第5話 千秋楽 結びの一番
その日は月が明るい夜であった。
背広姿の男が一人、河中公園を歩いていた。えらく猫背であり、そしておぼつかない足取りをしている。どうやらサラリーマンらしき男は、だいぶ酒が入っているようだった。
男は湖の側のベンチに腰掛けると、携帯電話をいじり始める。
やがてその携帯をポケットに収めようとして、だが手元が狂い落としてしまった。
「おっと」
そしてさらに不幸なことに、その携帯を足で受け止めようとして逆に蹴ってしまった。蹴った先にあるのは湖である。ぽちゃん。
「あああーーー、俺のスマホがああーー!」
男は地団駄を踏んで悔しがるが、もう遅い。
「ちくしょーー! ふざけやがってーー!」
大騒ぎした末に、ふと、男は湖を見た。なんだかこの辺りは、大して湖が深くないように見えるのだ。そして男は実に酔っ払いらしい判断をした。背広のままザブザブと池に踏み込むと、携帯の落ちたあたりを探し始めたのだ。
ところで酔っ払い。大騒ぎしても人が来なかった。
つまり条件はそろっている。
気付けば男の足を、青白い手が掴んでいた。
「な、なんだっ!」
男は恐ろしい力で引き倒され、そのまま引っ張り込まれていく。抵抗らしい抵抗もできず、湖は顔がもう出せないほど深くなっている。
男は必死で掴みかかり、
自分の足と『手』を、手錠で繋いだ。
“ナニ……?”
ヌタリヌタリの訝しげな声が聞こえた。
男の背広から無数に放出されるケミカルライトが水中を照らす。
男からゴキゴキと怪音が響く。見る間に猫背が伸び、肩幅が広がっていく。
――矮躯術
ジプシーの奇術に起源を持ち、かつてはアルセーヌ=ルパン、オペラ座の怪人も使ったと言われる由緒正しい怪人の変装術である。背広を脱ぎ捨てダイバースーツ姿を現す頃、男は190センチを優に越す大男へと変貌していた。
そして彼の背部からは、シュルルル、とワイヤーが駆動する音が聞こえている。そのワイヤーによって男の左手へと引き寄せられたのは、大ぶりなヘルメットであった。
送気式潜水ヘルメット。
ダイビングのようにボンベを背負うタイプではなく、完全に頭を覆い地上から長い送気用ホースで空気を送り込む装備である。今回彼がこれを選んだ理由は3つ。ボンベが無い分動きやすいこと。完全に首まで覆うヘルメットであるため、ヌタリの首絞めに対する防御が期待出来ること。
そして3つ目は、
「しゃべれるからな!」
ヘルメットを装着したカルトは言った。
「さあ、千秋楽といこうか!」
“貴様はあの時の――”
人間ごときが罠を張っていたという不合理な事実に戸惑う隙に、カルトの策は発動していた。河右衛門が湖の底に仕込んだ巨大な網が浮上し、カルトもろともヌタリヌタリを包み込もうとしていたのだ。
“ナッ――”
驚愕するヌタリの手をカルトが掴み、動きを阻害する。もはや水中に逃げ場は無い。
だがヌタリヌタリがとった手段はさらに『上手』であった。文字通り上へ、水面まで超高速で泳ぐと、カルトという重りをものともせず水面から跳ね上がったのであった。
遥か十数メートルも跳ぶと、網の包囲を脱して湖面へと着水する。
「やるな――」
カルトもこれにはさすがに舌を巻く。
この妖怪のパワーは、やはり生半可ではない。
“貴様人間ゴトキガ、ヨクモ俺様ヲ――”
罠を脱して凄むヌタリヌタリは、だがそれを目撃する。カルトの背部の装置は、今の攻防の間も巻き取りを続けていたのだ。それはすでに彼の両手に一丁ずつ収まっている。
特注・強化型6連装水中用大型スピアガン。
大型銛を打ち出す水中銃である。それを左右合わせて十二連発。
「喰らっとけ」
僅か数メートルの距離から連射する。
だが、
「なに――っ!」
カルトは今度こそ驚愕する。
ヌタリヌタリはその無数の手で、発射された十二発全てを刺さる前に掴み取っていた。
「じょ、冗談じゃない。スタープラチナかこいつは……」
いくら水中とは言え。いくら沢山手があるとは言え。
だが地上なら鉄板すら貫通する特注スピアガンを……。
さすがにこれをノーダメージで凌がれるのは、カルトの予想外であった。
“コンナ物デ、ドウニカナルトデモ?”
