脳筋令嬢と暴走系少女たち(4)


 ちゅんちゅん、という鳥の囀りと共に、ヘレナは目を覚ます。

 寝台がもう一つ増えたおかげで、ファルマスがやってきた夜でも、ヘレナは問題なく眠りにつくことができるようになった。だが、目覚めると共にやや凝りの残る体を伸ばし、上体を起こす。

 そして、このように早い時間にファルマスを起こすわけにもいかない。朝にお茶を飲む時間くらいは欲しいと言っていたが、さすがに早すぎるだろう。

 ゆえにヘレナがまず行うのは、鍛練である。


「よし」


 ファルマスは寝ているが、一応目につかない位置で寝間着から部屋着へと着替える。とはいえ、別段意味のない抵抗だ。立場上、ファルマスはヘレナに脱げと命令することもできるし、そう命令されればヘレナに断ることはできない。

 色々と複雑だ、と軽く嘆息。

 そして動きやすい部屋着に着替えれば、まず腕立て伏せである。

 ファルマスを起こすまでという短い時間ではあるが、それでも相応の鍛練はできるだろう。

 アレクシアがいないために負荷は少ないが、それでも回数をこなすことにこそ意味があるのだ。


 ふん、ふん、と腕立て伏せを繰り返す。数など全く数えない。回数を数えると、目標の回数をし終えて満足してしまうのだ。だからこそ、己に制限をかけずに、ひたすらに体を苛め抜く方が良い。

 腕立て伏せが終わったら、今度は腹筋だ。

 今日は趣向を変えて、思い切り足を跳ね上げ、そこからゆっくりと下ろしてゆく。そして尻をつけずにもう一度足を跳ね上げる、という運動を繰り返す。腹筋へとダイレクトにかかる負荷は、苦しくもまた嬉しい悲鳴だ。

 歯を食い縛りながら、繰り返す。ただの腹筋よりも激しい負荷のかかるこれは、アレクシアがいなくても十分な負荷となる。もっとも、アレクシアがいるならば跳ね上げた足を押してもらうことで、より大きい負荷にもなってくれるのだが。


 さすがのヘレナの腹筋でも、これは連続で五十回くらいが限界である。

 はぁっ、と大きく息を吐いて、少し休憩。そのままキッチンへ向かい、薬缶を火にかける。

 それから今度は屈伸だ。薬缶が沸騰しすぎないように見ながら頭の後ろに手をやり、ひたすらに体を上下に動かす。負荷は太腿、そして脹脛にかかり、回数を重ねるたび痺れるような感覚に陥る。

 だが、それは苦痛であり、快感なのだ。

 まだまだ、ヘレナの体には鍛えるべき箇所が多い。それは喜びにも繫がる。

 そして、薬缶が沸騰した頃には鍛練をやめて、休憩ついでにファルマスを起こしに行く。


「おはようございます、ファルマス様」


「む……」


「朝です、ファルマス様」


「ううん……」


 ファルマスは、なかなか一度で起きない。

 朝にあまり強くないのか、そのようにヘレナが起こそうとすると、布団を顔にかけようとするのだ。そういった面も可愛らしいと思ってしまうのだが、しかし早めに起こせ、とヘレナに命じたのもまたファルマスである。


