脳筋令嬢、後宮入り初日(1)

 一人では持て余す程度に広い部屋の端に、大きめの寝台が一つ。中央には一人掛けのソファがテーブルを挟んで対面するように設置されている。花瓶の一つをもってしても、平民の一ヶ月の給料が丸々吹き飛ぶ代物であり、照明のシャンデリアに至ってはその値段すら想像がつかないだろう。

 そんな豪奢ごうしゃな部屋は、ガングレイヴ帝国宮廷の裏手に存在する、後宮と呼ばれる建物の一室だ。


「……むぅ」


 ソファに腰掛け、ヘレナは小さくそう唸った。

 今日、ヘレナは後宮へ入った。アントンから話を聞いて三日目、という素早さである。恐らくヘレナがどう返事をしようと、アントンは決して退かなかっただろう。準備万端であったがゆえの速さだ。

 一人では持て余す広い部屋。

 その中央に、たった一人だけでいるのは、あまりに寒々しい。


「壁の装飾品は高そうだから、懸垂をするには不向きか。シャンデリアに当てるわけにもいかないから、剣も振れない。しまった。これでは腕立て伏せと屈伸、腹筋くらいしかできないではないか。くっ……せめて誰かを連れてきていれば、肩車をして屈伸をするのに」


 規則で、後宮入りをする令嬢は、雇っている侍女を一人随伴させて良いと決まっている。基本的に一人までとされており、それは一人必ず連れてこい、という訳ではない。

 そして、特に世話をされていることに慣れていないヘレナは、レイルノート家の女中を連れてこようとは思わなかった。元より四六時中戦場にいるわけだから、ヘレナが気を許せる女中など家にいない、というのもその理由の一つである。

 だが、こんな豪勢な部屋に入りながら、考えるのは鍛練のことであるあたり、ヘレナの残念さは留まるところを知らない。


「しかし、まさか父上が私を『三天姫さんてんき』の一人にねじ込むとは……」


 後宮内には、圧倒的な身分の差が存在する。

 それはヘレナの出自である侯爵家という家名も然り。だがそれ以上に、『三天姫』『九人くにん』『二十七婦にじゅうしちふ』『八十一女やそいちめ』という四つの階級に分かれる立場の差がそれだ。

 三天姫とは、『陽天姫ようてんき』『月天姫げつてんき』『星天姫せいてんき』の三名だ。

 この三名は、それぞれ正妃に最も近い立場とされる。だからこそ与えられた部屋も豪奢であり、他の側室の部屋と比べれば広すぎる、とさえ言えるだろう。

 

 ヘレナは三天姫が一人――『陽天姫』。

 自分が姫、と冠されて呼ばれるということには違和感しか出てこないけれど、公式的にそうなっているのだから仕方ない。

 ひとまず、考えてもどうしようもない。じっとしていても居心地が悪いし、少し腕立て伏せでもして落ち着こう。

 そんな筋肉な考えと共に、ヘレナは立ち上が――ろうとして、そこで部屋の扉がノックされた。


「失礼いたします、『陽天姫』様」


 応じた言葉と共に入室してきたのは、ヘレナよりも二十は年上であろう女官だった。

 顔に深く刻まれたしわと、鋭い眼差し。しかし若い頃はさぞかし美人だったのだろう、という名残は残っている。

 そんな女官が、まさに女官の鑑、とさえ言えるほどの流麗な動作でヘレナへと頭を下げた。


「後宮の女官長を務めております、イザベル・アクレシアと申します。後宮での生活に不備などございましたら、わたくしまでご一報くださいませ」


「あ、ありがとうございます、イザベル様」


「失礼ですが『陽天姫』様……三天姫が一人である『陽天姫』様は、陛下に正妃がおられない限り、その立場は正妃と全く変わりません。どうか、わたくしのような下々の者にまでへりくだられぬよう、お願いいたします」


 おっと、とヘレナは自分の失言に目を泳がせる。

 とりあえず相手を様付けで呼んでおけばどうにかなるよね、と勝手に思っていたけれど、『陽天姫』という位置にいるヘレナにとって、イザベルに対して敬称をつけるのはおかしかったようだ。

