第6話

「ユーリと、ユーリの信じる者を私が疑うわけがない」

「…ありがとう」

 オルガの額にキスを落とすと、そっと腕をほどいた。

「説明している時間はないけど、見守ってて」

 不安げな表情など欠片も見せることなく、オルガは頷く。

「ならば私も、見届けなければな」

 そう言ってオルガはくるりと向きを変え、自らの背をユーリの体に預けた。

 ぬくもりを受け止めたユーリは柔らかく微笑み、再び宙に浮かぶ二つの紙束へと意識を集中させる。


 挿画そうがが施された一冊は、ひどく安定していた。

 だがもう一冊の何も描かれていないものは、どこまでも強い可能性を秘めているのと同時に、その存在自体が不気味なほど揺らいでいる。

 挿絵さしえのない白紙のブックなど、本来ならば何の意味すらなさないにもかかわらず、手にする者の生命を喰らい尽くし明日なき身とする執念が、何も描かれていない方の束には、地に根を伸ばすようにまとわりついていた。


 ミョルニルとは、拮抗するものを同時に生み出す力。

 安定と不安定、確かに対になる存在としての均衡は取れていた。

 それがゆえに、これを仕掛けた者が力を振るうことに焦がれながらも、生み出すことに恐れを抱いていたのが伝わってくる。

 こんなくだらないものに、皆が…。

 思わずこぼれそうになる言葉を、奥歯を噛みしめて飲み込んだ。



 物心つく頃から、ユーリは人や物の持つ悪いものをもつれた糸をほどくように、軽くすることができた。

 誇張ではなく文字通りそれが〝糸〟として見えるのだ。

 人に関して言えば、もつれているものは大概が病や痛みが原因であったため、その後の治癒力を高めるために薬草を使うことから、総じて医術にも明るくなり、薬師を名乗るようになった。

 ただし心を通わせた者の糸ならば容易くほどけても、初めてのものに対しては見極める時間が必要だった。

 じわじわと頭上に迫り来るブックの動きを見る限り、時間的な猶予があるとは思えない。

 その上、何も描かれていないブックに刻まれた呪いは強硬で、時間をかけたところで、すべてを打ち消すことはできそうもなかった。

「でも、捻じ曲げて形を変えるのなら、できなくはない…かな」

 ユーリは一人ごち、天に腕を伸ばす。

 もつれる糸をからめ取り、その存在を確かめると、聞こえてきたものに眉根を寄せた。

〝この書の主となる者は、朝を迎えることなく死を臨む″

 卑しくも厭らしい呪いがユーリの中に思いとして流れ込む。

 けれど、彼ならきっとこんな力さえはねのけてくれる。

 

「私の弟も、力になれたなら良いのだが…」

 胸に伝わる、オルガの呟き。

「なれるよ。彼はきっと、君の弟にも辿りつく」

 トキなら必ず、困難さえも乗り越えてくれる。

 トキという存在を知らないからこそ、ミョルニルを用いたその者はこのような途方もない過ちを犯せたのだ。

「僕のマスターに喧嘩を売ったこと、せいぜい後悔するといいよ」

 不敵に呟くと、絡まる糸を別の流れとして結びつけた。

 どっと流れ込んで来る力。


 ああ、伝えなければ。

 片腕をオルガに回し、残る腕で腰にいていたナイフを手にしたユーリは、ありったけの思いを込める。

 やがて、形容し難い衝撃にわれ、ユーリの記憶はふつりと途切れた。

 それでも、抱きしめたオルガの身体だけは最後まで離さなかった。

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