第4話

「まさか、アカデミーに入って二年で卒業するなんて、思ってもいなかったよ。しかもいきなり最上位のマスターオブマスターになっちゃうなんて、本当にトキらしいね」

 手放しの賛辞にも、おれがこうしていられるのはお前たちのおかげだと、トキは少しもおごることはなかった。


 ユーリの父アレンと母シーラとが、いつも以上に豪華な夕餉ゆうげを用意するのを眺めていた横顔から、その言葉は不意にこぼれた。

「…なあユーリ。あらゆる精霊を使役できるブックだが、どれほど望んでも決して描かれず、召喚できぬものがあるんだ。お前は、現世のどこかに眠るという〝ミョルニルのつち〟の話を聞いたことはあるか」

「ミョルニルの槌…?聞いたことないなあ。けど、人が描けないほどの力なんてあるものなのかな。それはトキにも召喚できないのか?」

「今まで手がけようとした者はすべて、一筆であらざらぬものを見、二筆で自我をなくし、三筆で落命しているそうだ。完成させた者は誰もいない。いかに優れたブックマスターであってもその名だけは、召喚の意思を持って口にすることはできない」

「それ、本当?」

 トキは頷いた。

「召喚しようと思い浮かべてみたところで言葉が出て来ない。名を呼べぬのは事実だ。無論ブックマスターすらためらうものを、挿画を手掛ける絵師たちに描けと命令することも不可能だ。たとえ叶ったとしても、それは優秀な絵師に向かい死ねと言うのと同じになる、そういうことだ」

「…そうだね」

 いつでもまっすぐで、自ら思うものを迷いなく示すこの少年を、ユーリは誰よりも誇りにしていた。


「ミョルニルにはかつて、神々の間で大きな戦があった際に用いられたという逸話が残っている。敵対するものを一撃で滅ぼしたとも、死した者を再び蘇らせる力があるとも聞く。ゆえに破壊と再生、拮抗するものを、同時に生み出す力を持つと言われている。神の領域の代物ならば、ミョルニルを人が用いることはできんのだろう。だから、一体どんな力なのかも知る者はいない」

「誰も知らないのに、そういう話ってどうして伝わるんだろうね」

「何らかの脅し、あるいは教訓として残さざるを得なかったのだろうな」

 肩を竦めたその表情は、いつもと変わりなく見えた。

「おれがブックマスターの道を選んだのはおれ自身の意思だ。己の求めるものに忠実であれるのなら、誰に何を言われようが一向に構わん。だが、おれも人間であり、どんな時でも見誤らずにいられるとは限らない」

 その言葉通り、若くしてマスターとなったことをどれほどやっかまれても、今に至るまでトキが揺らぐことはなかった。

 強い意志の前にある輝きは、決して鈍ることはないのだと、ユーリは誰よりも聡明で誰よりも大切なあの幼き主から教わった。

 そして、あの日トキはこう言った。

「万一おれが、何かを見誤った時には…ユーリ、お前がおれのミョルニルとなれ」

 なぜ彼があんなことを口にしたのか、今ならわかる。

 トキはユーリに、いつでも己の抑止の存在たれと望んだのだ。

 この状況をトキが知ったなら、彼は必ずユーリを救うために動くだろう。


 トキ。

 音にせぬまま、その名を呟く。

 若木のようにしなやかで、誰よりも力を持ったユーリのマスター。いつだってその響きは、心を強くした。

 そして思いは変わらぬまま、もうひとつの守りたいものが出来た。

 それは、誰かを切り捨てなければならないものでも、どちらの存在が重いかを測れるものでもなく、あの時彼が笑ったように、無限の可能性を広げてゆけるものなのだと思う。

 オルガをトキに紹介すると約束した。

 どんなことがあっても、必ず彼の元に帰る。

 けれど、そのためには…。

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