 正直面倒極まりないが、身分とはそういうものなのだから仕方ない。


「それは失礼いたしました、イザベル」


「どうかそのように、謙った物言いもできればおやめください」


「む……ええと、すまない。イザベル」


「はい。そのようにこれからも振る舞っていただければ幸いです」


 女官長――イザベルは頭を上げ、それからこほん、と咳払いをする。そのような所作でさえもやはり流麗なのは、イザベルがそれだけ良い出自の女官であるという証だろう。そして、皇帝の威厳そのものである後宮をまとめている、という手腕によるものだとも言える。

 色々とヘレナも取り繕っているけれど、恐らくイザベルと並べば簡単に露呈してしまうだろう。というか、している。


「『陽天姫』様は、侍女をお連れになっていない、と伺いましたが」


「自分の身の回りのことならば、自分でできるからな」


「なるほど……ですが、正妃候補としてそのお考えは慎んでいただきたいと思います。早急に、『陽天姫』様の部屋付きの女官を手配いたしますわ」


「あ、ああ……よろしく頼む」


 イザベルの有無を言わせぬ迫力に、思わず仰け反ってしまう。

 ヘレナの方が立場としては上だが、恐らくこれを拒否することなどできないだろう。万の軍勢を相手にするよりもやり辛い。

 将軍の素質あるんじゃないだろうか、などとどうでもいい考えが過って。


「我々、女官一同も『陽天姫』様のご活躍に期待しておりますので」


「……は?」


 思わぬイザベルの言葉に、そうヘレナは間抜けな返事しか出てこなかった。

 特に後宮の女官が期待するようなことを、ヘレナはしていない。もしかして、元軍人である、という経歴が何か救いになるのだろうか。もしかして、女官の武術指導をしてくれとか。だがそれは、ヘレナの知る限りどう考えても側室の仕事ではない。

 だがそこで、イザベルはおほほ、と口に手を当てて笑った。


「わたくし達は後宮を管理している女官ですわ。表の政治事情も知っております。アントン・レイルノート宮中侯が、どれほど心を痛めているのかも分かっておりますわ」


「……」


「ノルドルンド侯爵との対立は、宮廷を二分するものだとか。ですが、三天姫の一つである『月天姫』に縁戚のシャルロッテ・エインズワース伯爵令嬢が位置したことで、ノルドルンド侯爵の発言力が強まっております。しかし、ここで『陽天姫』にレイルノート宮中侯の息女であるヘレナ様が入られたことで、戦況は五分になっているのだとか」


「なるほど」


 そう答えるが、当然ながらさっぱり分からない。

 何故、表の政治でアントンとノルドルンド侯爵が揉めていて、後宮に自分が入ったことで戦況を覆しているのか。

 どうやらヘレナの考えている以上に、政治の世界というのは奥が深いらしい。


「ええ。『月天姫』様はノルドルンド侯爵の縁戚でしかありませんが、『陽天姫』様はレイルノート宮中侯の息女ですから。どちらが宮廷において強い力を持つかは、言わずともお分かりでしょう」


「……そ、そう……うん、そうだな」


 イザベルの言葉に、ヘレナは分からないままでそう返す。

 だが、ヘレナが『陽天姫』となったところで、現状など特に変わらない気がする。皇帝がこの部屋へ来ることなどないだろう。

 ヘレナは二十八歳。現皇帝のファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴは十八歳だ。その年の差は実に十歳。

 十歳も年上のヘレナなど、ファルマスからすれば完全にとうの立ったオバサンにしか過ぎないのだ。


「確実に、『陛下がレイルノート侯爵令嬢を正妃候補にした』という事実は広がるでしょう。陛下が宰相を疎んじているのは噂に高いですが、それほど疎んじている宰相の娘を正妃候補にした、ということはそれだけ価値が高いのではないか、と」


