだよ」

「知っている」

 トキの答えに、カイルは呆けたような顔を向けた。

「もっとも、あの絵に出会わなければ、おれもいまだお前を知ることはなかっただろう」

「あの絵って…俺の描いたサラマンダーのことか?」

「そうだ。…屋敷に着く前に少しだけおれの話をしようか」

 心の奥底を摑むような声音で、トキは話し始める。 


「四歳の時に両親を亡くしたおれは、ランディスで暮らしていた子どものいない叔父夫婦に引き取られた。そんな彼らも、おれが八歳になるころに病で亡くしているが」

 アルファザードの家には身の回りの世話役として、ワグナー一家が暮らしていた。

「ワグナーの者たちは使用人と言っても、アルファザードの両親にとって、古くからの友人だった。名は違えども、共に暮らす家族と言ったらわかりやすいだろうな」

 ワグナー夫妻には、一人の息子がいた。

「ユリウス・ワグナー。おれたちはユーリと呼んでいる。ユーリは年こそ離れているものの、おれの親友だ」

 幼い頃より肉親の縁に薄いトキを、ワグナー家の者たちが傍らで支えてくれたからこそ、トキが若くしてブックマスターになれたと言っても過言ではなかった。

「六年前、エイオスの祭りに行ったユーリは突然姿を消した」

「…お前はあの日、何が起こったのかを知っているのか」

 トキは無言でカイルの目を見返す。

 その沈黙こそが彼の答えを雄弁に物語っていた。

「知ってるんだな!?教えてくれ!エイオスで一体何があったんだ!!」

 つかみかからんばかりに迫るカイルの指先を、するりと避けたトキは呟く。

「なんのためにお前を迎えに行ったと思っている。じき屋敷に着く。長い話はそれからだ」

 トキの言葉に、カイルは開きかけた口を閉ざし、こんな時でも手放すことなく持っていた膝の上にある画帳を、青ざめた表情でじっと見つめた。



 やがて馬車がゆるやかに速度を落として止まると、巨大な玄関にはにこやかな笑みを浮かべた初老の夫妻が、まるでトキとカイルの到着を知っていたかのように待っていた。

「紹介する。アレン・ワグナーとシーラ・ワグナー。この家の一切を仕切る夫婦であり、さきほど話をしたユーリの両親だ」

「トキがお世話になっております」

 挨拶を述べるシーラ。

「ご迷惑をおかけしているのではないかと、案じておりました」

 穏やかな声で話しかけるアレン。

 使用人が主を呼び捨てする様子に戸惑うカイルを前に、アレンとシーラはくすくすと笑った。

「変わっているでしょう?けれど、様などつけて呼んだら、家出するがトキの口癖で」

「主に出て行かれては、私共も仕事になりませんから」

「そんなフォローなどせずとも大丈夫だ。カイルは案外いい根性をしているぞ」

 その声に、さすがにカイルもムッとした表情を浮かべた。

「トキ、君のその言葉遣い、もう少し何とかならないのか?」

 目上に対して傲慢すぎる、そう言ったカイルをトキは鼻で笑う。

「ブランク・マスターと呼ばれる者が想像以上に若い。どれほど称賛されたところで、実際のところ人が取る態度というのは決まっている。つまりガキでしかないおれはめられる」

「…だからといって、偉そうなのが常態というのもどうかと思うけど」

「おれが目指すものに、若いからなんてカビの生えた形容詞はいらない。ならば、生意気と憎まれるくらいの方が対処は楽だし、むしろその方が耳目を集められ好都合というものだ」

「なんだよ、それ…。単なる傲慢じゃないか」

「そうとも言うな」

 笑みを浮かべたトキは、カイルが手に取るに違いない、そんな意図をもってブックをテーブルに置いた。

「少しだけ待っていろ」

 そう言い置き、部屋を出ていく。


「…ったく、悪びれもせずに」

 忌々しげに漏らしたカイルの目は、当然のようにトキが置いたブックに吸い寄せられていく。

「ブランク・マスターか…」

 トキの意図したことなど微塵も疑う様子のないカイルは、触れてもいいのかをしばし迷っていたが、好奇心には勝てずにブックに手を伸ばしていた。

「何も描かれてない真っ白なブックが本当だとしたら、一体あいつ、どうやって精霊を召喚してるんだ?」

 何気なくページをめくった瞬間、それはなだれ込んで来た。

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