脳筋令嬢、後宮へ入る(2)


「……どういうことですか」


「か、書いてある通りだ! だ、だから離せ、ヘレナ!」


 ヘレナは戦後の雑務や近衛の宿の手配などの事務を終え、帝都の南に位置する実家――レイルノート侯爵家へと戻った。

 待っていた、とばかりにその帰参直後に父、アントン・レイルノート宮中侯に呼び出され、家の中にあるアントンの執務室にて渡された、一枚の羊皮紙。

 それに書いてあった意味の分からない言葉に、ヘレナが導き出せた言葉はそれだけだった。

 そして、同時にそんな父アントンのこめかみをしっかりと握り、そのまま持ち上げる、という罰も忘れない。


「意味が分かりません」


「まずは離せ! 痛い痛い!」


「何故、私が――!」


 それは、皇家の正式な印が押された――間違いない皇家からの通達。

 羊皮紙の質を考えても、偽物である可能性は限りなく低いだろう。そもそも、このような内容で偽物を作ろうと思う輩の方が少ないとは思うけれど。

 これにはヘレナにしてみれば嫌がらせの類とさえ思えるものであり、現在の自分を否定するような命令が書かれているのだから。


「何故、私が後宮になど入らねばならないのだっ!」


 それはガングレイヴ帝国当代皇帝ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴ、及び相国アブラハム・ノルドルンド侯爵、宰相アントン・レイルノート宮中侯、三名の連名によって書かれた間違いのない命令書。

 その内容は、レイルノート侯爵家令嬢、ヘレナ・レイルノートに対して、後宮へ入れ、という命令書だった。

 ヘレナはその膂力りょりょくのまま、アントンを投げる。

 ぐふっ、と壁で背中を強かに打ったアントンが、顔を歪めながら背中をさすった。


「あいたた……し、仕方がなかろう、陛下からの命令なのだ」


「……だが、私は今軍人だ! かの『赤虎将せきこしょう』の副官という立場にある! 皇族とはいえ、軍に介入する権限はないはずだ!」


「そんなものは関係ないのだ。そもそも、前帝の崩御がいつか……知っているだろうに」


「……は? そんなもの、知らない方がおかしい。来月の十五日には、一周忌が執り行われるはず」


「『未婚の皇帝が即位した際、伯爵位以上の貴族家は一年以内に未婚の娘を後宮に入れなければならない』……二代皇帝の独断で制定された悪法だが、それでも、法は法だ」


 くっ。

 ヘレナは唇を噛む。それは間違いのないガングレイヴ帝国の法律であり、法律書にも記載されていることだ。

 皇族である以上、そこに最高級の宮医が存在する。そんな皇帝が早世することなどまずありえないし、次代の皇帝に引き継がれるまでに皇子の婚姻が決まるのが当たり前だ。だが、もしも現実となれば貴族たちの子女を皇后とすることができるかもしれない、という甘美な果実をはらんでいる。


 そしてそんな悪法は、前帝の早すぎる崩御によって現実となった。

 弱冠十七歳にして即位したファルマスは、皇帝としての教育を受けている最中に突如として皇位を受け継ぐことになった。それゆえに、その立場に婚約者やそれに準ずる者などおらず、皇后の座は未だ空位である。


 二代皇帝の悪法に、貴族はそれこそ喜んだことだろう。

 後宮に入るということは、皇帝陛下の側室に自分の娘を上げることができるかもしれないということだ。そして世継ぎを産むことになれば、国母の家系として自分たちの地位は安泰だろう。少なくとも外戚がいせきとして政治に口を挟むことすら可能になる。

 まさに、貴族にしてみれば垂涎すいぜんの出来事。

 だが、軍人であるヘレナにそんなものは何も関係がない。


「我が家における未婚の娘は、ヘレナ……お前だけだ」


 レイルノート侯爵家には、三人の娘がいる。

 長女のヘレナ、次女のアルベラ、三女のリリス。

 しかしアルベラは幼い頃から決められていた婚約者と結ばれ、共に暮らしている。リリスも同じく留学生として来ていた隣国、ガルランド王国の若者と恋に落ち、若くして結ばれた。

 残る者は、現在二十八となり令嬢(笑)と呼んでもいいくらいに、社交界に認識されていない長女ヘレナ一人だけである。


「……父上、自分が何を言っているのかお分かりか?」


「勿論、分かっている」


「私は社交界のマナーを何一つ知らない。踊りも踊れないし、ドレスだって持っていない。令嬢に知り合いなどいるわけがなく、他家との繋がりも何もない。十五からずっと戦場で槍と剣を振るっており、二十八にまでなった。そんな私に、今更後宮に入れと、そう言うのですか?」


「……それ以外に何もできないのだから、仕方あるまい」


 アントンは、苦々しくそう呟く。

 勿論、これが無茶な後宮入りだということは、アントンにだって分かっているだろう。少なくともヘレナにとっては、後宮に入れ、よりも一人で一個大隊殲滅せんめつしてこい、の方が現実的だ。

 だが、それでもアントンがヘレナの後宮行きを推す理由――。

 はぁ、と大きく溜息を吐きながら、アントンが肩をすくめる。


「そもそも、私を宰相としたのは前帝だ。陛下に苦言を申し上げることも多々ある。そして……アブラハム・ノルドルンド侯爵を相国そうこくに任命したのは、現在の陛下だ」


「はぁ……。よく分かりませんが……宰相と相国の違いとは何なのですか?」


「何も変わらない。どちらも、臣下としての政務における最高位だ。国政において皇帝を補佐する者、という立場だ……つまり、現在の宮廷は最高位が二人いる、という認識でいい」