「ファルマス様」


「ん……」


「起きてくださいませ、ファルマス様」


「んあ……うるさい……」


 まったく困りものだ。

 そんな、手のかかる弟のように思えるファルマスは、目を閉じたままで眉間に皺を寄せている。

 そんな様子がどことなく可愛く思えて。

 つい、ヘレナは。


「ファルマス様……」


 ちゅ、とその頬に、口付けした。

 した後で、はっ、とすぐさま後ずさる。一体何をしたんだ自分は、と誰もいないはずの部屋で、ついきょろきょろと周囲を窺ってしまう。

 傍から見れば、完全に不審人物に違いあるまい。

 こほん、と咳払いを一つ。

 ファルマスも起きておらず、目撃者もいない。そしてヘレナとしても、ちょっとした気の迷いだということにしたい。その帰結として、ヘレナは何事もなかったこととした。


「ファルマス様、朝でございます」


「む……もう、朝か」


「はい。お茶を淹れておりますので、起きてください」


「ふぅ……」


 もぞもぞ、と寝台で動いて、ゆっくりとファルマスが起き上がる。

 その目は、明らかに眠い、と訴えている半眼。昨晩はヘレナの方が先に眠ったため、ファルマスがいつ寝台に入ったのかは知らない。

 だけれど、恐らく夜更かしをしていたのだろう。


「すまぬ、手数をかけた」


「いえ。問題ありません」


「茶を貰おう。ひとまず、そなたも座るがよい」


 ファルマスがゆっくりと立ち上がり、ソファへと向かう。

 ヘレナも同じくソファへ向かい、まず顔を洗いに向かったファルマスを待つかたちで、先にソファへと座った。

 沸かしたばかりの茶ではなく、少し経ってやや熱め、くらいになっている茶だ。このくらいならば、ファルマスも飲みやすいだろう。


「ふむ」


 顔を洗ってきたファルマスが、戻ってくる。

 その顔はどことなくすっきりしているようにも思えるが、しかし眠たげなことには変わりない。

 そして、何故か。

 ヘレナの座るソファの、正面ではなく。


「あの、ファルマス様」


「ふむ、やはり二人だと狭いな。もう少し寄れ、ヘレナ」


「え……あ、はい」


 何故か、ヘレナの座っている方のソファへと、無理やりに腰掛けてきた。

 一人で座ってやや余裕がある程度のソファは、当然ながら二人も座れば、かなり狭い。


「あの、ファルマス様」


「時には顔を突き合わせて茶を飲むよりも、横で同じ方向を向きながら、というのも良かろう」


「はぁ……」


「まぁ、言い訳だ。眠い。このように締まりのない顔でそなたの前に座るのが許せぬ。それだけだ」


 ファルマスの顔は、やや眠そうなだけで、いつも通り整っていると思うのだが。

 しかし、本人がそう言うならばそうなのだろう。

 ファルマスがお茶を一口飲み、そしてヘレナも同じく飲む。

 狭いソファに二人で座っているがゆえに、その距離は近すぎる。具体的には、肩が当たっているのだ。

 なんとなく、肩が当たっていると自覚してしまうと、無性に恥ずかしさが芽生えてきた。


「ふむ……」


「ファルマス様……? どうか、されましたか?」


「いや……すまぬ、少し触ってもよいか?」


「さ、触……!?」


「いや、変なところは触らぬ。少し気になってな」


 ファルマスがゆっくりと手を伸ばし、ヘレナへと触れてくる。

 嫌というわけではないのだけれど、恥ずかしさに顔を紅潮させながら、ヘレナはその触れてくる手を、受け入れた。

 そんなファルマスの手が触れてくるのは。

 ヘレナの、二の腕。


「……硬いな」


「……はい?」


「いや、随分鍛えておるのだな。さすがは武人といったところか。余とは鍛え方が全く違う」


「そ、そうでしょうか」


「うむ、太い」


 ファルマスに、恐らく悪気はなかったのだろう。

 だが、その一言は、ヘレナに衝撃を走らせた。

 恐らくその言葉は、女子に決して言ってはいけない言葉のワーストワン。

 そして、ヘレナもまた、女子なのだ。武人であるということを気にしなければ、女子なのだ。

 そんなヘレナに、ファルマスは言った。

 太い――と。


「うむ、余もそれほど鍛えたいものだ。グレーディアに鍛練の時間を増やしてもらうとするか。しかし、あやつは手加減をするなと申しても、絶対に全力を出してこぬからな。余など全力を出す必要などないのだろうが……む、ヘレナ?」