「……」
カルトも今回は返す言葉が無い。
この段階で、かすり傷ぐらいは与えておきたかった。
だがともかく時間は稼いだ。
カルトの手元にやっとそれが到着する。
その重さのため、手元に至るまで時間がかかったのだ。
長さ1メートル。太さ15センチ。
先端がわずかに円錐状になったその物体を、沼の妖怪はきっと見たことがないだろう。
だが今回の作戦名を聞けば、誰でも分かるはずだ。
カルトはそれを構える。
今回の河右衛門とカルトの共同作戦。
そのコードネームは、
『とある漁船の捕鯨砲(ホエールガン)』
● ●
河右衛門は戸惑っているようだった。
「え、なんて言ったカパ」
「捕鯨砲を購入しました」
先日の二度目の相撲直後の話である。
精根尽きた二人は、土俵の上で大の字になり話していた。
「え、それ高くなかったカパ」
「いえ、さほどは」
「具体的には?」
「ちょっと高級な車が買えるぐらいです」
「ちょおおおおっ」
繰り返す。二度目の相撲直後の話である。
「も、もし今日負けたらどうしたんだカパっ!? なんでそんな高価な物、相談無しに買っちゃうカパっ」
「まあ、あとで言えば良いかと思いまして」
「うおおおお、相変わらず恐ろしい男はカパっ」
河右衛門は思わず腹に手をあてる。
「話聞いてるだけで胃がキリキリするカパ。ホウレンソウが全然出来て無いカパ。もしコイツが職場の後輩だったら胃潰瘍で吐血してるとこカパ」
「お言葉ですが河右衛門殿。俺も新入社して上司がカッパだったら、さすがに転職を考慮します」
「く……どっかズレてるくせに口が達者カパ……。だいたい、そんなお金どうしたカパ?」
「経費で落としました」
「どこのぉっ!?」
「実は友人達と一緒に起業してるんです。クラウドファンディングでお金集めて」
「起業?」
「はい。会社の名前は『泊まり屋本舗』って言うんですけど」
「泊まり屋? なにしてる会社だカパ?」
「依頼先に登録制のバイトを派遣して北枕でお泊まりする仕事です」
「ん……え、それ大丈夫カパ? 若干犯罪臭がするカパ」
「評判良いんですけどね……まあ、ともかくもともと捕鯨砲は機会があったら入手しようと思ってたんですよ。企業で研究資材の名目で購入すると、大型猟銃免許いりませんし」
「……なんだろう。突然バカに刃物って言葉が思い浮かんだカパ」
「いやいや、冗談抜きで聞いてください。繰り返しになりますが、今回の作戦の基本方針はヌタリを地上に引きずり上げて二人で戦うことだと思うんです」
「う、うむ……」
「そのための作戦第一弾はやはり網です。最近のケブラー繊維なら大鬼クラスの怪力でも通用しますし、捕まえて引き揚げたら自動的に拘束が完了していて理想的です」
「なるほど」
「ただしこの作戦は非常に成功率が低い。高く見積もって30%です」
「……どうしてそんなことが分かる」
「大きな原因はヌタリが魚と違って知性と手があることです。このため一般的な投網方式ではなく、ブービートラップのような網を巻き上げる仕掛けを使わざる得ないんです。その場合相手のホームフィールドに設置するため事前の練習が出来ず、一発勝負になってしまうんです」
「なるほど、そのへんを考慮して30%カパ」
「なので網は上手くいけばラッキー程度の作戦。本命はスピアガンです」
「スピアガン?」
「銛(もり)を打ち出すタイプの銃の総称です。河右衛門殿は、人間の普通の攻撃じゃ妖怪を傷つけられないことをご存知ですか」
「まあ、なんとなく」
「妖怪は我々人間の思いが結晶化したものなので、一般的なイメージによって守られているんですね。我々は基本的に、妖怪や幽霊に銃やナイフが効くというイメージは持っていない。なので実際にナイフで切りつけると一旦は傷がつきますが、すぐに大衆概念からの修正を受けて10秒程度で傷が塞がってしまう」
「まあ、そうだカパね。妖怪を倒せるのは同じ妖怪からの攻撃か、あるいは同じ常識外の存在である超能力や霊能力による攻撃だけカパ」
「ところがです。我々一般人でもある程度有効な手段が、銛や返しのある矢なんです」
「そうなのカパ?」