「……なるほど」


 ちっ、とアントンが苦虫にがむしつぶしたように顔を歪める。

 宮廷というのは、国政における最も重要な場所だ。最終的な決定権は皇帝にあるが、そこに付随する貴族の力、というのは無視できないものである。

 少なくとも宰相であるアントンは帝国の国政を司る存在である、という責任感を持って人事を行っている。より能力の高い者が国を纏めることができるように、と考えており、それは臣下として相応ふさわしい考えだ。


 だが、貴族の誰もがアントンのように考えているわけではない。

 宮廷とは魔窟まくつだ。そこに幾多の利権が絡み、人事の一つだけでも巨額の金が動く。中にはその立場を、大枚をはたいてでも欲しがる者がいるのだ。

 ノルドルンド相国がどのような人物かは分からないが、現在の皇帝によって相国という、宰相に匹敵する存在へと任命された。つまり、諫言を嫌うファルマス皇帝陛下に調子の良い言葉ばかりを並べてきたのだ、と考えていいだろう。

 どう考えても、ろくな人間ではない。

 

「遺憾なことだが、これは宮廷内を分裂させろ、と言っているのと同じことだ。できるならば、陛下は私を罷免してノルドルンドを宰相にしたかったのだろう」


「……なるほど」


「だが、私は前帝の遺言で、死後のファルマス陛下の補佐を任されている」


 宮廷では有名な話だが、前帝ディールは自分の死後、国政についてをアントンに一任している。

 それは、前帝の死のふち――そこに呼び出されたのは、当時は第一皇位継承者であったファルマスと宰相であるアントンだった。


 ――どうか、ファルマスを導いてやってくれ。ファルマスよ、我が死後は、必ずアントンを頼れ。余の最期の命令じゃ……我が死後、十年はアントンを宰相とせよ。


 これは公式な遺言として定められており、前帝の最期の命令だ。これをないがしろにすることは、さすがに現在の皇帝であるファルマスにもできない。

 だからこそ、民により良い政治を行うように、時にはファルマスへと厳しい諫言を述べることもあった。

 幼いファルマスに、それは我慢できなかったのだろう。


「……お前には、本当に申し訳ないと思っている」


「父上……」


「いくら現在の皇帝であるとはいえ、理解に苦しむことだ。権力を二分するなど、それこそ宮廷を二分する行為に他ならぬ。宮廷は、それこそ魔窟、という言い方すら危ういほどだ」


 権力の中枢にいるアントンにとって、現状がどれほど薄氷の上に立った政治であるか、それを身に染みて分かっている。

 宮廷は今、『宰相派』と『相国派』の二つに分かれている。そして派閥を広げ、発言力を増した方が宮廷の人事を司ることになる。現在はアントンが人事を司っているが、もしも権勢が『相国派』に移れば、それこそ国の危機だ。


「加えて、ノルドルンドは後宮へ……噂の美姫であるシャルロッテを入れているのだ」


「……どなたか存じ上げませんが」


「ノルドルンドの縁戚えんせきの一人で、社交界でも噂の美姫だ。年齢は十六歳……陛下には、丁度良い年齢だな。こちらも、派閥の中から美姫をそれなりに入れているが……」


 そこで、アントンは苦虫を噛み潰すかのように渋い顔で、ヘレナを見る。

 ひとまず、ヘレナは相づちを打つだけに留めた。


「……ふむ」


「お前の役割を、理解したか?」


「私が、父上の望むように振る舞えるかは、分かりませんが」


 アントンの狙い。

 それは宮廷の表は『宰相派』の頂点としてアントンが、『相国派』の頂点としてノルドルンド侯爵が立つ。宮廷の裏は、『宰相派』の頂点としてヘレナが、『相国派』の頂点としてシャルロッテ令嬢が立つ。これにより均衡状態を作り上げる――。


「そうだ。恐らく、お前に陛下の寵愛ちょうあいは与えられないだろう。あまりに年齢が違いすぎる。だが……お前が軍人として成した名声や武力は、必ずや後宮において『相国派』に対する牽制けんせいになるだろう」


 それはアントンにしてみれば、娘を嫁がせるよりもはるかに重い。

 皇帝の寵愛など得られないであろう、ということが分かりきっているというのに、政治のバランスを保つためだけにヘレナを後宮に入れる。

 要は、父親ではなく一人の政治家として、娘を利用しているのだ。


「なるほど」


「分かってくれるか?」


「ええ」


 だが、ヘレナはそう承諾する。

 これ以上ごねたところで、未来は何も変わらない、と判断してくれたのだろう。そこに、アントンは安堵した。

 ヘレナの上官には――ヴィクトルには、申し訳ないけれど。


「では父上、後宮に入るための準備は、父上の方でお願いします」


「わかった」


「それから、父上の命令で構いませんので、ヴィクトルを……『赤虎将』を、最前線に戻してください。私が後宮へ入る旨は、後ほど書面で報せます」


 失礼します、と言ってヘレナは父の執務室を出る。

 そしてその端整な顔で、眉根を寄せて、首を捻った。

 何となく分かっている振りをしていたけれど、権力の中枢のことなんて何も分からない。

 アントンの言葉も、途中からほとんど分からないので聞かなかった。

 何だか「分かってくれるか」とか何とか言われたから生返事を返してしまったけれど、本当にそれで良かったのだろうか。


「ふむ……」


 とりあえず、ヘレナに理解すべきことは、自分が後宮に入る、という一つだけでいい。

 あとはアントンが何とかしてくれるのだろう。


「……私にできる役割。ええと、陛下に剣を教えるとか、か?」


 かくして。

 脳まで筋肉で支配された武姫は、己のやるべきことなど何も理解することなく、後宮へ入ることになった。

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