06

「ただいまー。……?」

 自宅に戻った魁人の鼻孔が異臭を吸い込む。鉄と生臭さを混ぜた、湿っぽい臭いだった。玄関には二セットの革靴が鎮座ちんざしている。珍しく、両親共に帰宅済みであるようだ。その割に、返事はない。

 玄関で立ち止まったまま、魁人はなんとはなしに鼻をこすった。漂うぎ慣れない臭いが、胸にもやもやとした不安を覆いかぶせる。

「父さん、母さん? 帰ったけど」

 足だけで靴を脱ぎ、リビングに向かう。固まり、重くなる不安に足を取られつつも進み、閉じたドアに手をかける。泥沼どろぬまを歩くような感覚を味わいながら、意を決して扉を開いた。

「……!?」

 魁人の息が一瞬止まった。

 ゆっくり暴かれるリビング内、一層強くなる異臭の中で目にしたものは、床に伏す母と、ソファで動かない父。フローリングを塗り替える赤い水には細かな肉が浮いている。そしてそれらの前には、魁人に背を向けて立つ和服の人影。

 逆光の夕日にさらされた影は、石めいて硬直する魁人を見かえり、小さく口元を動かした。

「……まさん……倉島さん!」

「っ!」

 はっと我に返った魁人の瞳に夕日が差し込む。木琴めいたサウンドが流れ、対面するモニタには次の停車駅の名前と路線図。加えて、隣に心配そうな顔をする幼女。

「……大丈夫? ぼーっとしてたけど」

「ああ、うん。ちょっと考え事をさ」

 はぐらかすように笑って、窓の外を見やる。四角く区切られた景色は夕焼けに染まる平原なのだが、現代東京の地下鉄横にこんな場所があるはずもない。スクリーン車窓に映された、イミテーションの産物である。

 偽の風景を眺める魁人の顔を、中山なかやまはるは小ぶりなツインテールを揺らして覗き込んだ。

「倉島さん、さっきの会議の時もしてなかった? 何考えてたの?」

 問われ、魁人の視界がフラッシュバック。去来する様々なものを振り払い、モニタを取り外す。現時刻は十七時ちょうど。画面を切り替え、ソフトドリンクを注文。

「……色々。それよりはる、時間はいいの?」

 曖昧あいまいに答えて聞き返すと、小学五年生はこくりとうなずく。

「いいの。おばあちゃんにはちゃんと言ってあるし、宿題はおじさんの車乗ってる時に終わらせたから」

「宿題かー……俺もやんなきゃ。なんか飲む?」

「自分で買う!」

 言うが早いか、華はすぱっとタブレットを取り上げいじくり出した。

 今の日本では子供は一八歳で成人をむかえ、様々な職場のスカウトを受けるが、警察を始めとした司法・政治に関わる機関は志願制で、一年に渡る試験・研修・診断を繰り返して選抜される難関職だ。その募集条件は二十歳以上で大学院まで出ていること。

 しかし、表向き機動隊員の魁人は大学生。華に至っては小学生で、機動隊員ですらないが、警察の仕事を許可されている。それはチーム全員共通の事情と実力にともなうものだが……。

 悶々と考えていると、目の前の壁がガコンと開きグラス入りの紅茶をサーブ。同じく華にはコーンスープが出された。

 熱々の黄色いスープに息を吹きつつ、華はぼそりとつぶやく。

「倉島さん。実は犯人、わかってる?」

 心臓が跳ね、アイスティーを吐きかける。どうにか嚥下えんげしてひとしきりむせると、華が疑わしげな視線を向けていた。

「やっぱり知ってるんだ……」

「い、いや、ちょっと待った! ごほっ!」

 飛び出すせきを深呼吸して落ち着け、冷たい紅茶を一気に飲み干す。

「……心当たりがないわけじゃない。でも顔も名前もわからないし、そもそも五年も前の話だ。アテにならないよ」

 白状するも、じとっとした視線は消えない。たとえ小五であっても、華は曲がりなりにも警察だ。頭はそこらの高校生を凌駕りょうがする。

 若干無理があっただろうか。冷や汗をきつつ黙っていると、コーンスープをちびちび舐めつつ切り替えた。

「ふーん。じゃあ、折り紙は?」

「これか……」

 こっそり胸をで下ろし、スーツのポケットを探る。四つ折りの赤い紙を開けば、『くらしまかいと様』から始まり、とある養護施設に来いと赤い文字でつづられていた。ご丁寧に、時刻指定。

「これこそサッパリ。鶴折って手紙渡す知り合いなんていないしさ」

「でも、倉島さんてだよね。名前ちゃんと書いてあるし」

「それなんだよなぁー」

 昔のネット暴走期では、顔だけで生まれた病院までわかったらしいが、今それをやれば無期懲役。リスクを負ってまで特定されるいわれはないし、知り合いならメールで十分。だが、なぜか自分宛てだという確信がある。根拠はない。

 折り紙をにらむ魁人の耳に、目的地に到着するとアナウンスが流れる。魁人は息を吐いて背中を伸ばした。

 地下鉄は名目上、痴漢冤罪防止のため個室化されており、乗客へのサービスが徹底される。反面、目的の駅につくまで席を立てず、ずっと監視下に置かれる閉塞感へいそくかんがどうにも慣れない。

「とりあえず、行くだけ行ってみる。収穫があれば万々歳ばんばんざい

「なにもなかったら?」

「次に行く」

 華のスープカップを受け取り、窓枠下のダストシュートに投げ入れる。自分のグラスも投げると、ちょうど地下鉄が止まった。座席と通路を隔てる壁が自動で開き、早く降りろと催促してくる。

「それじゃ、私用で悪いけど付き合って。帰りは送る」

「ん」

 折り紙をたたんで仕舞しまう寸前、下げたケースが震えた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る