「はい。銃弾程度だと傷が治る際に排出されてしまうのですが、銛の大きさになると食い込んだまま先に傷が埋まってしまい逆に抜けなくなるんです。もちろんそれで致命傷にはなりませんが、動き鈍らせる程度の役割は果たせます」
「なるほど。だからスピアガンカパ」
「はい。まずはスピアガンで動きを制限します。それで牽引釣り上げ出来るぐらい弱らせることが出来たらそれまでですが、もしダメだった場合に使うのが」
「捕鯨砲カパ……」
「はい。捕鯨砲は世界一強力なスピアガンです」
「なるほど。理屈は分かったカパ……でも、それにしたって、捕鯨砲を買っちゃうなんて思い切ったカパ……」
「まあ、俺はなんの才能も無いただの人間ですからね。練習積んで、知恵絞って、金を積んで、それでなお越えられない壁がある。命を賭けるのはそこからです。じゃないといくつ命があっても足りませんからね」
カルトのあっけらかんとした様子を見て、河右衛門はむむうと唸る。
「なんか、オイラの知ってる妖怪退治と違うカパ……」
● ●
ヌタリヌタリの絶叫が湖を満たしていた。
無傷であるはずのヌタリが捕鯨砲を見事に喰らったのは、油断のためか。
否。
たとえ油断していなくても、結果は変わらなかったであろう。
今回カルトが用意したそれは、ヌタリの想像の範疇を完全に越えていたのだ。
それは時に内臓を食い破り、たった一撃でクジラを絶命させる兵器である。
“グゥグギィヤアアアッッッ”
ヌタリは悲鳴をあげて暴れ狂う。だが太さ7センチの鋼鉄の杭は、体内奥深くに刺し込まれていた。時間をかけて処置せねば抜けるものではない。
「ざっまああああああ!」
カルトはすぐに腰の操作盤を使い、遠隔操作で銛についたワイヤーを巻き取り始める。巻き取り装置は地上に固定してあるため、このままヌタリは地上送りである。
はずだった。
「ん……?」
巻き上がらない。
ギリギリと、ワイヤーが異音を立てていた。
「嘘だろ……これ、シロナガスクジラだって釣れるのに……」
ヌタリヌタリのパワーは、それ以上だと言うのか。
ブチンッと音が響き、カルトの足とヌタリの手を繋いでいた手錠がちぎれる。慌ててその手を捕まえるとともに、今度はカルト自身が身につけたワイヤー巻き取り装置も全力作動させる。
だが上がらない。巻き取り装置二つがかりでも上がらない。
暴れるヌタリヌタリとカルト、ともに水深を深めていく。
「く……まずい……」
その時、ヘルメット内でピーーという電子音が響く。
4分経過の合図だ。
カルトは水中戦の時間を、最大5分と計画していた。
5分経っても帰還しない場合、失神などで自己判断困難な状況にある可能性が高いと想定し緊急離脱措置を発動する打ち合わせとなっているのだ。
あと1分しかない。
カルトは最終手段であるそれを手にする。
それは捕鯨砲とともに手元に届いた、ごく普通のワイヤー付き単発水中銃である。
カルトはそれを、ヌタリヌタリへ向けて発射する。
だがダメ。
痛みに苦しんでいても、ヌタリヌタリには無数の目がある。単発の銛などやすやすと掴みとってしまう。
しかしカルトは諦めなかった。
ヌタリヌタリの手を左手で絡め取る。
そして右手で銛の持ち手を握ると、力任せでヌタリヌタリに向かって押し込み始めたのだ。
「おらあああああああっ!」
カルトが叫ぶ。腕の筋肉が大きく隆起し、何本もの血管が浮かび上がる。
“ナッ……”
ヌタリヌタリは戸惑っていた。
カルトのその必死の形相に。
理解出来なかった。
なぜ今さらそんな銛一本を、必死になって刺そうとしてくるのか。
だが感じる。マズイ。
この人間がすることを、絶対に舐めてはいけない。
なんだか分からないがマズイ!
何本も手を使って銛を止めるとともに、カルトへと掴みかかる。首が絞められないので、ヘルメットごと握り潰そうとする。
すぐにヘルメットにヒビが入り、浸水が始まる。
「う、お、お、お、ご、ごばッっ」
だが人間は逃げようともしない。
もはや全て浸水した中で、ゴボゴボと叫びながらちっぽけな銛を刺そうとしてくる。
まるで理解が出来ない。
“ク、狂ッテル――”
恐ろしい。
何なのだ、この人間は。
そしてその銛が。
1ミリまた1ミリと迫って来ていた。
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