第4節. レンと"アガタ"と寡黙な随行者

68. アガタ

7月7日の朝6時。閑静な住宅街にある一つのこぢんまりとした2階建ての一戸建て。


“五十嵐”と書かれた表札が、玄関の上部に掲げられている。


その家の家事担当の住人は窓から入り込む爽やかな朝日を浴びながら、可愛らしいピンク色のエプロンを身に着けキッチンで朝ご飯の準備をしていた。


最年長は既に家にはいない。

そんな例外を除く他の人の為に、朝食を作っていた。


フライパンに油を引きソーセージを焼きながら、卵を溶く。パチパチとした油の弾ける音がし香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。


それが終われば味噌汁の暖め直しを始めた。

煎茶色のスープをお玉で掻き混ぜ、柔らかい渦を生み出す。



基本的には一日の大半を家事に費やす日々を過ごしているがそれに不満は無い。

自らも住むこの家の家族に対して奉仕することに疑問を持ったことは一度も無い。


作った料理を食べてくれる。

洗濯した洋服を着てくれている。

掃除した部屋で過ごしてくれている。

――――話してくれる。受け入れてくれる。


それだけで、穏やかな幸せを感じることが出来るからだ。

そしてそれは計り知れない価値を有している。




食器乾燥棚から、蛍光オレンジの小さなプラスチックのお弁当箱を2セット取ると机の上に並べた。


この家に住む、双子の女の子のお気に入りのお弁当箱。

そこにピンク色のバランをセットしながら、彼女たちのお昼ご飯を考える。


幼稚園児である彼女たちの好みと流行り、そして栄養バランス。

お弁当の中身を考える上で、それらが大事なことだ。


砂糖入りの甘い卵焼き。じっくりと煮込んだ人参と高野豆腐の煮しめ、キャラクターの顔の形のポテト。今が旬の真っ赤なさくらんぼ。そんなところだろうか。



彼女たちのはにかんだような笑顔を想像すると、心が温かくなる。

血が繋がっていない自分にも、彼女たちは懐いてくれている。


将来的には彼女たちと、この家の住人達と、本当の家族になれるかもしれない。


そんな期待が抑えきれない。




「――――おはよう。いつも、すまないなぁ」

扉の方から、眠たそうな男性の声が聞こえた。


紺色のパジャマを着ている彼は、起き抜けであるのだろう、

目をショボショボとさせながら、キッチンにある椅子へと腰かける。


そしてタブレットにスイッチを入れると彼の朝の日課である、メールチェックを始めた。


「あぁ。やっぱりか。――――今日の俺の夕飯は作んなくていい。殴り込み事件の会議が夜に入った。絶対夕飯には間に合わんからな」

この家の大黒柱である彼、五十嵐正芳は憂鬱そうに言うと、タブレットの画面を落とし、脇に置いた。


そのタイミングに合わせてコーヒーが入ったカップを正芳の傍へと置く。

香ばしい匂いが鼻孔を刺激する。

砂糖もミルクも無し。

ブラックが正芳の好みであることは重々に理解していた。


正芳がそれに手を伸ばし、口へと運ぶのを見ると朝食づくりへと戻る。


「一般には、あの殴り込みは文部科学省ってことで報道されているが、実際は特異庁に来たんだ。庁内の警備担当の俺も会議に呼ばれたよ。ったく」


顎にうっすら生えた無精ひげを撫でながら、正芳はそう零した。

そんな彼の気だるげな様子には、色気が交じっている。



過去。

正芳と初めて会った時に一目で気に入られ、この家に住むことになった。

こんな自分を家に置いてくれている。

それだけで、正芳に対して愛情が芽生える。



「………………そんなに毎日、家事を頑張らなくてもいいんだぞ。そんな風に頑張らなくても娘たちも、俺も―――お前を愛してるんだから」



正芳が頬を赤らめ、照れくさそうに言ってきた。

気恥ずかしさを隠す為か言い終わるとすぐにコーヒーを口に運び、タブレットへと視線を落としたのが目に入る。



「着替えてくる」

ブラックのコーヒーを飲んで完全に目が覚めたのか、正芳は立ち上がると、寝室へと戻っていった。


その間に、ソーセージ入り目玉焼きと、くし型切りのトマトを平皿に盛り付け、味噌汁とご飯をよそい、正芳の席へと並べる。

鍋に入った煮物と、瓶から大根の漬物も出して小皿にいれ机の中央へと置く。



そろそろ双子の彼女たちも起きてくる時間だ。

そうすると一気に朝が賑やかになり、そしてさらに忙しくなる。


その前に、燃えるごみを出しておこう。



そう判断すると、ピンク色のエプロンを椅子の背もたれに掛け、机の上に置いてあったスマフォをポケットに入れると、まとめてあった90 Lのゴミ袋を掴むと、玄関へと向かった。



靴を履き、外へと出る。

7月にしては、強く暖かい日差しを浴びながら、ゴミ捨て場への道を歩く。


珍しいことに、視界には他の人が、誰一人として映ってはいない。

一瞬、今日が休日であるかと錯覚したが、そんなことはない。只の平日な筈だ。


だが、何時もみるスーツにネクタイ姿の人々は、いない。


それに若干の違和感を覚えつつも、ゴミを出し、家へと戻った。






――――――









体が重い。


視界が暗い。


眠っていたのだ。何故?


早くお弁当を作らなければ。


燃えるごみも捨てなければならない。


―――いや。ごみは捨てたような気がする。


そうだ。捨てた。


捨てた後に、ベッドへと戻って寝たのだろうか。

そんなに疲れていたのだろうか。



違う。


違う。


そうだ。


思い出した。



ゴミ捨てを終え、玄関で靴を脱いでいる時だった。


ポケットが急に光り出したかと思えば、目の前の空間が割れた。


見たことも無い景色を映し出し、しばし、それを茫然と見つめていたら。


そうだ。


風が吹いた。


流れが生じた。


吸い込まれたのだ。


あの、割れた空間に。



意識をぼんやりと吸着させながら、ゆっくりと目を開ける。


仰向けに寝ていたようだ。


日光の光が直接、瞳へと侵入してきた。


反射的に目を閉じてしまう。


もう一度、おそるおそる開けてみる。


すると。


黒い人影が、一人。



自分を覗き込んでいた。







それが異世界の住人と――――“アガタ”の、邂逅だった。




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