10-24
8月7日(水) 22:56
「ただいま」
朱宮さん達との食事を終えた後、一切寄り道せず特急を利用して真っ直ぐ山梨へと帰宅。
それでもこんな遅い時間になってしまった。
「おかえりー」
真っ先に来未がパタパタと駆け寄ってくる。
明らかに夜食用の土産品狙いだけど、生憎今回はそんな物買ってる暇はなかった。
「おやすみー」
「あっ! 手ぶらなの確認した途端引き返しやがった!」
我が妹ながら現金にも程がある……別にブラコンになれとは言わないけど、もうちょっと兄に興味持とうよ。
「どうだった? ちゃんとお仕事できた?」
「あ、うん……一応。って言っても、別に何かやるって訳でもなかったんだけどさ」
その来未と入れ違いで、苦笑いしながら母さんが玄関にやってきた。
こんな時間に帰宅する事なんて滅多にないから、なんか新鮮だ。
「お風呂はどうする?」
「んー……入る」
「もう湯船に溜めてるから、そのまま入っちゃって」
「うん。ありがと」
……本音を言えば、かなり疲れてるしこれからrain先生とSIGNでやり取りする予定だから、直接部屋に戻りたかった。
でも帰りの時間を事前に知らせていたから、多分もうお湯を張ってくれているのは想像できた。
断る訳にはいかないよな。
「おう。帰ったか」
「ん」
親父には無理して笑顔を振りまいたり、こんな時間にわざわざ部屋から出て来てくれてありがとう、みたいな事は言わないし思いもしない。
でも、母さんにはそういう訳にはいかない。
この意識が正しいのか、それとも正しくないのか……多分俺は一生わからないんだろうな。
でも何となく、無理に『気を遣わない間柄』にならなくても良いとは思ってるし、気を遣う事も遣われる事もあって良いんじゃないかって思えるようにはなってきた。
余所余所しいって程でもないし、気安い感じでもない。
それが母さんと俺の距離感って事で納得は出来る。
諦めなのか、それとも妥協なのか。
いや……違う。
これくらいが一番楽な関係なんだ。
何か劇的な出来事があって、血の繋がりよりも濃い関係性を築く――――なんて都合の良い現実はなかった。
これからも、きっとないんだろう。
だからこれで良いんだ。
「ふぅ……」
風呂の温度は、夏場の割に心持ち熱めだった。
電車の冷房で身体が冷えていたから、芯まで温まるこの感じが心地良い。
あがったら、この事でお礼を言おう。
今までもこれからも、そういう事を探して言葉にして、関係性を保っていく。
そういう親子関係を、遠慮があって良くないなんて……誰が決めるってんだ。
その余所余所しさがずっとあったからこそ、俺は他人との距離感をいち早く覚えられた。
それがあったから、感情を表現できないこの顔でも大きく傷付けられる事もなく生きて来られたかもしれない。
俺にとってそれは死活問題であって、本当に大きなプラスになっていたんだ。
そういう訳だから、この件についてかあーだこーだ考えるのはやめよう。
他に考えるべき事が今の俺にはある。
特に、最優先すべきは――――
『終夜について聞きたい事があるんです』
『いいけど』『答えられる範囲ならね』
8月8日(木) 00:02
ありがたい事に、rain君は午前0時ジャストに時間を空けておいてくれた。
勿論、一刻も早く仕事を再開する為か、一分でも長く睡眠をとる為なんだろう。
こっちも可能な限り時間を取らせないようノンストップでいかないとな。
『終夜がrain君みたいになって欲しいって父親から思われていた話は聞いてますか?』
『一応ね』
『それを踏まえてお聞きしたいんですけど、終夜とはどういう距離感で接してるんですか?』
正直、意地の悪い質問とも思う。
だけどこれを聞かない事には、終夜の心にどれくらいのコンプレックスが残っているのかわからない。
それがわからない事には、いつまで経っても終夜の心は見えて来ない気がする。
俺の表情に多少なりとも改善が見られたのは、関わって来た人達のお陰だ。
その中には終夜も当然含まれているし、終夜との関わりの中で育まれた感情も多分ある。
だから今度は俺が終夜の力になって、彼女のフリーズ癖を改善する為のきっかけになりたい。
『結構キツい事聞くね』
『すみません』
『それって好奇心じゃないよね?』
『はい』『終夜の抱えてる問題を解決する為です』
rain君が何処まで事情を知っているのかわからないけど、ちょっと腑に落ちない事がある。
『前に俺と終夜と水流とrain君の四人でグループトークした事ありましたよね』
『あったね』
あの時の会話は履歴で見返す事が出来た。
朱宮さんの事をアケさん、俺の事をふかっちだのふかっちゃんだの渾名で呼びたがるrain君が、終夜の事は当初『終夜さん』と呼んでいた。
その後、渾名で呼ぶって流れになったんだけど、rain君は終夜の名前を覚えていない様子だったから、終夜がそれを指摘される前に自分の名前を告げていた。
だけど――――
『終夜の名前』『本当に覚えてなかったんですか?』
当時は特に不自然とは思わなかった。