「……」


「どうした? 気分でも悪いか? そなたに何かあれば、余のこれからにも関わる。必要ならば宮医を呼ぶが良い。余に遠慮はいらぬぞ」


「いえ……」


 ただ、ショックで放心していた、とはとても言えない。

 だがファルマスは不思議そうに首を傾けて、話題に対して生返事をするだけのヘレナを気遣ってくれる。

 だというのに。

 あまりの衝撃に、ファルマスから贈られるはずの出仕前の口付けも、避けてしまった。


「……」


「……」


「……余は、何かしたか?」


「いえ……」


 首を傾げながら出仕してゆくファルマスの後ろ姿を見送り、ヘレナは寝台へうつ伏せになる。

 太い。

 太い。

 太い。

 その言葉が、耳から離れてくれない。

 こんこん、とノックの音。恐らく、アレクシアだろう。

 このような姿勢で迎えるというのも申し訳ないが、アレクシア相手ならいいだろう。


「おはようございますヘレナ様……ヘレナ様!? どうなさいましたか!?」


「……おはよう」


「またお酒を飲みすぎたのですか!? お酒は控えてくださいと申し上げましたのに!」


「……違う」


 酒など一口も飲んでいない。ただ、衝撃だったのだ。

 どうしてこんな一言で、自分がそれほど傷つくのか、意外であるけれど。


「では、どうされたのですか?」


「……言われた」


「はい?」


「ファルマス様に……太いと、言われた……」


 アレクシアは、そんなヘレナの言葉に、首を傾げて。

 そして、その鍛え上げられた二の腕を見て。


「……それが、何か?」


 そう、不思議そうに聞いた。



     ◇◇◇



「ダイエットをしようと思う」


「ヘレナ様、お気を確かに」


 冷めた朝餉あさげを食べ終えて宣言をしたヘレナに対して、アレクシアが頭を抱えながらそう言った。

 ファルマスは間違いなく、ヘレナのことを太いと言った。そして太いという言葉は大半の女子に対しては、蔑む言葉となるのだ。

 そしてヘレナは『陽天姫』という正妃に準ずる存在である側室なのだ。そんなヘレナが太いということは、即ちファルマスを貶めることにも繫がってしまう。

 特に、一周忌の式典の後に行われる夜会に、ヘレナは出席せねばならないのだ。そこには他国の重鎮も多くいると言っていた。つまり、他国からしてヘレナは正妃――このガングレイヴ帝国の皇后として扱われるのである。

 そんな女が太ければ、即ちガングレイヴ帝国を貶めることになるのだ。


「アレクシア、良いダイエット法はないだろうか」


「わたしの知る限り、ヘレナ様にはダイエットは必要ありません。全くもって必要ありません」


「だが私は太いと言われた。ならば痩せることこそが、私の責務ではないか」


「一般的に太いと言われる方は、無駄な贅肉が多いから言われるのです。ヘレナ様のように引き絞って引き絞って引き絞った結果としての体は、どう考えてもダイエットをする必要などありません」


 そんなヘレナの主張は、ことごとくアレクシアに妨げられる。

 太いと言われたらダイエットをするのが、一般的な女子ではないのだろうか。

 しかし、アレクシアは頭を抱える。


「あのですね、ヘレナ様」


「どうした」


「どう考えてもヘレナ様は、鍛えすぎです」


「む……」


 確かに、後宮に入ってからは何も娯楽がないため、ひたすら体を鍛えていた。

 そのせいか、後宮に入る前よりも二の腕が太くなった気がする。ヘレナの思い込みだと考えていたが、ファルマスに言われるということは、きっとこの腕は太すぎるのだろう。

 ならば、細くしなければならない。


「では、どうすれば良いのだ」


「暫く鍛練をお休みなされてはいかがでしょうか?」


「馬鹿を言うな。鍛練とは毎日積み重ねることによって、強靭な肉体を作り上げるのだ」


「その強靭な肉体が太いと言われて悩んでいるのは誰ですか」


「う……」


 確かに、ヘレナの主張は矛盾している。

 鍛練はやめたくない。だが、細くなりたい。

 鍛え上げた体を細くするためには、鍛練を休むのが一番だ。

 だが、それにより弱くなってしまう自分が嫌だ。


「……後宮に入る前よりも、腕が太くなった気がするのだ」


「それは……仕方のないことかと」


「何故だ? 私の鍛練は、以前とそれほど変わらないぞ」


「運動の内容の違いだと思います。ヘレナ様は腕立て伏せ、腹筋、屈伸運動などを午前中されて、午後から女官五人で運べる重さの大剣を振り回しています。これは完全に、強靭な筋肉を作り上げる鍛練です」