「……い、いや、その……私には、よく分からないのだが」


「これまで社交界に関わってこられなかったと聞きますからね。別段、無知は恥ではございません。これから学んでいけばよろしいのです」


 分からないことを正直に言ったけれど、どうやら謙遜けんそん的な感じに受け取られてしまった。

 そこで、おおっと、とイザベルはわざとらしく声を上げる。


「申し訳ありません、『陽天姫』様。随分と長居をしてしまいました」


「いや、構わんが……」


「お困りのことがございましたら、部屋付きの女官かわたくしまでお知らせください。それから――」


 そこで。

 イザベルは、特大の爆弾を落としていった。


「――今宵、陛下がこちらへお渡りになります」



     ◇◇◇



 どうしてこうなった。


 ヘレナの心を占めるのは、そんな疑問だ。どうやら今夜、現皇帝ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴがこの部屋へ来るのだとか。

 そして皇帝が後宮の一室を訪れる、という意味について分からないほどに、ヘレナは子供ではない。

 勿論もちろん、何の経験もないために想像の域を超えない行為ではあるが、少なくとも夜の暗がりの中でしかできない行為に及ぶことは間違いあるまい。

 ひとまず心を落ち着かせるために腕立て伏せを二百回こなして、ヘレナは額に滴る汗を乱暴に手で拭った。


「うぅむ……」


 体を動かし、いい汗を流したことで少しはすっきりしたけれど、とはいえ目下の問題点は何一つ解決していない。

 皇帝陛下が訪れる、ということは少なからずもてなす必要があるだろう。そしてもてなすためには、酒だとか料理だとかが必要になってくる。幸いにして部屋の隅に簡易な台所はあるため、何かつまみになるようなものを作ればいいだろう。

 材料は厨房に分けてもらって……いや、それなら厨房に何か作ってもらうように頼んだ方が早いのではないだろうか。

 色々と斜め上になってゆく思考に、あーっ、とヘレナはもう一度考えを放棄して、腕立て伏せを百回追加した。


「さて」


 都合三百回の腕立て伏せを終了し、ヘレナは立ち上がる。

 今夜、ここに皇帝陛下が訪れるらしいけれど、未だ太陽は高く昇っている昼間だ。今から悩んでいたところで仕方がないだろう。

 ならば、今できることをすべきだ。


「まずは……やはり、挨拶回りか」


 新人として最も大切なのは、挨拶である。

 甘やかされて育てられた貴族の子息などは、軍に入った後も傲慢に振る舞うことが多い。そのために先輩に対しての挨拶すらも行わないのだ。比べて、子爵や男爵といった下級貴族の子息は軍で功績を上げて、実家を助けるという目標を持っているため、礼儀礼節をしっかり守っている。だからこそ、先輩に対しても挨拶を欠かさない。


 そして、そんな二人の新人がいれば、先輩が可愛がるのはどちらかなど一目瞭然だろう。

 ヘレナだって、かつては慇懃無礼な貴族の子息を徹底的に虐め、素直な民兵を可愛がったこともある。それだけ、対人関係において傲慢にならないことは大切なのだ。

 そのためにも、まず行うのは挨拶回りである。


「では、近所の部屋から回っていくか」


 挨拶回りというのは、自分の存在を紹介すると共に友好的な姿勢を見せることで、相手の警戒心を解く効果もある。

 ヘレナは軍に在籍していた期間が長く、それだけ社交界から離れているのだ。恐らく全く、ヘレナのことは認識されていないと思っていい。今回訪問することで、「こんな令嬢(笑)もいるんだよー」くらいに認識してもらえればいいだろう。


 本来ならば侍女の一人でも連れていくのが当然なのかもしれないが、生憎ヘレナ一人しかいないため、身一つで行くことにする。

 何か手土産でも持っていく方がいいのだろうか、とひとまず持ってきた荷物を見て、生活用品と酒くらいしか持ってきていないことに気付く。何か贈り物になりそうなものは特に持ってきていないし、酒は自分で飲むために持ってきたのだ。

 ま、いいか。

 ひとまずそう判断して、ヘレナは手ぶらのまま部屋の外へと出た。

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