でもその後に終夜の話を聞いて、終夜の名前の由来がrain君の本名――――氷雨だったって話を聞いて、両者の関係性の歪さに気付いた。
rain君と終夜は、共にアカデミック・ファンタジアの制作に関わっていて、挨拶も交わしている。
その時に当然、自己紹介はしていた筈。
『氷雨』という自分の名前とかなり近い『細雨』という名前を忘れるとはとても思えない。
それに、rain君はアカデミック・ファンタジアのプロデューサーである終夜父とも会話はした筈だ。
なら、終夜父が名前の件を話題に出さない筈がない。
この売れっ子絵師に少しでも大きな情熱をもって仕事に当たって欲しいなら、尚更親近感を持って貰う為に話す筈だ。
『覚えてたよ』『ちゃんと』
……やっぱりか。
だとしたら、あの時の終夜の反応は――――
『終夜さんは全然気にしなくてもいいけど』『っていうか、お父さんも終夜だから紛らわしいね』『渾名で呼んでいい?』
『はい、呼んで欲しいです』『昔から苗字でばかり呼ばれているので』
『あーちょっとゴメン』『こんな事言っといてアレだけど』
『細雨ですよ』
……履歴を見返したから、間違いはない。
明らかに過剰な、忘れられている事に怯えているかのような先回りだ。
rain君の発言も、確かに『名前を覚えていない』と取られてもおかしくない言葉ではある。
でも、素直に見れば『良い案が出て来ない』って続く可能性もかなりある。
名前を覚えて貰えていないという発言をされる前に自分で言う事でダメージを緩和したんだろうけど、それにしたって反応が異常なくらい速過ぎる。
一体どうして――――
『多分だけど』『ボクが名前を覚えていなかったって事にしたかったんだと思う』
『なんで?』
『ボクを嫌な奴にしたかったんじゃないかな』『正確には彼女の中にいるボクね』
それって、つまり……
『拗らせてるって事なんですかね』
『うん』
だとしたら、余りにも闇が深過ぎるよ……
終夜にとってrain君は『親の理想とする自分』だった。
彼女のようになって欲しいという願いで付けられた名前だ。
当時のrain君はまだ幼児だから、当然イラストレーターでも何でもないただの子供だった。
だけど、神童と言われるくらい既に才能が図抜けていた。
そんな彼女のようになって欲しいという期待が、細雨という名前には込められていた。
でも、終夜はrain君のようにはなれなかった。
本人もそれを酷く気にしていた。
多分、今もずっと変わらず。
彼女から見て、rain君は完璧な人生を歩んでいるに違いない。
だからせめて人間的に嫌な奴、ダメな奴であって欲しいって願望があるのかもしれない。
でなければ、自分が全てにおいて下だという劣等感で押し潰されそうになっていたのかも……
『ボクも彼女とは殆ど接点がないから』『父親から聞いた話と照合したに過ぎないんだけどね』
『だとしたら』『あの時本当に忘れてたって感じで返事したのは終夜の為?』
『そんな大袈裟な話じゃないよ』『紛らわしい言い方をしちゃったし』『乗っかるべきだと思っただけ』
……大人の余裕、ってやつなのかな。
逆に終夜の方は現実と向き合えていなかったんだ。
rain君とのSIGNでのやり取りは本当に普通だったし、そこにドス黒い感情が乗っかっているようには思えなかった。
でもそれはきっと、現実逃避――――思考のフリーズだったんだろうな。
『ボクなんて誰かのお手本になるような上等な人間じゃないのにね』
『そんな事はないと思いますけど』
『そんな事あるんだよ』『自分の事は自分がよくわかってるから』『ボクは一皮剥けばまあまあクズだよ』『学生時代は裏垢とか持ってたし』
……え?
それは意外。
っていうか、学生時代にそんなの必要ある?
『一応その頃には仕事を貰ってたんだけど』『その所為で言いたい事も言えなくなっちゃったんだよね』『あの絵はイマイチとか』『あの絵師はパクリばかりやってるとか』『こう見えて結構嫌な奴なんだボクって』
いや、それくらいは別に普通なんじゃ……
『だから公式垢とバレやすい裏垢とバレにくい裏垢の三つを持って』『バレやすい裏垢では良い子ちゃんを演じてたりもしたんだよね』
……それは嫌な奴っていうか、中々の策士だな。
裏垢で同業者の文句を呟いてるのがバレたら、致命的なイメージダウンは確実。
逆に裏垢で褒めていたら『本音で他者を褒められる性格良い人』と思われる。
だから、敢えて『バレやすい裏垢』『バレにくい裏垢』の二つを所有し、悪態や毒はバレにくい方の裏垢で吐き出して、バレやすい方は好感度狙いで本音っぽく綺麗事を言えば、良い印象を持って貰える。
何より、バレやすい方の裏垢が本当にバレた時点で特定しようとしていた人達の意識も全部そっちに向くから、バレにくい方はよりバレにくくなる。
『最悪でしょ?』
『そういうのは要領が良いって言うんですよ』
想像もしないカミングアウトだったけど、rain君への信頼が揺らぐ事はなかった。
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