「……そうだが」


「よく考えてみてください。後宮に入る前と、入った後、やっていない鍛練があると思いますが」


「ふむ……」


 思い返す。

 戦場では、ひたすらに走り回るのが当然だ。だが、戦場に出なくても良い日に行っていたのは、どのような鍛練だっただろうか。


「そうだな……平日も休日も問わず、朝起きたらまず走っていた。平日は軍の施設で訓練を施し、休日は全身の鍛練を、昼食までしていたな。その後は剣を振り、時折ヴィクトルと模擬戦を行っていた。夕食を食べた後に軽く走り、それからヴィクトルや他の面々と共に酒を飲んでいた」


 大抵のヘレナの一日は、この繰り返しだ。

 現在、足りないものは――。


「なるほど」


「ご理解いただけましたか?」


「酒を飲んでいないな」


「そっちではありません」


 そもそも、酒を控えようと誓ったのはヘレナだ。

 それを今更、酒を飲む日々に変えよう、と思う時点で自己が脆弱すぎる。


「ふむ……確かに思い返せば、走っていないな」


「そうです。わたしも兄から聞いただけですので、よく分かってはいませんが……筋肉を太くつけたいならば、走らない方が良い、と言っていたのです」


「そうなのか?」


「はい。逆に筋肉を細く、全体をしなやかにするには走り込みと鍛練をしなければならない、と言っていました」


「ふむ……」


 後宮に入る前は、これほど腕が太くなかったはずだ。

 と、いうことは、やはり鍛練が過剰だったことと、走り込みをしていなかったことが原因だろう。

 つまり、ヘレナは走れば良いのだ。


「よし、では走るか」


「どこを走るのですか」


「……」


 ここは後宮である。

 全体的に敷地は狭く、最も広い中庭でさえもそれほど広くはない。剣舞をするならば丁度いいが、さすがに猫の額ほどしかない中庭を走る、というのは難しいだろう。

 走り込みをするには、広い敷地が必要なのだ。


「……しまった。全く解決策が見当たらん」


 はぁ、と大きく溜息を吐きながら、冷めかけたお茶を飲んで喉を潤す。

 鍛練は休みたくない。だが筋肉は細くしたい。そんな相反する願いを、両方叶える手段があればいいのだが。


「走ることができないならば、せめて歩くか」


「歩く……ですか?」


「ああ。走ると迷惑だろうけれど、歩くくらいならば構わないだろう」


「まぁ……そうですね」


 さすがに、後宮の廊下を全力疾走するほどにヘレナは非常識ではない。だが、散歩という形で早足で歩くくらいならば問題あるまい。

 あっ、とそこで思いついた。


「よし、決めた」


「はい?」


「私の分の昼餉は、用意しなくてもいいぞ」


「はい?」


 意味が分からない、とばかりにアレクシアが眉を寄せる。

 基本的にヘレナは健啖だ。何を出されても割と食べる。今まで何一つ、食事の類を残したことがないのだ。

 そんなヘレナが、いきなり食事をやめると言い出すのは――。


「うむ。ダイエットに必要なのは、やはり食事制限だ。朝だけを食べる形にして、昼と夕は抜こう。よし、それでいい」


「あまり、食事を抜くのは……」


「なに、戦場では一日二日食べずとも戦うことができた。食事を少々抜いたところで問題はない」


「……ヘレナ様がそれでいいのでしたら、構いませんが」


「ああ。問題ないぞ」


 考え方が完全に斜め上のヘレナのそんな提案に。

 アレクシアは、ただ溜息を吐くだけで何も止めなかった。

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【書籍版】武姫の後宮物語2 一章 カドカワBOOKS公式 @kadokawabooks

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